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2012年7月20日 (金)

Khouw家のCandranaya

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グロドックに掛かる時、例のCandra Nagaがモデルングループのアパート Green Central Cityに保存の為抱きかかえられている。その横に学校もある。学校はSMUN2と表示されている。この地は又1965年の9月30日事件後の共産党狩りの時焼き落とされた中国大使館もあった地であるが、それらを含めた全体が中国人社会の最後のカピタン Khoaw Kim An(1879年-1945年)の大邸宅であった。グロドックは元々バタビア城壁都市の外になるが、例の1740年11月10日の中国人大虐殺事件後、中国人の場内居住が認められずこのグロドックに住むようになったものである。カピタンは1619年から命名されていたが、1837年からKong Goan(中国委員会)が出来その長MayorがKapitenとLetnanの補助を受けて任務に就いた。それがKhouw家でジャワTegalに上陸したKhouw TjoenがKim Anの曽祖父である。その息子がKhouw Tian Sek(Teng Sekとも)が事業に成功、バタビア、タンゲランに多くの土地を所有するようになった。彼もKapitanに指名されている。それは孫のKhouw Yaouw Kee迄代々受け継がれている。
Tian Sekの息子Khouw Tjeng TjoanもBekasi、Karawang、Cikampek方面に多くの土地を持ち彼の代にこのグロドックの住宅地の基礎も出来たようである。CandraNayaがSekが建設したとしたら1808年頃、Tjoanなら1867年頃と言われる。その子供がKhouw Kim Anで彼が一番尊敬を受けKapitenの後1910年にMayorに昇格している。
なにせKim Anの父には14(或いは40人とも)の妻たちと24人(?)の子供たちがおりここに100の部屋があったという。金があれば尊敬される社会であったのである。

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