« グダンガラム その2 | トップページ | 日本、台湾・韓国に敗れる、中ネシア大躍進 »

2013年3月13日 (水)

見つけた総督の墓

又Prasasti 墓地公園に行って来た。墓の番号20に何人かの総督が眠っていると言う事がHeuken氏の著作に発見したからである。
00dsc_0168_2


その一人かもしれないJohannes Sibergに付いてWikipediaで調べると彼は1740年ロッテルダムで生まれたが、18歳の時弓の先生として東インドにやってきた。
彼はVOCのランクを駆け上がり、後に同じく総督になるWillem Arnold Altingの娘と結婚した後西スマトラの理事官からジャワ北海岸の理事官を務めたがここの官職は相当うまい汁を吸う事が出来、富を築き更にVOCの役員から、義理の父の後1代置いて1801年には総督になる。1817年にバタビアで死亡。
当時のオランダ本国の状況は1780年から愛国党とオラニエ派の抗争があり、そのひとつの結果でもある第4次蘭英戦争が起こり、オランダは致命的打撃を受け1784年降伏、オランダのジャワ独占はここに終止符を打たれた。VOCの窮状は益々悪化する中1795年になると本国で大革命が起こった。フランス革命後、革命政府がオランダを侵略し、フランスの保護下に置かれバタビア共和国となったのである。VOCも国家が引き継ぐこととなり1799年12月31日にVOCは解散した。
オランダがフランスに占領された1796年オランダ国王ウイルレム5世はイギリスに亡命、VOC所有の領土がフランス領になるのを恐れ、会社領土をイギリスに委任する旨の有名なキュウーの書簡を発し、イギリスはマラッカ、スマトラ、パンダを落としいれジャバをも睨みフランス保護下のバタビア共和国に宣戦を布告した。
1800年8月イギリスはボール引率の艦隊をバタビアに送りバタビア港を封鎖しオンラスト島のオランダ艦隊を殲滅、更にバタビア市の東部より上陸せんとしたが必死のオランダ(バタビア共和国)軍の土人も味方に編成した軍に撃退される。イギリスは更に強力な軍隊を派遣する計画を立てたが、1793年来の仏革命戦争やナポレオン戦
争で、これを果たさぬうちに1802年アミアンの条約が成立した。
アミアンとの条約において終了した筈のイギリスとの戦争は1803年に再燃、又1806年にもイギリス艦隊がジャワ海に現れひと暴れした。1808年、仏のルイボナパルトを王とするオランダ王国はナポレオン推薦のダーンデルスを派遣した。 Siberg
が亡くなった年はイギリスが遂にジャワに上陸、ラッフルズが副総督としてやってきた翌年である。

|

« グダンガラム その2 | トップページ | 日本、台湾・韓国に敗れる、中ネシア大躍進 »

インドネシア・ジャカルタ歴史今昔」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 見つけた総督の墓:

« グダンガラム その2 | トップページ | 日本、台湾・韓国に敗れる、中ネシア大躍進 »