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2012年4月の投稿

2012年4月30日 (月)

プラボォの狙い HKPIの日

今日はHKTIの日と書き出してアップ忘れて3日、Himpunan Kerukunan Tani Indonesia農民調和協議会と言うのが1973年4月27日に設立されたそうだ。当時の農民団体14団体が集まって会議を開いた日である。スハルト時代に作られたインドネシア独立30年週年記念事業のアルバムにはこのことは書かれていない。当時の歴史背景を見ると1971年に久しぶりだ2回総選挙であるが相手なしのゴルカール圧勝だった後、1973年にはPPP、PDIが成立しているから集約させられたのであろう。今は多分選挙の大きな地盤になると思われ、不釣り合いなPurabowoが会長をしているようだ。1973年の米の作付面積は 8.3百万haで生産が14.7百万であった。未だ需要に追い付かず干ばつもあり輸入米の配給に頼っていた。米は1984年に自給を達成したが又輸入国に陥っている。
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農夫を自称して農作業に励んだ元住宅大臣であり林業大臣も務めたSiswono Judo Husodoも元会長である。写真は彼の本拠の事務所ビル。
今日は又Hari Permasuyarakatan Indonesiaであるそうだが関連は知らない。


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2012年4月29日 (日)

ニコライ堂の鐘

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神田駿河台近辺の散歩で友人が案内してくれた所が通称ニコライ堂と言う教会である。緑青をまとったドームを持つビザンチン式様式で重要文化財でもある。標識板には東京復活大聖堂と出ておりこれがニコライ堂の正式名で日本ハリストス正教会が持っているようだ。関東大震災では大ダメージを受けた後復活したが、復活はイエスキリストの復活である。鹿鳴館時代の建物(1891年築)でロシア人のシチュールポフの設計で監督はコンドル、東京大空襲は免れ、焼け野原の東京の駿河台の丘に建つニコライ堂の姿は都民に大きな力を与えたのであろうか。藤山一郎のニコライの鐘では、「姿変われど 変わらぬ夢を 今日も歌おうか 都の空に あぁニコライの鐘が鳴る」と唄う。ニコライとは1861年ロシア正教会のニコライ司祭(後、大主教)で1861年に日本にギリシャ正教を伝道しにやってきた人である。ハリトリスはキリストの事でギリシャ正教は国別にロシア正教会とか日本正教会などの教派教団がある。だからこの教団はロシア正教と関係はあるが系列ではない。と色々初めて知ることが多い体験となった。

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2012年4月27日 (金)

Franky Wijaya

又 Globe誌にFranky Wijayaの紹介(Mar.2012)があった。彼は現在KADINのアグリ・林漁業・畜産部門の副会頭そしており、気候変動で後進国が軒並み食糧生産に下落している状況下インドネシアのアグリビジネスが世界に貢献すると言う壮大な構想を持っている。
例えば米については現在生産は2.7/haで35百万トンであるが、これを6トン/ha迄引き上げたいとするもので、パームで施行している土地保有の農民と産業界とのパートナーシップ(Plazma)である。
小生の先の紹介記事は「Eka Tjipta Franky Teguh Wijaya」と言うものであったがFrankyはインドネシア大富豪の常に1-3位に顔を出す父親Eka Tjiptaの 5番目位の子息である。多くの妻を持ち、子供たちに色々経験させるためグループ企業に数名を複数で交差する如く配置し頻繁に変更のある役職からはっきりしない部分もあるがグループの幹部は本妻の子供達の以下を推定できる。
Teguh Ganda 1944年生まれ 紙パルプ部門 APP Peking Univ
Indra 1952年 Multiarrtha等金融、保険、証券部門 Nanyang Univ.
Muchtar 1954年 不動産部門 Concordia Univ.(加)
Jafar 1956年 Investment(BUND)、Sinarmas Land カリフォルニア大学バークレー
Franky 1958年 パームオイル部門 青山学院大学
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Frankyはグループの金の生る木を担当しておりグループを引きついでいるのではないかと思われる。
パームのグループトップはシンガポール上場のGAR(Golden Agri Resource) で年間売上$6milm利益13億ドルでその下にインドネシアのSMART TBKを保有、且つ中国オペレーション(精製など)を行っているもので生産中パーム・プランテーションは455,700haで2.5百万トンの生産、製品はFilmaなどがある。(営業報告から) かれはGAR,SMARTの会長で且つSinarMas Landの会長、Duta Pertiwi及びBumi Serpong の副会長でもある。タムリンのシナールマスの高いほうのビルの34階か高いフロアーで仕事している。

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2012年4月25日 (水)

そんなにも大きな宗教団体HKBP

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Cempaka Putih に行くLetjen. Supraptoの通りの左手を見ながら進むと汚い前列の商店列の向こうに異様な教会の尖塔が三つほど見える。何処から見ても商店が邪魔をするので思い切って近くに寄ることにした。
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汚い運河を超えてから左に曲がるのであるが車では行けなくやむなく徒歩で近づいて取ったのがこの写真である。看板に出ている通りHKBPの名前が見える。
これはHuria Kristen Batak Protestantの略でプロテスタント教団の一つでインドネシアではNUとMuhammadiaに次ぐ団体と言うので今まで知らなかった事に驚いた。
教徒は4.5百万でBatakの名前が付いているので生まれはやはりバタックであるが今は別にそれが条件ではない。1824年頃イギリスのバプテスト牧師が布教したとかで1861年が初めて現地人が洗礼を受けた日でタナプリでは Hakaristenonの日と言われ祝っている。
バタック人の世界雄飛もあるのかシンガポールはもとよりKuala Lumpur , Los Angeles , New York , Seattleなどにも教会はある。地区のトップはEphorusと言うが最初にバタック人がなったのは1940年 Siraitさん(さんでいいのかな)で 42-1974は Sihonbin、現在は Bonar Napitupuluさんである。代表的バタックの名前であるので記録を取った。
HKPBはPGIインドネシア教会連合(盟友)に属しているので、宗教団体をPGIでくくればPGIの方が大きいはずだが。。

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2012年4月23日 (月)

今日は プラムディヤ・アナンタ・トゥール

読売新聞のシリーズ 「ちきゅう 時の散歩」と言うのがあり4月20日はインドネシアの大作家 プラムデゥア・アナンタ・トゥール in ブル島と言うものであった。
何故この時期にと関係を探したが出生はジャワのブローラで1925年2月6日、逝去2006年4月30日で4月30日が近い。
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この島はアンボンのマルク等の傍にある大きな島であるが、監獄島としてスハルトが共産党関係者を追放した島として有名である。スハルトが権力を握る切っ掛けとなった1965年9月30日事件で共産党は禁止され、プラムディアもその嫌疑で連れてこられたもので1969年から1979年まで11年間 ここで生活を強いられた。プラムディアはその前もオランダにより拘禁2年、スカルノ時代の1年及びブル島送り前ヌサカンバンでの3年と獄に繋がれたため都合17年年間も、自由を奪われ、釈放された時はもう54歳であった。彼の代表作はブル島4部作と言われる以下の4つがある。
『人間の大地 上・下 Bumi Manusia 』
『すべての民族の子 上・下 Anak Semua Bangsa 』
『足跡 Jejak Langkah 』
『ガラスの家 Rumah Kaca 』
(4部作全て、押川典昭教授の20年間の努力により邦訳されめこん社が出版している)

これらはオランダ統治に対する住民の戦いを題材として、スハルト政権をなぞり、ブル島で書かれたが、参照するデータも無く記憶だけ或いは獄中の仲間の話だけで書いたもので、獄中の仲間はこれら小説を語り聞かされることが楽しみで生きる生命とした。
押川教授によるとブル島での強制労働を一種のスポーツとしてとらえ、この生活が無ければもっと早く死んでいたであろうと述懐したそうであるが、この4部作は出版(80年以降)後直ぐ発禁処分となり、釈放後も監視下に置かれETコードが身分証明書に押印された生活で、1989には回し読みした大学生3人が逮捕されたりもしている。

読売新聞はブル島収容された14,000人の中には、行き先も失いそのまま住み続けた人も居るが「既に高齢であり歴史を語り継ぐのに残された時間は短い」と結んでいる。
アナンタ・トゥールの波乱の人生そのものから多くを学ぶことが出来るだろうし何よりもこの人より他にノーベル賞を貰う人はいまいと思うのであるが。。
写真は読売新聞から。政治犯の上陸したナムレア港。 バリ島より少し大きい島であるがGoogle Mapでは何も書きこまれてない島であった。

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2012年4月22日 (日)

RRIと先代Niromの時代

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ムルデカバラットにもいくつかの史蹟がある。国立博物館とかKESERA国民福祉調整大臣府が代表であるが KESRAと憲法裁判所の間にあるRRIも歴史がある。但し元のNIROMのレンガ一つ残ってないのは残念だ。NIROMと言うのはオランダ時代の政府放送局であり、現在のRRIは日本のNHKに相当するがTV放送はTVRIに任せラジオ放送に従事している。広大なインドネシアをカバーするにはラジオステーション数で205に及ぶ機関を持って従事する必要があるのである。
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NiromはNederlands-Indische Radio Omroep Maatschappiの省略であるが、実はインドネシアの最初のラジオは16 Juni 1925に設立されたバタビア放送協会BRVでホテルデスインデスにより放送された。その後ジョクジャのMavro、ソロのSRV、BanndungのVoroとか多くの民間ラジオ局がジャワの各市で設立されたがその一つがNiromである。Niromは1928年に設立されジャワ全土をカバーする計画であったが技術が追いつかなかった。1934年になって初めて3月31日から広い地域に放送を流すことが出来た。そして一番大きな放送局として政府の支援も受け電話事業も行った。1937年ラジオ連盟PPPKが会長Sutarjo Kaartohadikusumoの下に設立された。
Niromは当時のミュージックグループLief Javaの流行に一役買ったこともあるが、彼らの許しも無くIslnder The Sweet Javaの曲を毎日流したためIswmail Marzuki と彼の友人たちはNiromを離れた。1942年に日本が占領した時はラジオ放送局と改名されたがNiromの最後の声は"Tot betere tijdenより良い時が来るまで“と言うものであった。閉鎖後もオランダの歌を放送したNiromの3人のオランダ人いたがこれらは日本軍により死刑に処せられたと言う。

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2012年4月20日 (金)

日本にも生きていたトゥラン・ブーラン

ブログ「現代インドンネシア事情」によるとアピログ(http://www.api-magazine.com/)4月17日付「編集部発!インドネシア最新情報」で昨日の小生のブログのTerang Bulanと同じ名前のガムラン・グループ等の舞踊と音楽のライブ、癒しのバリ島イベント『ぜんまい仕掛けの空』が開催されるそうだ。
日時は4月22日
場所は東京・池袋の鈴ん小屋(りんごや)
演出・出演:櫻田素子さん率いるガムラングループTerang Bulanとバリ舞踊家『荒内琴江』、音楽家『佐野篤』による舞踊と音楽のライブ、
このグループの名前のterang Bulanに戻ると、これはインドネシア生まれなのだろうか。
インドネシア映画協会の会長であったMisbach Yusa Biran氏によるとこの歌はジャカルタ・トゥグ地区に移民したポルトガル人の子孫から生まれたクロンチョンのリズムをもつスタブル音楽の一種だそうだ。
マレー半島でも大流行したこの歌はマレーシアが独立した1957年にマレーシアの国歌となったそうで、両国の懸案の事項となってが現在は隣人マレーシア国歌を尊敬しインドネシアでは謳う事が禁止されているようだ。
原曲の歌詞は以下の通り
Terang Bulan Terang Di kali
Buaya Nimbul Disangka Mati
Jangan Percaya Mulut Lelaki
Berani Sumpah Tapi Takut Mati
この歌は一風幻想的であるが、大本はあるフランス人が19世紀に作りSeychellesセイシェール島で流行っていたのがマレーシアに上陸し、1901年エドワードVII戴冠式の際にペラ土侯国の国歌として発表されたと。オランダバージョンもあるそうだ。マレーシア国歌はこの通りの歌詞ではあるまい。
小生も若い時歌声喫茶で謳っていたが、その理由が解った。それは1954年に日本で雪村いずみ主演で同名の映画が作られこの歌がヒットしたとのこと、さすがRoekiahが日本軍兵士からクロンチョンの名花と騒がれただけあり、ブンガワンソロと同じ様に日本に持ち帰られたのである。

詳しいいきさつなど知りたい方はご一報を、度欲おじさんやLagu2 会の掲示板の松田さん、よしさんのコメントがあります。


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2012年4月19日 (木)

Terang Boelan 誰がRoekiahを殺したか

昨日のTerangであるが、3月30日の「インドネシア映画の日」で忘れてならないのは1937年の「Terang Boelan」という映画である。有名な割に、調べて知るほどにインドネシアとの関係が薄くなるのをこらえながら主演女優のRoekiahに迫ってみたが真実はおぼろげであった。
監督はAlbert Balinki(オランダ人 Sumatra Postの記者)でシナリオSaeroenである。シンガポールのRKOがフイルムを購入しマレー半島で上演された。
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主演はMoch MochtarとRoekiahでこのフイルムで彼女は今マレーシアの「我が祖国」と言う国歌になってしまったTerang Bulanの歌を歌うのである。映画社はTan‘s Filmに属していた。映画が人気が出るに従いこの歌はマレーで有名になり民衆の歌となった。
インドネシアではポルトガルの末裔が歌うクロンチョンを源流とし1900年代のスラバヤでスタンブール・オペラを通してこのリズムは生まれたとしている。 イスタンブールを語源とするスタンブルはその後トニルに代わったがこれはオランダ語であったので日本占領軍はこれをサンディワラ(劇)と言うインドネシア語に変えた。
この歌がインドネシアに来てLive of Jawaオーケストラで、Ismail Marzukiに謳われると大変有名となった。
ルキアは1930年代の言わばアイドルで最初の映画スター(Bintang Pilem)或いはセレブでMIssと呼ばれたが彼女は既にKartolo と言う俳優と結婚していた。(してないとも)
彼女は1916年劇団巡業中のチレボン(バンドンとも)で生まれ、16歳でパレスチナグループでクロンチョンを謳いここでミュージシャンのKartoloと知り合い1934年に結婚した。その後Farokaグループでシンガポールに渡った。映画Terang Bulanはハワイを模したSawoba島を舞台にした花とギターの物語である。日本占領時代は日本軍慰問にも出掛け月明りの女優と慕われたそうである。
その後モデルやBataのサンダルやシンガーミシンの広告のモデルとなった時代もある。
子供はRachmat Kartoloと言う歌手になり、1980年代に俳優となったが、彼女自身は1945年28歳で亡くなった。 どうして亡くなったのかの秘密もあるはずだが、彼女の遠くを見つめる甘い瞳に引かれ残念でならないが、だが生きていても今は96歳の老婆である。それでもいいかもしれない。
詳しくは佐々木名誉教授のブログで紹介あった猪俣良樹『日本占領下インドネシア 旅芸人の記録』(めこん, 1996) 参照.特に「だれがルキアを殺したか」P244」を読むといいようだ。

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2012年4月18日 (水)

eとu、 rとl

インドネシア語を学びたての最初に発音をいい加減にすると永久に正しく綴れなくなる。
タイトルの二つが綴りに入るともうだめである。似たような単語があるから更に困る。eはオに近いエだがエに近く発音した方が間違わないかも知れない。小生はずっとテリマカシと発音してきた。(汗)
1) terang:明るい tulangは骨
発音はトゥランであるがKeterangan(説明)となるとeに近いと思う。
2) suruh:命ずる よく使うのに間違うと大変
suru:恋する
sulu:これはなし
suluh:灯火 トーチ
seru:叫んだ
seruh:これはなし
seluh:これもなし
selu::これもなし
3) terus:ずっと、続けて 
telus:これはなし だが
telusur:検索  これはあり、
tulus:誠実な (ketulusan hati 正直)
turus:利害関係?(あまり使わないか)
tulis:書く
turun:降りる
terung;茄子(terong)
turut:従う 参加する(menurut~によると)
4) keliru:間違う keliling 周囲
5) kurir:宅急便 kuliah講義
kurirの方は英語日本語も間違い安い courierでクーリエと読むのか、インドネシア語読みののクリルはインドネシアだけで上のケリルと間違うか
と、列挙すれば、いくらでもありそうだ。 

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2012年4月17日 (火)

昨日はKopassusの日

2009年の「昨日はコパススの日」としたブログを書いたが、小生のクロニクル・カレンダーで1852年というミスを発見し急ぎ訂正を必要として又同じ題となった。この年は先に言うと1952年で意外と昔で、RMSの反乱の時シリワンギ師団で特殊部隊として発足したので兄貴分の戦略予備軍KOSTRADの1961年(西イリアン闘争中)より早い。Kopassusは陸軍の特殊部隊、Kostradは国軍の戦略部隊。
従い今年は60周年であったのである。ジャカルタのCijantungにKopassusのKomplekがあり、Gedung Balai Komandoでは式典が行われた。現在の司令官はMaj Gen Vishnu Bawa Tenayaの挨拶の後は元司令官で現役の政治家Agum Gemlarが赤ベレー部隊の名前と誇りを守れと発破を掛けていた。
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何時かこの軍司令本部の写真を取りたいと思っていたが、果たせず何とこの3年機会が無かった事になる。仕方ないので今日はgoogleから借用。
Cijantungはゴルフ場エメラルダの北にあたる。エメラルダにはもう10年以上も行ってない。土曜日曜のプレーには170万ルピア以上かかるようで、現在の小生の土日ハーフプレーの10倍となる。行かないはずだ。

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7回忌の桜

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4月中旬も真ん中の15日、桜も消え去った九州に戻った。母の7回忌である。福岡は25度にもなる真夏並みの天候であったが、耳納山脈の百年公園には未だ桜が満開であった。
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八重桜の花はびっしりと花弁まいており、しだれ桜は地上まで枝を垂れ中に入ると花のカーテンである。お坊様の説教はこうして法要があるから念仏を唱え、合掌する機会にもなった訳でお先祖様から逆に供養されているのだと念仏の1行一句も出来ない小生は諭された。供養とは人が共に養うという意味でもあるのだ。帰って開いたおかもん先生の説教は所謂3輪空で布施とか人への善意にも 誰が誰に何をと言う事を忘れないといけないとのメールであった。
高齢者になると、あれこれとやりたがる癖に3輪を忘れられないことも多い。或いは昔のことまで思い出すが逆にもらう側になると空になれない。のではなかろうか。

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2012年4月16日 (月)

800年と750年の大法要

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4月9日の「今年の桜」で行った増上寺は世には徳川家の菩提所として有名で6人の将軍の墓所があるが、行った時は丁度「法然上人800年御忌法要」が行われていた。そう言えば何年か前から親鸞聖人の750年法要の記念事業が目にしてきたが法然上人は初めてであった。
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その日は法然上人の浄土宗の7大本山の一つでもある増上寺には全国から多くのお坊さんが駆けつけていた。法然上人は1212年没しているから丁度800年と言う訳であるが毎年4月に法要が行われている。親鸞聖人は法然上人の弟子と言われるが1262年に没していて50年単位の没日は大遠忌として1月に記念事業が行われた。
あと50年すると親鸞聖人800年大遠忌(オンキ)になるのだが。。

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2012年4月14日 (土)

グダン・ガラムのジャカルタ本社

Indonesiastock‏@IndonesiastockのTwitterさんが呟いていた。
「グダン・ガラム(GGRM)は、H.M.サンポエルナ社と競合する。 インドネシア・タバコマーケットシェアでは1位。 世界最大クラスの紙巻タバコ生産工場を保有するインドネシアの民間タバコ会社である。 1958年にSurya Wonowidjojo氏によって設立された。」
そうですね 小生が初めてインドネシアの関係の本を見た時Gudang Garamの女工がびっしり作業している巨大な工場風景写真が雑誌を飾っていたし、創業者のWonowidjojo氏の所得は国家予算の何割とかの記事があり、よく覚えている。SuryaはG.Garamの一つのブランドにもなっている。現在の社長はSusilo Wonowidjojoで20年来の役員であるが子息なのだろう。
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インドネシアのタバコ生産は世界5位、2500億本、206兆ルピアの売上で、丁子タバコが9割を占める。
トップはフィリップ・モリスが買収したサンプルナでシェア30%、グダン・ガラムは26%の2位、3位がJarum、4位がBATが買収したベントゥールである。
ジャカルタのグダン・ガラム本社はAhmad Yaniを走る高速のチェンパカ・プティを降りた近くにある。中々運ちゃんがゆっくり行ってくれないので写真は皆この程度である。

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2012年4月13日 (金)

スマトラ地震に見る日本TVの醜さ

又スマトラ沖で大地震が起こった。いち早くアメリカのハワイ地区の観測所がキャッチし津波警報を出したが、日本のTVによると、日本もこの警報をキャッチし関係諸国に警戒警報を回したとのこと。さすが後からはこの表現は改まったが人の善行を取り上げる様な行為である。
そこで現地で何が起こったかの心配心は一切なく、これで日本への津波の影響はありませんと結んでいたが、日本に居る人たちで津波がスマトラ島を超えて日本に襲ってくる事を心配した人はどこにいるだろうか。日本人の多くは今やインドネシアに多くの知己を持ち現地で起こった事がいち早く知りたかった筈だ。今日もその様な報道は一切なく、起こった地震の構造が東日本にも当てはまるかの検証などをしていた。
大地震との表現であったが、大地震と認識したのならどうしてインドネシアに一言、声を掛けて上げられないのだろうか。 こういう小生もなにもしていないが、ジャカルタの小生が余り騒ぐ訳にもいかない。 それはあの日の内にやっと現地ニュースでアチェの港で80cmの波で済んだと言う事はキャッチしていたからである。
この様な感傷になるのは、我が家が遅れているので海外TVが受信できないことも災いしている。

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2012年4月12日 (木)

スリ・ムルヤニの次の芽

インドネシア元財務大臣スリ・ムルヤニ・インドラワティさんの世銀総裁の芽が無くなったようだ。オバマ大統領が米国籍韓国人Jim Yong Kimを押したからある。2年前元総裁のZoelickがSri Mulyani Indrawatiを3人の中の1人の専務理事に招き、世銀総裁の可能性も噂されていた。この3人は、他にナイジェリアの元財務相、エジプトの元財務省であるが、総裁はこの誰がなっても出来ると語っていただけに、又米国人が総裁を取る慣例(過去11人の総裁全員が米国人)に対する批判の声が上がっている。Yong Kimさんが指名された事は韓国政府も知らなかったようでどこからこうなったか一寸解らない。彼は医学博士でWHOでHIV関連の仕事をしたこともあるダーダネス大学学長であるが国際金融は真っ素人である。世銀総裁は加盟国の選挙で決まるが投票権は出資比率で決まっている。米国15.8%強、2位は日本の6.8%を筆頭に先進国が40%とPaman Sam(米国友人)16%で過半数を取る。日本も安住がJimに会って、賛意を示していた。インドネシア政府もこの力には黙るしかなかったようだ。187ケ国の加盟の組織の経営は48名の役員が居るようだ(理事会の24の理事が入るか不明)内訳は専務理事 Managing Dir 3人、Acting 1人、Senior VP 2人、Exe. VP 2人、VP 34人、Dir Gen.2人、Dir.4人と複雑だ。民間なら組織肥大で倒産もありうる感じである。日本人はExe.VPに一人いる。Sriさんは世界の影響力ある100人とかトップ財務相とかに選ばれているインドネシア人の秀逸である。インドネシア政府トップ層との確執もあり財務省を辞任したが、誰か大統領候補に推してくれる人はいないだろうか。

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2012年4月11日 (水)

ものすごいインドネシアの地熱発電

TVが地熱発電の一部自由化で温泉地の住民の怒りを報道していた。報道によると日本は地熱賦存量でインドネシアに次いで3位らしい。賦存量とはどうも埋蔵量のことらしくどちらも地震国故うなずける。1位はアメリカである。所がこの数字はあまり一般的でなく日本は33,000MW、インドネシアは28,000MWの数字もある。それを利用しての発電能力は日本535MW 、インドネシア800~1,000MW で1位アメリカ 2,500MW、フイリピンが2位で1,900MW あとメキシコ・イタリアなどもあるがインドネシアが4位、日本は6位~8位となる。インドネシアの発電能力に占める地熱発電は日本の0.2%に比べ3%強(フイリピンは14%)、これをさらに高めるべく25年までに今の1000MW を10倍の10,000MWにする方向が打ち出されている。今の米国の2,500MW の4倍(一寸おかしいか)となるが、近いニュースは5年内の4,000~4,500MW 20年までに6,000MW増強のニュースもある。 計画は目白押しらしくその中で日本企業も頑張っており、この3月住商はリスク負担の事業でスマトラに総計440MW(2ケ所 x 2基か)を建設する。丸紅もバンドン郊外に55MWの地熱発電を受注している。日本は19ケ所の発電所を建設した後、温泉地との共存問題から新規を凍結していたが、発電機の生産は地熱分野で世界の70%のシェア―を持っているという。更に頑張ってほしい分野である。

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2012年4月10日 (火)

父に続け アニン・バクリー

アブリザール・バクリー巨頭の長男にAnindya Bakrieさんと言う人が入るが、ちゃんと父の率いるゴルカール党員として政治家になっていた。燃料価格の引き上げデモで与党造反したPKSの始末に連立解消し、出身大臣3名も降ろす話があるが、その一人通信大臣の後任にAnindya Bakrieを推す声がゴルカールからあがっている。 そう彼は政治家であるとともにBakrie 財閥グループの一つPT Bakrie Telecom の社長をやっており、既にViva Media Groupを創設している若干37歳のビジネスマンである。ユドヨノも長くなると決断が鈍りウヤムヤになるかもしれない。この話はチキニのWarung Daun restaurant で民主党の非公式な会議があったようで、意識的に流されたニュースのようだ。
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Viva グループと言うのはVisi Media AsiaでTV事業としてQuizと言うのとAFP(Lativi)を持ちポータルサイトVIVA News等をやっている。
Bakrie Telekom(BTEL)は生まれは小生もRadnetでお世話になったRatelindoで赤字で苦しんでいたが資本を増強しその後低料金のEsiaで携帯業界を翻弄した。借金に苦しんでいたTV放送Lativiも2007年に買収し、2008年にはTvOne Lativiに変えた。
2010年にはEVDO (Evolution Data Optimize)のデータ・サービスでGoogleとGoogle Chromeを立ち上げている。

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2012年4月 9日 (月)

今年の桜

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今年の桜も昨日の日曜日が東京では最後の満開の休みだった。上野恩賜公園は二日間で過去最高の50万人が押し寄せたと言うから大変なものだ。小生は渋滞を避ける術に長けているので東京は増上寺、昨日は近所の公園であった。増上寺では法然上人の崩御800周年の事業が行われており、適当な混みようで桜を満喫できた。00dsc03648


近所の公演では春は名のみの風の寒さが吹いていたが、多くの家族ずれが優しい陽光の下憩っていた。家族との温かみで寒さを感じないのだなぁと何かジンと来る風景である。 マンションの5~6本の桜も住民を呼び寄せ、宴会も催されていたのか約40人が集まっていた。 公園の真ん中の1本桜の下でも3家族が集まるとか桜は日本人をお互いに近ずけるみたいである。 

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2012年4月 7日 (土)

Palabuhanratuと漁師の日のイベント

昨日は漁師の日(Hari Nelayan)であったが全国で何かある訳でなくジャワ海或いはインド洋側で特にパラブハンラトゥPalabuhanratu港が有名である。
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Palabuhanratuでは南の海の女王が棲んでいると言われる伝説もあり、毎年海への感謝のイベントが行われる。海への捧げものとしては牛の頭を浮かべて流していたが最近海に又生きる事が出来るKerapuと海ウナギbelutに変えている。人々は着飾って集まり踊りのコンテストもはなやかである。
地元のFM放送がスポンサーとなってWebにも多くの写真がアップされている。
Palabuhanratuはプラブハンラトゥと読んでいたが綴りからは違う事が解った。意味はQueen's Harbour Beach、一帯が大観光地と言える。一番有名なのは日本の賠償で建ったOcean Beach Hotelである。ここのある部屋は海の女王神の為にあけられている。海には亀が多く棲み、人々はこれを食し手芸品を作って売っている。又このインド洋では海の波も高く泳ぐのは危険であるがサ-フインは名所でStone Guram, Karang Sariなどいくつもポイントがある。
Beachもいくつかあり、Karanghawu beachは溶鉱炉形状のサンゴやクリッフの景観が美しい。
漁師の日は52年前の1960年ソロで行われた全国漁業会議で制定されたこと以上のいわれにはお目に掛からなかった。南海の女王についてはいくつも伝説がある様で此方のは西ジャワの異説に属するが詳しくはdoyokおじさんのニヤイ・ロロ・キドゥルの部屋をご覧ください。

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2012年4月 6日 (金)

ライオン・エアーの脅威

投資環境トッピックスを整理していた時2月15日にライオンエアーのボーイング大量購入の正式調印があった事を見て改めて驚いた。
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最大記録となるボーイング737-900/MAX型機230台、21.7億ドルの購入のニュースは昨年11月のアセアン・サミットの時来バリしたオバマ大統領がMOUに立ち会ったときから既に公になっていた訳であるが、同社は同じ日ATR社にリージョナルジェット機「ATR-72」27機も発注のニュースもあった。この大胆な発想・決断と資金調達については小生にとっては想像もできなく、なんとなくしっくりと来ない物があった。
資金的には米国輸出入銀行を頂点とするシンジケートが出来上がっているようであるのでプロジェクト与信であろうがその信頼を勝ち得たオーナーにも驚く。オーナーRusdi Kiranaは1963年奇しくも独立宣言日の8月17日生まれであるので49歳、商人の家庭で育ったかれはブラザー・タイプライターの販売を手掛け、その後、Rion Travelを弟とやりだして航空会社の夢を持つようになったのであろうか。それも国民の誰もが夢見る空への夢をかなえる低コストチケット航空をスタートさせたのである。2000年6月最初はボーイング1機から始め、どうしてこうも順調に行くのかと不思議がりたいほど、今ではシンガポール、マレーシア、ベトナム、中東との国際線を含め60都市を結んでいる。子会社でWings Airも設立し今回の契約以前にもボーイング178機を購入していたのである。178機は2007年から2017年のデリバリー、今回の230機は2017年から2025年までのデリバリーである。従いボーイングだけで408機、メナドのサム・ラトゥランギ空港をHUB空港にする予定でもある。ガルーダの機体数は現在89機、2015年までに154機、エア・アジアは17を34に倍増計画があるがLionは桁違いである。インドネシアの国民乗客数は既に60百万、年間30-35%の伸びが見込まれ、さ来年には1億を超えるようだ。
Rion Airは2004年スラカルタでCrashを起こしている(25名のみの死亡)他、乗員のドラグ事件もあったりで一寸前は世界のワースト・エアッライン37位であったが。手元のGlobe誌によるとLionグループは売上7億ドルでインドネシア民間44位(ガルーダは約2000億ドル)の企業グループに育っている。
昔あったMerpati、Mandara、Bouraquなどは暴落したのであろうか また民間ではSriwijaya、やBatavia航空などが有るはずだ。
序に全日空ANAは77都市、209機

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2012年4月 5日 (木)

1日1件の投資トピックス 

3月の投資トピックスは拡張・進出ニュースを中心に1日1件のペースでラッシュしておりいずれも見落とせない。
件数が多すぎてまとめにならないが、企業の動きはあくまでも国内市場注視の戦略である。それらを以下にピックアップするがこれは20日までで最後のレクサスの最高級車の値段20億ルピアには思いも至らなかった。
3/1 東京海上ホールディングス、イのMAA生保株80%取得、イで生保市場に参入へ。
3/1 新日本製鐵、ラティヌサ社の能力増強などに約1,600万ドル投資。
3/2 日立建機インドネシア、チビトゥン工場の拡張、およびチカランに第2工場新設。
3/2 サイアム・セメント、スカブミにセメント工場建設計画、投資3億ドル。
3/5 NTTインドネシア、EJIP皮切りに光ファイバーによるネットワークサービス提供へ。
3/7 住友商事、住友eコマース・インドネシア社設立、8月から日用品のネット販売へ。
3/9 シャープ、バリで100MWのソーラー発電に向けた事業化調査へ、事業費3億ドル。
3/9 インドマレットを年内800店舗新設へ。2月時点で総店舗数6,161ヶ所
3/12 アストラ・ホンダ、ブキットインダ工業団地に第4工場建設へ、年産能力110万台
3/15 ホンダ、カラワンに自動車新工場、6万台から18万台に増強計画。
3/15 シャープ、KIICに冷蔵庫・洗濯機新工場、1.2兆ルピア投資計画。
3/19 三井住友銀行、インドネシア・インフラ・ファイナンスと業務提携、14.9%の出資
3/19 日本国交省とイ国家開発企画庁が官民提携の高速鉄道建設計画
3/19 ププック・スリウィジャヤ、西パプアに生産工場を2ケ所建設計画、18億ドル。
3/20 日産自動車、25万台に引き上げ、約330億円
3/20 レクサス・インドネシア、高級SUV「LX570」発表、価格20.25億ルピア。

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2012年4月 4日 (水)

Bank Jabarは今

NNA配信で西ジャワ・バンテン銀行が中東・アジアの銀行と提携計画のニュースがあったが、西ジャワ・バンテン州は海外出稼ぎに行く人が多くその送金便宜を図るものである。
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そのニュースの意味は重要ではなく、本心はバンドンに行った時撮った多分この銀行の本店の写真は魅力的でいつか紹介しようと思っていたのである。この建物も例外でなくオランダから接収した建物で、1960年にこの銀行が生まれた年に旧オランダのDe Erste Nederlansche Indische Shareholding N.V.の建物だったのである。
インドネシアには州立銀行が30数行、州の数だけあるがこれは昔から州立開発銀行BPDと言われて外枠的に扱ってきたがその中でこの銀行は Bank Jabarの名前でトップである。(一時Bank DKIが上に立ったこともあったか)今はバンテン州が分離した為Jabar Bantenを入れてBank BJBと称している。預金量は三菱東京UFJインドネシアの上を行くインドネシア16位程度、上場も果たして為替も扱える普通銀行なのである。
日本の銀行と比較すると島根銀行程度であろう。 BJBの2011 年決算は、純利益が前年比8%増の9,627 億ルピア(約87 億円)。昨年末時点の資産総額は前年比25%増の54 兆4,500 億ルピアだった。

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2012年4月 3日 (火)

Bellezza自体がホテル

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プルマタ・ヒジャウのThe Bellezza Shopping Arcadeの近くにFulleton Hotelがある様なので見に行ってみたがグルグル回っても結局探しだすことは出来なかった。この名前を見たのは地図上であるが、新しい地図にはないので計画が先行したのだろうと見当を付けた。所がThe Bellezza自体がサービスホテルであり、ホテル案内にはThe Bellezza Suites Jakartaという名前で出てくるので、100室のホテルオープンは漕ぎ着けたがシンガポールのFullertonとはブランド交渉でうまくいかなかったのであろうと推定した。
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シンガポールのホテルは綴りが一寸違うがフラトン・ホテルと呼ばれ、その歴史は次の様である。

「初代海峡植民地総督であるロバート・フラトンに因んでフラトンビルディングと名付けられ、1928年6月27日に完成した。フラトンビルは上海にあった建築会社キース&ドウズウェルにより設計され、当時としては大規模な建築とドーリア式の円柱などに特徴のあるパラディアン様式の建物として、シンガポールの代表的な存在となり、中央郵便局やいくつかの政府機関などが入居した。第二次世界大戦時における日本軍侵攻時(シンガポールの戦いを参照)に、当時の総督シェントン・トーマスがマレー駐在イギリス軍司令官中将アーサー・パーシバルと降伏について話し合った建物として、シンガポールの歴史にその名を残している。フラトンビルは1996年まで中央郵便局として使われたが、再開発によりホテルとして甦った。」
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従いホテル開業は2001年と遅いが高級ホテルである。ラッフルズ・スクエアー駅からマリーナにでると直ぐである昨年シンガポールに行った時の写真はマリーナ沿いに右手隅に牛車水の像があるが、1昨年はマリーナの観光船からであったが前面にマーライオンが見える。他に中国銀行側の縦の姿もある。
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中に入るのは何となくはばかれたので昨年12月のガルーダ機内誌のFullertonホテルのレセプション写真を掲げてみよう。 この解説でBellezzeと同じ100室なることを発見した。 尚Bellezzaはイタリア語で美しいと言う意味である。

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2012年4月 2日 (月)

ガルーダはターミナルIへ

成田エアーポートでガールダの発着がターミナルIとなるのは案内状が着ていたが、ジャカルタから3月31日に出る便も到着が4月1日になるのでターミナルIであった。何か協力エアーライン・グループの変更であろうか、搭乗員に変更のメリットを聞いたらマイルが増えると答えてくれた。 今日の便は相当な混みようである。ビジネスで 33/36とかである。 多分前日の国会議事堂前の燃料値段引き上げ反対のデモで高速が閉鎖されたため、乗れなかった人がこの日の便に流れたのであろうか
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ターミナルIはターミナルIIにあるゲートをつなぐトレインは不要で、少し遠めになるが歩いてエスカレータを2度ほど下がると移民カウンターである。 途中直ぐは滑走路側に面した通路をあるくがそこに繋がったガルダ2機を見る事が出来るが気付いた時は行き過ぎのこの写真の角度であった。 ターミナルIの方が乗客も少なかったのかゆったりできターミナルIIより良いと軍杯を上げた。 京成特急はターミナルIIでは誰も乗ってこないのでIIが始発駅でないのかと不安があったが、からくりは 京成ターミナルI駅で特急に乗る人は車両の後ろ2両で、この車両はターミナルII駅ではホームから乗れなくされている事が解った。 出発便での違いは次回の報告となる。

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2012年4月 1日 (日)

石油燃料の値上げ Harga Naik BBM dibatal

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日本に帰る週はガソリンなど石油燃料の政府の平均33%引き上げ案に対してインドネシア全土を巻き込むデモが発生、メダン、マカッサルで激しい警察隊との衝突がおこり、遂に30日深夜までの国会議員の全体会議決で延期されてしまった。
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実際は原油価格が15%を超える場合のみ燃料価格の引き上げを認めると言う条件を付けた訳であるが与党側のゴルーカール他、民主党を離反し356対82票の大差となった。インドネシアの燃料価格は過ってはスハルト退陣となったジャカルタ暴動を招いた他メガワティ時代も何度も燃えた反対デモを招いたいわくつきの政策である。しかしデータを見るとスハルト時代の1998年はIMFの強行で700から1,000へ引き上げ、微調整で上げてきた後のユドヨノの時代2005年11月は2,400が4,500とする引き上げをデモの中実現していたたものである。 この4,500はユドヨノ時代3回の値上げで6000となりm、又3回の値下げで4,500に戻っていたのを今回又6,000に引き上げると言うのにこれだけ騒いだのは何か他の理由があるのであろう。
写真1は30日国会議事堂前道路が閉鎖され国会前に集まったデモ隊を奥に覗いたもの。

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