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2012年5月の投稿

2012年5月31日 (木)

ウイラント将軍の青年団

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先日のプラボウォのゲリンドラ党の青年団結成の幟の列に続き今度はウイラント将軍のハヌラ党の旗の行列がみられた。国会議事堂からヒルトン迄の高速道路の両脇であるが、スマンギからハリムの間はなく代わって緑と赤の二つの旗があったが、こちらはあっと言うまであったのか写真にとりそこなった。愈々政治の季節というところであろうか。JKTの町は6月の市長選の広告合戦で忙しい。Hanura党はウイラントが2006年に仲間と船上8策をねり結党したもので、HanuraとはPartai Hati Nurani Rakyat人民真心党とでもいおうか。旗は激しくなびいていてうまく撮れても裏返しなので何か書いてあるか運転中には全く読めなく、情宣の意味はない。多分ゲリンドラの青年団と同じPemudaがあり正式にはKader(士官候補生)Srikandi(アルジュナの勇敢な妻)というようで27日にはモナスーHIを農民の伝統的藁?帽子をかぶりデモしたそうである。約11千人の参加で、この帽子をかぶったデモでは記録だそうだ。(なんでも人がやらぬことは記録になるが何の記録だったか)彼らのモットーはHidup Mati Bersama Rakyatと言うのもあり、少し大げさで無責任でもある。
最近の小生のFavorite Song、西田佐知子の裏町酒場の「生きよと死のうと・・」を思い出した。

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2012年5月30日 (水)

住んでみたい Alam Sutera

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アラーム・スートラに行って来た。タンゲランに近くJakarta-Merak高速で行けばジャカルタ郊外通勤住宅地になるが、Kebun Juruk、Joglo、Cipeteを通ったので、かなり遠く感ぜられた。マヌンガルグループが開発中の700haの広大な地区で現在の中心モールはLiving Worldである。生活の全てを満たし、胃袋を満たすHome living & Eat-tertainmentをうたい文句にしている。ホームセンターのACE、ファーニチュアーのInforma、スーパーHero、おもちゃのToys Kingdom、黄昏時を演じたレストラン街のLiving Worldがキーになっており、日本料理ではさすが滝川が出ていた。 開発しながら営業する中国スタイルで、もう既に驚くほど人は集まっていた。
モールは後一つ出来る筈でMall@Alam Sutera、そのあたりも職住近接型の地区を建設中で20数階建てのオフイスタワー、Silkwood Residence、Convention Center、Hotel、教育と医療施設も完備している。
Alam Suteraは上場しており小生のランキングではインドネシア9位とした。
今見る資料では売上 765,213,000,000、Market Cap 7,681,133,811,840である。アグンポドモロクラスの5位位には行く。
会長はMarzuki Usman、株主はPT Selaras Cipta Manunggal及びPT. Manunggal Prime Developerである。

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2012年5月29日 (火)

国防省の歴史

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「ジャバの生活文化」と言う本の中の数少ない写真の中で当時の法科大学が出ている。これはモナスの通りを行く過ぎた人はその建物の特徴から記憶に残りやすい現在の国防省である。国防省については既に「国防省は元日本軍憲兵隊本部」と「DephankamのSudirmanとSumoharjo」の二つのブログがある。
もっと何かないかなと国防省のWebpageの歴史を探しあてたが記述には以下のような国防大臣の羅列のみしかなかった。又スカルノ時代がぬけているのは不可解であった。 それは後で調べるとして順不同で特記すると;
現在の国防大臣はProf. Dr. Ir. Purnomo Yusgiantoro, MA, Mscで以前エネルギー鉱山(ESDM)大臣であったが、文民が大臣となったのはGus Durの時代の1999年Prof. Dr. Juwono Sudarsonoが最初である。
それまでは最後の軍人大臣Wirantoなど国軍司令官から国防大臣になっているケースが多い。遡ると:

1993 - 1998 Edi Sudrajat
1988-1993 LB Moerdani
19 Maret 1983 – 23 Maret 1988 Poniman
28 Maret 1978 – 19 Maret 1983 M. Jusuf
28 Maret 1973 – 29 Maret 1978 Maraden Panggabean
1968~Souharto大統領自身が国防大臣
スカルノ時代は飛ばして
独立後最初の組閣では未だ国防省と言うものが無く人民治安大臣で小団長であったSuprijadiがなるべきであったが行方不明で一旦Sulyadikusumoが引き受けた後、Amir Sjarrifuddinが取り、それからSri Sultan Hamengku Buwono IX.の時代が1953年迄あった。

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2012年5月28日 (月)

ジャワのTaman Bunga

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「ジャワの生活文化」に出てきたワタスゲという花であるが、見たことも無いので植物園で確認する事を思い立った。昔スタッフが結婚披露宴を挙げたチブブールの公園にあるに違いないと確信し出掛けたのであるが、半日棒に振る結果となった。公園の管理の人もTaman Bungaならここにはない、チパナスだと教えてくれたが、チパナスなど結構遠くて渋滞の危険な道だから、もう何年も行ってない。そして今日オランダ在住の国森様からも疑問のメールを頂いた。あの本には花だけでもクジャク草とかオガルカヤとか古臭い日本名の名前が出てくるがこれらもどうであろうか。
チブブールの公園は正しくはTaman Rekreasi Wiradatikaと言うようで主目的はボーイスカウトの活動の公園である。車でひと巡りはしたが、家族で憩うにはちょっと物足らず、会社のピクニック行事などにはいいかも知れない。

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2012年5月26日 (土)

テンデアン映画撮影所

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ここはテンデアン通りのテンデアン・プラザの手前の敷地である。昔から何かあると思って居たところであるが只だだっぴろいだけであったので記憶にないが何かの拍子にここは撮影所だとの記憶に置き直されていて、確認に行ってみた。真ん中にオランダ時代の倉庫風の建物があり、人が棲みついていたが、その前には何台もの撮影用のジェネレーターが置いてある。門の所の守衛に聞いて見るとやはりそうだ。しかし誘導尋問になった気配もしないわけではない。と言うのは小生はここが日本占領中の宣伝映画を作っていた所ではないかとおもっていたからであるが、今日調べるとそれはジャティネガラ方面のようでカラ振りであった。日本軍とは関係ないが撮影には違いない。地図で見るとWijayakartaと言う由緒ある名前であった。多くの屋台や仮設カフェ等も出来てにぎわっていたが運ちゃんに何か食べるかいと誘ったが食欲はわかなかったらしい。
小生の方はソニーのデジカメで高感度でとっても帰って悪い、この程度だから筆が進まない。

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2012年5月24日 (木)

ジャバの生活文化とワタスゲ

昭和15年頃、イギリスのボンダー女史著、矢吹勝二氏訳の「ジャバの生活文化」がある。当時のジャワの生活が女史の目を通して優しく語られている。彼女自身が優雅であるが、当時のオランダ人も本国を忘れて生活をエンジョイしているし、ジャワ人達もその生活が美しいと感嘆の目を持って語られる。
オランダ人の生活の一場面に「ワタスゲ」が出てくる。「どの家にもフォールガレリーがある。これは三方を開放した居間で、言わば家庭のショーウインドウのやうなものである。といふのは、家の正面には石の手すりか柱があるだけで、別に垣といふものが無いため、道路からそっくり見えるからである。部屋の壁には磨きたてた真鍮細工や古物の青皿などがかけてある。。。。よく伸びた棕櫚の木、鉢植えのクジャク草、花瓶に盛った深紅のワタスゲの花なども美しい。(1年中。。。ワタスゲだけはいつでも花を付けてゐる。  1年中見るのであれば今でもある筈であるが、聞いたことが無い。ワタスゲ自体が日本語であり、現地で何というのかも解らない。 
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Weblioの写真を付けたが見る様の綿の玉状の花を付いている。綿なので白であるが文中には真紅となっている。英名はCotton Sedgeである。 当時のオランダ人の家はWoonhuisとか言った筈で今でもいくつか残っているが、最近のインドネシア人の家はそれをいく倍も凌駕する豪華のものが多くなった。

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2012年5月23日 (水)

滝川とEnergy Building

Bellagioの「たけもり」ではない「滝川」が入居しているモールはジャカルタでいえば トップクラス。
どこがトップかと聞かれたら多分順不同で言うと Grand Indonesia、Pondoki Indaha Mall、Senayan City、Gandaria Mall、Plaza Indonesisa、Pacific Place、Central Parkを挙げるだろう。
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所がその入居ビルの一つにエネルギービルが有ると言うので驚きである。エネルギービルはスディルマン ビジネス ディストリクトにあるオフイスビルだからである。 行った時は日曜でビル自体が閉まっていたので中の様子は解らない。 エネルギーと言うだけにインドネシアのエネルギー代表企業 メドコが保有しているビルである。Medcoについては弊ブログ「MEDCO Panigoroの積極的展開 」に詳しい。

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2012年5月22日 (火)

BINUSに注目

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90年代は1ケ所しかキャンパスを持たなかったBinusが今は5ケ所以上のキャンパスを抱える大大学になっているのを知った。TelkomがCSRとして行っているTesca 賞の記事がWarta Ekonomiに出ていたが、堂々の3位に入賞している。これは大学の総支出に占めるIT関連費用の比率、コンピュータ設置台数、ファイルのデジタル化比率、ホームペイジアクセス数などでTIK度を競うものである。1位はUI 、2位はGunadarma 3位 Univ. Bina NUSANTARA(BINUS)、4 位Gajah Madah、5位 ITB….である。90年代はアカデミーであったが、特にコンピュータ、Accountingではリードしていた。日本語熱も高く日本祭りなどもニュースに流れる。
Kebun Juruk(Kemanggisan)辺りに大きなキャンパスを3ケ所、高校や文化会館など多くを構えていた。

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2012年5月21日 (月)

不気味なP坊の大統領選運動開始

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昨日偶然にも、プラボウォの手下組織GRIBの旗揚げ会場を通り過ぎた。その前の日、高速道路にビッシリ建てられた旗が記憶にあったので直ぐそれと解ったが運転手はプラボウォの新党だと言ったので、プラボウォのGerindra党が他党をいれて合同新党でも作ったのかと思ったがそうではないようだ。既に2014年の大統領選に出馬が確実なプラボウォが選挙戦の準備に入りスハルトの戦術と同じ活動青年団を結成したのである。この団長がHerculesとか言う名前のチモール・チムール出身の男で タナー・バンでやくざをしてきた男である。運転手はアンボン出身の男たちも見かけたと言う。彼らも有無を言わせずに処理をするので有名である。 昔、アンボンで宗教対立の激しい抗争があったが中でも3人の女学生の頭を切り取ったニュースを思い出した。何事もなく通り過ぎただけで胸をなでおろしたことであった。よく撮った写真だと思ったがどれも写りは悪いが、お祝いの花ボードに大統領の息子だったかKOSTRADの名前などもあった。

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2012年5月20日 (日)

スラバヤの誕生

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5月31日はスラバヤの誕生日である。スラバヤの名前は市のシンボルになっている鮫SuraとBoyo鰐から来ているが。このるサメとワニの戦いはある事件を象徴したもので史実的には1293年Wijayaが率いる軍とTar Tarが率いる軍との戦いがあったそうであるが、この年は大帝国マジャパヒットが興った年と一致する。そしてこの年は元が2回目の来襲があった年なのでこれらの歴史が背景にあるのであろう。すなわちWijayaはシンガサリ朝最後の王クルタネガラの娘婿で義父を殺したジャヤカトワンを撃ってマジャパヒット国を起こした最初の王であり、Tar Tarは元軍の司令官である。この戦いのことなのか、或いはどの戦いなのかは確信がなく又どちらが鮫なのかどちらが勝ったのかは不明であった。飛行場から街に入る道のある公園に立っていた。

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2012年5月17日 (木)

私たちが待ってます。菊川

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このジャカルタに住んでいる日本人で菊川を知らない人はいないだろう。それほどこの地に住む日本人にとって今あるはこの先人達の苦労があったればこそと感慨にふける事が出来る日本料理店なのである。
着想したのが1960年やっと開業に漕ぎ付けたのが1969年というから40数年の歴史があるのである。創設者の菊池輝武氏もよる歳並みには勝てず95歳の往生を昨年遂げた。今は御子息のトミーさんが遺志を継いでおられる従業員一同伝統を守って生き続けている。只お客が入る時はドアーを明けて挨拶し、お帰りになるときもドアーを明けてお礼の挨拶をしなさいとだけは教育しておいたので是非最近怒涛の如く来られた日本人も一度は是非行ってほしいと本当に乞い願うものである。今時すき焼き+天ぷら+焼き鳥+刺身+味噌汁ライスで63千ルピアでは気の毒と言うものだ。
菊池氏の話は弊ブログ「流れる川のレストラン 菊川」として紹介したが、再度彼は軍の将校ではなく一市民であり、奥さんはアメリカ人ではなくメナド美人であった事を論評者に断りも入れず訂正しておこう。レストランの給仕もかわいいメナド美人であった時代もあるが今はメナドはいなかった。
名前だけ上げるとCitraチャン18歳、kanaチャン17歳、Fatimahチャン17歳、あと両端にMariahとSophi がいる。予約は不要であるが3150668

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2012年5月15日 (火)

Bellezza と Bellagio

3月に行ったプルマタ・ヒジャウのThe Bellezza Shopping Arcadeは「Bellezza 自体がホテル」と紹介したがこのPlazaと姉妹がMega KeninganにあるBellagioである。
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ここは後ろがマンションで全面4階ほどがショッピング・レストラン街となっており日本食は「たけもり」が入っている。姉妹と言うのはどちらもGapura Prima社が保有しているからであるが又どちらもイタリア語で美しいとか言う意味で正面の構えはローマ時代の壮大さがある。
Mega Keninganの真ん中のサークルにあるRitz Cartonを過ぎて左側である。ここにゴルフシュミレーションもある。そこではビリヤードをしながら食事も出来るが料金はしおりに書いてないので電話 3002-9858で聞いて見ればよい。

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2012年5月14日 (月)

5月のイスマイル・マルズキ

イスマイル・マルズキIsmail Marzukiがトゥランブーランを唄ったと書いたが、このあたりは本当に何が無いやら解らない。Fachrul Khairuddin www.kompasiana.com / さんはこう書いている。
Ismail juga mengisi lagu untuk filem Terang Bulan yang dibintangi RD Mochtar. Dia menyanyikan lagu Duduk Termenung. Kesuksesan filem Terang Bulan membuat Ismail dan Lief Java diundang ke Singapura dan Malaysia untuk pentas karena filem Terang Bulan sangat sukses di kedua negara tersebut.
トゥランブーランの本家の取り合いをしているからインドネシア人が書くとインドネシアが主でマレーシアが従である。歌自身はフランス人が本家の本家だから目くそ鼻くその感じではある。
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イスマイルマルズキは生粋のジャカルタ ブタウイの出身で愛称はBang Ma’ingと呼ばれ、現在ホテル アルヤドゥタ近くのKwitangに1914年5月11日に生まれ1958年5月25日に亡くなった。ちゃんとメンテンのHISとMULOで学んでいるので金持ちの子供のだ、音楽のキャリアーは当時有名なHUGO Dumasの率いるLief Javaに属して積んだ。
小生のブログ「Kembang通りのTerang Bulan」で出生・死亡年月を間違っているので修正しておきたい。
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そういう事で昨日Kembang通りに出掛けて見たが、Kembang IV/97のアドレスも見つからず住民に聞いても誰も知らずやはりここは大ジャカルタの都心に取り残された無知と無関心の偉大な田舎のまま変わらない事が実感された。
Wikipediaでは彼の most populerな唄はRayuan Pulau Kelapa でオルデバルのTVRIの放送終了の時間に流された歌だそうで 英語版はFirst Coconut Islandと言うのでジャカルタ音頭を思い出した。TIM公園に胸像がある彼はやはり国家英雄に叙せられている筈である。

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2012年5月13日 (日)

トリサクティ事件とデモ

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出掛けるのにいつまで待ってもタクシーがなくバスにするとバスも来ない。真相はこの先のトリサクティ大学で1998年5月12日の悲劇と称している事件の14周年のデモ行事である。チケット売り場にはBahan Bakar Gasの充填で時間がかかっていると表示していたがどうしてだろう。
トリサクティ事件はP坊やのクーデターだという説などあるが、とにかく集会中の学生を狙撃して4人が死亡した事件でこれを契機としてあのジャカルタ暴動がおこりスハルトが退陣に追い込まれたのである。事件は下級兵士に責任を取らす形でうやむやにされている。
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今日のデモはその後徴用した市内バスの屋根にまで乗り込んで10台ほどで移動していった。デモの行く先はいつでもホテル・インドネシア前である。モナス広場などでやってくれるといいのだが、やはりここが一番目に着くからだろうがこれにより半日は交通がマヒした。 一時楽勝かと思われたバスウエーもHI 手前は数珠つなぎであった。
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彼らはこの事件で革命の勝利と称された4人の人権は家族を含め回復されてないとしてインドネシアの人権蹂躙体質は変わってないと訴えていたが市民も優しく受け入れ平和なデモではあった。

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2012年5月11日 (金)

最悪の投資環境へ急ぐインドネシア

昨日のNNAニュースを見るととんでもないニュースが編隊で飛び込んできた。一つは輸入業者登録に商品ジャンルを登録するに1ジャンルしか登録できなくなったことである。従い日本の総合商社は専門商社化し全商品をカバーするには19もの会社を設立しないといけないと言う馬鹿げた話である。これには先に大騒ぎとなった製造業への規制のとばっちりで此方は従来製造業に認められていた完成品輸入(部品も含め)がなんと最高の裁判官がいるはずの憲法裁判所で(だったかな)憲法違反となったことである。昔なら、製造業者が製品販売時の製品ラインアップ上必要な上位タイプ等の完成品の輸入を認めていたもので、これは恩情があった。或いは商業の場合、許可される事業として輸入業者というのが認められたがこれはお客の必要とする商品を世界から探してきて調達してあげる業種であるので最初から商品ジャンルは決められない事は自明であったのである。こうした流れを知らないあほな公務員が勝手に法律を作っていく。冒頭に編隊と書いたが、他に
輸出優遇措置の見直しでKITE制度などが廃止になりそうである。これも前場があり保税製造輸出企業に認めていた国内売り上げの比率削減の続きのものである。
鉱物資源の輸出課税も出てきた。100億ドル輸出しているから20%の税を掛ければ20億ドルの税収増と胸算用している。
工業団地の土地代の値上げも著しい。この間ある撤退企業が$40以下で手放し泣いた時代を目にしたが今やその3倍である。そして圧巻は北朝鮮とニュース交信の協定をしたと言う事だ。今後デマ情報など出所を確認した情報の管理が更に必要となる。1日でこれだけあると今後が心配である。
この投資環境の悪化はずっと前からあり、小生は2011年トピックス第4位に上げていたものである。
第4位:外国企業進出に対する嫌悪感高まる(金融業界、輸入規制、外貨集中、販売のみの進出、保税国内出荷制限)

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2012年5月10日 (木)

ブカシの英雄Noer とChairil

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Bekasi市からKali Malang運河添いの道はKH. Noer Aliと言う通り名である。ハジNoer Ali は2006年に国家英雄に叙された。この道はブカシの写真のMal Metropolitanの所からCawang迄走ってくるがBekasiに至る東Karawangからの道はChairil Anwarと名付けられている。
そう、昨年9月のブログ“ハイリル・アンワルのKarawang-Bekasi叫びの勝利”で紹介し有名な“Karawang-Bekasi”と言う詩である。彼自身Angkatan 45の属した闘士であと一つブログ「Chairil Anwarの胸像」で紹介しているがこの詩の題材となったRawa Gedeの虐殺事件に発展した現地での闘争を指導した人がKH.Noer Aliなのである。上記ブログの後、この虐殺された村民431名へのオランダからの賠償が成立した報道は聞いたので上記のブログに追記・修正しておかねばならない。
彼は所謂Raskar Rakyatのリーダーで1945年の9月19日のジャカルタ・イカダ集会を企画した一人である。
連合軍に対する戦いは1945年11月29日にこの近くのPondok Purpleで起こり彼はチームを引っ張り急襲を掛け一時は連合軍を撤退に追い込んだ。そこで停止を命じたがSasak Kapok  橋の辺りで戻ってきた連合軍の為30人が死亡した。
2回目の戦い(事件)はRawa Gedeで起こったがその前にNoerは抵抗軍の堅守を見せる為村民に紙で紅白の旗を作らせ家々や木々にぶら下げた。オランダ軍はこの行為はTNIによりなされたとしてMayor Luke Kustaryoを捜査したが村民の非協力に怒ったオランダは村民虐殺に走った訳である。
Noerはブカシで1914年に生まれ1992年に亡くなっている。1934年メッカに赴きイスラムを修めている。独立後はマシュミ党やウラマのMUIの地域活動に奉仕した。

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2012年5月 9日 (水)

Kadinはどこ

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Kadinのメンバーは何社だろうか 10社ずつ4,939頁にわたって書いてあるので49,390社となるのであろう。
日本の経団連は代表的な企業1281社、主要な業種別全国団体127団体、地方別経済団体47団体などで1,603社というからKADINは一寸経営が困難な団体であろう。
従いこれを業種別にくぐると20になり、これがWKU会頭代理或いは副会頭であり、シナルマスのフランキーさんがアグリ・食糧部門の副会頭の場合この下に数名の委員からなる8個の小委員会がある。
会頭はSuryo Bambang Sulisto、顧問団(Dewan Nasehat)はFa.Idrisの下に8人の副委員長と30人の顧問メンバーがいる他協力諮問会(Dewan Pertimbangan)が会長Osman Saptahの下に4人の副とこれまた30人のメンバーがいる。
Kadinのビル(Menara Kadin)はラスナサイドにあるが通った時は夕方の逆光であったので又撮りに行かねばならない。ここも割と通る道ではあるが丁度曲線になって気がつかなかったが1997年に建設されている。写真では左手がMenara Karya(Kadinビルの裏手)、右手が保健省のビルである。

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2012年5月 7日 (月)

滝川ジャパニーズ・レストの驚異的出店

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Keningan City Mallのレスト滝川は表の高架工事で未だ人が寄り付きにくく、ここに開店した滝川も従業員が寝そべっていたが、この滝川と言うのは本当によく見かける。
日本名であるが日本人オーナーでなくパレンバン出身らしい。本店ビルがこのPanglima Polim Xにあり ジャカルタではトップクラスのモールに出店している。リストアップすると
Keninngan City(Podomoro)、
Central Park、
Grand Indonesia,
Senayan City、
Gandaria City、
Pondok Indah Mall、
Pacific Place、
Bekasi Square、
Cilandak Towan Square、
Supermall Karawaci、
Emporium Pluit Mall、
Setia Budi I、
Summarecon Mall、
Tangeran City、Kemang、
Energi Building、
Bogor Botani Square、
地方ではMakasarのTrans Studio、
Jogjakarta、
Surabaya Town Square, 
Bandung Supermall、
Balikpapanと続く。一寸この真似はそうは出来ないだろう。 本店の従業員に支店を上げさせたが上記のいくつかしか知らず Keningan Cityは答えに出てこなかった。しかし代わりにこの名刺をくれたが最初からそうしてくれたらよかったのだが。。

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2012年5月 6日 (日)

ガルーダの第1ターミナル

5月5日子供の日でゴールデンウイークも終焉するので、国際便のエアーチケットはガクンと安くなる。
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途中、シルバー団体旅行を見かけたので彼らはGWを避けて旅行するのかも知れないといやな予感がしたが、京成成田空港行き特急も第1ターミナルも割と閑散としている。特にガルーダに今回割り当てられた北ウイングは沢山あるレストランもショップも人待ち顔である。
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そして圧巻はガルーダの乗客も33名だと言う記録的乗客数であった。キャンセル待ちの人も居る訳ないので33人が乗れば飛行機は発車オーライでスケジュールの12:00には機体は既に九十九里浜に寄せる白い波の上であった。順調に飛行してャカルタは定刻30分前到着、普通遅れて出てくる7時ごろにはアパートに付いていた。こんなにも全てが順調・空いていたのはGW明けだけの理由ではないだろう。今年のGWは曇りと雨が続いたが小生が友人とのtokyou下町散策に出掛けた最初の日と今日ジャカルタ行きのGW最後の日のみがカラリと晴れた日であった。
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ガルーダは2012年から国際航空会社のアライアンス・スカイチームのメンバーになったのを機に成田・北ウイングに移動した。スカイチームは世界第二の航空会社デルタ航空を初めとするアライアンスで他に、アエロフロート航空、アエロメヒコ航空、エア・ヨーロッパ航空、エールフランス航空、アリタリア航空、中国南方航空、チェコ航空、ケニア航空、KLM オランダ航空、大韓航空、タロム航空、ベトナム航空の13社である。

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2012年5月 4日 (金)

明神も天神も同格神社

湯島天神が458年創建と言うので雄略天皇の略伝を見たが、それに繋がる様な記述はない。古墳時代に天神様があったかどうかは別に研究しなければならないが 更にそれがここ東京であると言うことが又不思議である。1600年以降の江戸しか知らないからだ。
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そう言えば、この間行った神田明神も案内立札に730年創建と出ていた。
平安時代後期、関東のこの地に桓武平氏の秩父氏が起こり、そこから江戸に繋がる江戸氏が11世紀にこの地に居たと言うから信じた方がいいだろう。改めて歴史の古さに驚く。
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正式には神田神社と言う、昔で言えば府社で明治天皇もお参りしたと言う由緒のある神社である。
2年の1回のお祭りには日本橋、秋葉原、丸の内を含む108町が200基のみこしを繰り出すそうであるが 昔日本橋の本社に勤務していたのに、あまり記憶はない。
神田で飲み歩いた時代、無事でいた事に、今さら感謝をするばかりであった。
湯島天神は湯島天満宮ともいうが、神田明神とも同格の神社である。

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2012年5月 3日 (木)

羽田のガルーダ

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久しぶりに羽田に行った時、インドネシアのモールの雰囲気に浸れ思わず写真を撮った。何も新しいものでもなく、又東京・横浜にはモット大きなきれいなモールがあるのであろうが、千葉方の小生は余り知らない。羽田に行ったのは羽田―デンパサール線がlanchしたからではない。
このニュースは羽田―インドネシアとのみ記載・報道され或いはジャカルタに行けるかもしれないと思い、電話で確かめたらやはりデンパサールであった。ジャカルタ直行はいつからですかと聞いた所、来年には何とかとか言っていたがもとより信じている訳でもないので、検討が始まる程度で思っておけばよい。
ジャカルタへのビジネス・生産活動がデンパサールへの観光・消費に勝つようになれば可能性がありそうと考えると或いはと期待する。羽田からのこの便も機内イミグレ手続きをやってくれると言う。ガルーダのアンケートが以前あったが何故ガルーダを選んだのですかの設問に機内イミグレの答えは用意されていなかった。日本だけの秘密のサービスであるからかもしれない。
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羽田はリムジンバスが便利である。国際線ターミナルもどのターミナルにもステーションはある。成田にもリムジンサービスはあるのかも知らないが羽田なら小生の市川でも30分で快適である。運ちゃんも居眠りする様な時間ではない。
再度標語を!日本が目覚めると羽田―JKT、首都と首都が結ばれて初めてパートナーシップだ。
ガルーダ:3240-6161 リムジン:www.95bus.com

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2012年5月 2日 (水)

130年の二つの病院

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何となく山の上ホテルを訪ねて来たお茶の水近辺は見るべきものが多い。
東京医科歯科大学を正面に向かう道だったか、ニコライ堂を過ぎてからだったと思う。まず、だれかの胸像が玄関脇に建っている佐々木研究所が目に入った。 
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ちゃんと説明文があり、その胸像は佐々木隆興という名前であったが医学の研究者で戦前に帝国学士院恩賜賞を2度も貰いS15年には文化勲章、S26 には文化功労章を得ている。
杏雲堂病院の興隆の学者なのであろうか、病院は既に2001年に120周年を祝っていた。
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そこを過ぎるとふと友人が何かつぶやいたのが井上眼科病院である。こちらも今の病院長の高祖父が井上眼科を始めたというのが130年を前である。
どうも視力の矯正手術であるレーシックなど高い眼科技術で有名のようで全国から患者が訪ねてくる。
薫風の夕刻 ちょっと歩いた間に歴史の重みのある東京を実感した。さすが日本である。

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2012年5月 1日 (火)

二つの湯島

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齢今頃になって湯島聖堂に迷い込んだ。お世話になった神田をしのんで神田明神(これも初めて)をお参りしようと地図を見ると湯島聖堂の裏である。入口に迷い多分裏側からはいったのであろうか、今もって全体が把握できないが、孔子像と大成殿も見たので見落としはないはずだ。入ってすぐは梅が咲き誇った神社の坂道も無く、湯島天神だと思っていた小生は不思議な気持ちがしていたのであるが、孔子像と何人かのお参りする中国人の姿からここは湯島天神と別の湯島であることを知ることになった。地図を見ると此方が湯島3丁目、天神の方が湯島1丁目(どちらも文京区)で同じ町内の様なものだと確認したが、聖堂は当初は大きな敷地(1万6千坪)があったようだ。湯島天神は457年の創建を誇るが聖堂は綱吉公の孔子廟から幕末昌平坂学問所を経て東大への系譜があり、現在学問所があった敷地には東京医科歯科大学となっており、明治期は文部省、国立博物館、つくば大学、お茶の水大学の先代があったそうで日本の教育の発祥の地と言われるそうだ。孔子像は台湾のライオンズクラブの寄贈で世界最高の像であると言う。

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