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2012年2月25日 (土)

インドネシアの紅ハコベ

伝説の革命家タンマラカは出生年も1896年か1897年か不明であり、死亡も1949年の2月19日と4月16日の両説があり、「伝説の」と言う言葉を頷かせるが、20年にも及ぶインドネシアを離れた海外生活も官憲に追われ、「獄中から獄中へ」と現れては消えた生きざまは怪傑ロマンである。
出身はミナンカバウの母方が貴族の流れにあり、ミナンカバウの男子の伝統的出稼ぎに似た、星雲の志躍如たるものがある。この様な生きざまの背景はミナンカバウの長老が彼をオランダに留学(1919迄5年間)させそこで共産主義など政治哲学を学んだこと、農園クーリー生活から、オランダの支配への戦いへ、そしてインドネシア共産党を指導(1921年議長就任)し、そこからインターナショナルコミンテルンに近づき国際コミンテルンから東南アジアの指導を任されたこと、妥協を許さぬ革命性はロシア革命に触発され又イスラムとの両立の立場からインドネシア共産党からの離脱し、植民地独立はヨーロッパコミンテルンからの離脱となり、寄って立つ所は人民の中であったことである。
この時代、1905年頃イギリスで書かれた「紅ハコベ Scarlet Pimpernel」と言う小説は、行きすぎたフランス革命が無実の貴族たちをギロチンに立たせ、この救助に立ちあがったイギリスの怪傑紅ハコベ団の話が劇や小説、映画で一斉風靡しており、これを翻案した大衆小説「インドネシアの紅ハコベ」はタンマラカを暗にしめしており彼の名声に繋がった。
これで彼がインドネシアの紅ハコベと言われるのかの背景は解ったが 秘密結社の名前となった紅ハコベの由来は解らない。ハコベは庭先に生えている雑草で鶏のえさなどに使うが人間も春の七草のひとつで食するものの、紅ハコベは日本にはない。

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