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2012年2月27日 (月)

日蘭交流のライデン市

読売新聞、「地球、時の散歩」で蘭日交流の記事が目についた。何故日蘭でないか不思議であるがオランダは小生のテーマ インドネシアを通じて次点のテーマである。鎖国時代、日本が国を開いた国で最大の交流トッピックスはシーボルトSiebolt(1796~1866)で、彼の作った礎が今受け継がれているライデン市の話である。シーボルトが持ち帰った日本からの収集品が、ライデンに持ち込まれ彼は1832年から1845年までここに住み日本研究を続けたと言う。現在はシーボルトハウスと言う博物館に保管されている。又オランダでの由緒あるライデン大学はシーボルト存命中の1855年に日本語学科を設置した。東日本大震災にはこの学科の学生たちは3,000羽の千羽鶴を折って祈ったそうである。
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写真はライデン市風景、読売新聞から。
シーボルトはドイツ人で1823年から長崎のオランダ商館の医師をしながら、日本に関心を持ち研究を続けたが1828年のシーボルト事件で追放された。、この1855年当時はドイツで余生を送っていたが、鎖国が解かれた1859年に再来日し日本人の妻であるお滝さんと娘のイネと再会している。再開の下りはは杉本苑子女史の小説「埠頭の風」に取り上げられこのブログでも明かしている。
シーボルト事件は彼の帰国の時の積み荷に伊能忠敬の日本地図の彼が作った写しが見つかったことが発端となって、幽閉され最後1831年に追放されたがその他のコレクション12,000点は携行できたようだ。これら蒐集品・記念品はライデンだけでなくドイツのボン大学、ボーフム大学にもあり、その一つにシーボルト自筆の「蝦夷地図」があり(ボン大学所蔵)、その没収された地図を彼の驚異的な記憶力によって再現して大著「Nippon」におさめたものの下絵があるそうで、いつぞや日本で展示の為里帰りしていた。


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コメント

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

投稿: 株の買い方 | 2012年10月28日 (日) 20時07分

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