« Topnya Kawatake | トップページ | イスラム布教にJAZZも »

2012年8月13日 (月)

Tanah Abangの今昔の地名

今でこそ雑踏の汚いタナーバンであるがその昔はバタビア城の取り壊しと共にオランダ人が南下して住み着いた街で有ったのである。
00_abdur_muis_kebon_sirih033

00_abdul_muis_053


この道が当時はハーモニーからパサール・タナバンへ行く電車も通っていたAbdul Muis通りである。昔の名前はTanah Bang Hillでここだけオランダ語ではなかったのかなぁ。Abdul Muisには白亜のVillaが並んでいたと言うが今はその面影はない。
雑踏のパッサールの両雄の一つは、東のSenenであるがこのSenenのオランダ人地主が18世紀にTanah Abangを開き二つをつなぐ道がKebon Sirihである。従いKebon SirihがAbdul Muisにぶつかる辺り(Hotel Millenium辺り)の南に市場は有ったのであろう。ここからAbdul Muisをハーモニー(マジャパヒット通り)に向かって北上しその左手に向かう道の一つ一つにTanah Abang通りの番号がIからV迄ある。T.A I はプラサスティ墓碑公園とDKI中央区役所に向かう道で昔はKerkhoflaanと言われた。IIがCidengの先まで向かう一番長い道でLaan Travelliと謂れた。その南に III (Laan de Riemer)、IV (Laan de Briljkop)、V (Gang Thomas)と続く。「タナー・アバンTanah Abangの謂れ」はマタラム軍に血に染まった地とでも言うのであろう。

|

« Topnya Kawatake | トップページ | イスラム布教にJAZZも »

インドネシア・ジャカルタ歴史今昔」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/18815/46675606

この記事へのトラックバック一覧です: Tanah Abangの今昔の地名:

« Topnya Kawatake | トップページ | イスラム布教にJAZZも »