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2012年6月28日 (木)

日本占領時のオランダ人の収容

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ボゴールのCideung河がジャカルタのCideng運河(写真)に流れてくるこの地域Cidengに日本占領時オランダ人抑留所があった。
「ジャワで抑留されたオランダ女性の記録」(ネル・ファン・デ・グラーク
渡瀬勝・内海愛子訳)に出てくるが現在と繋がる記載が一切ないため何処かは解らない。西側にはBanjir Kanalがあるので、多分この間でのタナバンの近くとと思われる。この本での彼女の収容所生活の跡を辿って見る。
オランダが敗北に署名した1942年3月9日から東インド在住のオランダ人の苦渋が始まった。兵士は捕虜収容所に、民間男子17歳以上60歳未満)は制限居住区、婦女子は未だ自由が有り民間の住宅に住み得たが1942年10月には婦女子も抑留され彼女はバンドンのカレーズ収容所に移された。病と飢えで苦しんだが約2年、軍政監部の管理下の時代は未だましだったが軍の管理に移った44年にはジャカルタの悪名高いチデン抑留所に移され、ここでは一万人位がほり込まれ毎日死者が続出した。ここの半年後運よくジャティネガラの聖フインセンティウス病院抑留所に移ることが出来たがここでも毎日でる死者の為の棺の花を作りながら終戦を迎える事が出来た。
彼女は26歳、夫は軍人であったが、ビルマの鉄道建設に従事させられながらも生きながらえた。占領時には既に子供3人おり、42年6月の4人目の幼児を連れた全員生還であった。夫と再会出来た後の46年には5人目を設けている。
日本軍占領前にインドネシアに住んでいたオランダ人はジャワ・マドゥラに17.2万人、それ以外に3.5万人住んでおり、軍で捕虜になったものは6.6万人(英豪米人含めると8.23万人)、軍抑留所に8.2万人が収容されたそうだ。ジャカルタの抑留所はグロゴール、クラマット等10ケ所あった。ジャワ軍抑留者の抑留中の死者の数字があるが、それによると9%強が死亡している。赤痢の蔓延の中の糞尿の処理など慙愧の念に堪えず、哀悼をささげたい。

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