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2013年8月の投稿

2013年8月30日 (金)

カサブランカ オーバーパスはいつ完成?

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Casablanca overpass to be ready by September
と言うタイトルのnewsを見たので目を凝らしたがこれは7月頃工事再開をした時のもので今はこれが遅れて

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Construction of Casablanca overpass finally resumesと言うタイトルのニュースでやはり2ケ月掛かるのであろう。


このプロジェクトは2012年に完成予定であったがIstana Karya担当部分で資金オーバーで3月頃ストップした。これはジョコウイ市長が2013年追加予算を付けたが、BPKPとBPKの監査が終了していない事も遅れの原因であった。これはこれとして再開を決断したのが7月のニュースであった。
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所でメトロポリタンビル辺りの工事には更に大型の機械が必要でこれを台湾から輸入する予定で有ったがこれがやっと先週到着した段階であり、あと2-3ケ月は掛かるようだ。
昨日の現場には日本の重機が休んでいた(夜10時から朝5時のみ工事)

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2013年8月28日 (水)

Bungur 56 独立養成塾とMenteng 31

Asrama Indonesia Merdekaと言うのはBungur  Raya 56 に設置せられていたと言うので見に行って来た。
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パッサールスネンから北上する裏の道(Gunung Sahari と併行し昔のGolden Hotelまで行く道である。今はBungur RayaではなくBungur Besarと何故か改称している。本当にここだったか、何のよすがもなく且つ少し離れすぎているので確信はないままアップしておこう。
前回のブログ「Kebon Sirih 80」は少し訂正を要するので再度話題としたが、この辺りはいくつもの文献が対立したまま存在するので共通事項を正とせざるを得ない。J.D.Legge氏の“Intellectuals & Nationalism in Indonesia“ によると日本軍には二つのAsramaがあり、一つは軍政監部宣伝部が設置したAsrama Angkatan BaruでこれはMenteng 31にあった。後一つがAsrama Indonesia Merdekaと言うもので此方がBungur Besar 56にあったもので、前田少将が吉住輩下のSebarjoとWikanaに運営させたものである。
スカルノ以下の独立英雄はここでは塾生と言うより、講師で有った筈である。

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Asrama Angkatan Baru(Menteng 31)の方にはIndra Pratama氏の文献ではスカルノやハッタが中心(Kompor)で参加したものにはChairul Saleh, Sukarni, Dipa Nusantara Aidit及びLukmanが居たが、モット年長のAdam Malik、B.M. Diah、 及びAnwar /Harsono Tjokroaminoto兄弟とも協調したそうだ。「インドネシア辞典では日本軍が作ったAngkatan Mudaに対してディアを中心にAngkatan Baruを作ったとの対立図式が有るような記載があったが、確かに軍政監部が作ったMenteng 31はAsrama Angkatan Mudaとも呼ぶようでここに混乱の源があるが、それは当時の状況の推移のなかで変わっていった時間差であろうか

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2013年8月26日 (月)

Panca Gatra

「日本大使館の変遷」でKebon Sirih 28に昔有ったという文献を見たので見に行った訳であるがその28番地などと言う番地は行って見ても表示されてあることはまれであるので推定になるが前回行った時の推定は間違っているようだ。市役所の土地がそうだと推定したがWebsiteでNO28 の番地を持つ建物を発見したのである。その建物の名前はPanca Gatraと言う名前が付けられていたが小生のアルバムには中々発見できなかった。
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と言うのは市役所の手前はLemhanasと言う国家機関のいかめしい建物であったから、頭からここに日本の大使館が有った筈はないと決めつけていたからである。市役所の土地も此方も日本大使館(領事館)とは関係ないのではないかと言う事になる。Lemhanasと言うのは国家強靭性研究所であり、この正式なアドレスはMerdeka Selatan No.10 でそちらを表としてKebon Sirihは裏側になるがLemhanasが保有する一体の土地である。
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そしてそのいかめしい建物がLemhanas自体と思っていたのであるが、この建物の壁には小さな字でPanca Gatraと書かれていたのである。これはこのいかめしい門の間にかすかに見える。 Panca Gatraと言うのは5つのアスペクトと言う意味で
1.Ideologi
2. Politik
3. Ekonomi
4. Sosial Budaya / Sosbud
5. Pertahanan Keamanan / Hankam
らしいが国家強靭性のベースはこれらの教育だとの思想があるようだ。昔は国防省の下の組織だったりしたので怖い存在かと思ったがこの建物も結婚式等に開放している。
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いつもは急ぎ通り過ぎていたがそれを知って中に入って見たが、日曜だったせいか何もやってなかった。

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2013年8月25日 (日)

大相撲ジャカルタ巡業

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友人から大相撲ジャカルタ巡業の招待を受けた。大相撲の海外巡業は8年前にモンゴル以来でそれを除きアジアではよくぞ選ばれたジャカルタと言う事である。五反田電子と言う異色な企業が後押ししているのでちょっと宣伝をしておこう。00dsc_0324


ジャカルタの企業もトヨタ、パナソニックの大手から或いは個人名の人までスポンサーに名を連ねる人或いは懸賞金を出す人、又多くの運営に携わった人々が居られてやれることなのである。今年は丁度日イ国交回復55年という。昨日の日本大使館の変遷で丁度書いたばかりである。
力士は前頭以上の幕内力士41名、それに行司、呼び出し、審判と多くの関係者が入る訳でバス4台で会場Istra Senayanの隣のアトレートホテルからやってきたようだ。この会場は多くのバトミントン世界チャンピオンを生みだし或いはスカルノ末期の国会議事堂だったが土俵設定にはうってつけの様だった。昨日と今日、それぞれトーナメント戦で38戦、そして昨日の優勝者稀勢の海と今日の優勝者、日馬富士との総合決勝戦で日馬富士が優勝となった。幕の内弁当も彩に付いていたがマス席がちょっと狭く、ビール太りの腹を持てあました。
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写真は日馬富士に敗れる瞬間の白鵬、Xperiaもう古くなった。約4時間何せ有難う。

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2013年8月23日 (金)

日本大使館の変遷

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インドネシアへの日本の外務省・大使館の設置の歴史を見ておくのも日本人の正式な関り合いとして知っておくのも悪くはない。この地は戦前オランダ領で有った訳で日本との外交関係は宗主国のオランダとの間にあるだけで、外交ではなく進出・滞在する日本人のフォローの面が外務省の仕事であるので大使館はなく領事館であった。
そしてこの最初の領事館は明治42年の紀元節の日に設置せられた。この領事館は日本占領時は不要となり戦後復活する事になるが、日本敗戦で日本が独立を失った訳であるので最初は領事館も認められず昭和1951年11月22日になって外務省の在外事務所と言うステータスであった。そして翌年サンフランシスコの講和条約(4月28日)で独立を復活したあとの8月5日に総領事館となり、日本とインドネシアの賠償問題が片付いて外交が開かれた時1958年4月15日に初めて大使館となったものである。戦前の領事館はスラバヤメダン、メナド、マカッサルにもあったが、在住者はバタヴィアで292名に過ぎなかった。
それらがどこにあったのかは今整理が付きかねているが
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1942年まで ムルデカバラット(? Or戦後)

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1952年頃 クブンシリー 28番地(怪しい) ここはDKIの市役所の敷地で、この手前3-4前が34番地である。
       市役所のすぐ隣のPanca Gatraかもしれない。
1962年頃 イマムボンジョール(?)
1967年頃 タムリンの現在の場所
1998年頃 建て替えの為一時タムリンのサリパシフイックホテルの前のビルに移転
2004年頃 現在の武骨な大使館
(追記)2017年5月11日ブログhttp://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/uscagarbudaya-2.html参照
蘭印時代日本領事館はクブンシリーの先のFachrudinにあった。


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2013年8月22日 (木)

アンカタン・ムダ

Kebon Sirih80はJakarta.go.id]に出ているくらいだからその場所に記念碑とか観光表示があってもいいものだが、出ているだけで驚きである。ただ、Jakarta.go.idは間違いが多いので注意しないといけない。
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この項目ではIndonesia Merdeka Asramaがタイトルで途中からメンテン31の方の説明の様だ。ただKebon Sirih 80が所在地として記載あるが、その他にJl.Bungur  Ray 56とも出ており、そして塾生たちはBungur 56 と呼ばれたとしている。更にその説明を追加すると、これは前田少将のイニシアティブでつくられ、塾長にスバルジョを指名しWikonoを手伝わせた。 前田は吉住よね五郎 西嶋しゃげ忠に管理支援させ、又スラバヤにも支部を作っている。ここでスカルノ、ハッタ、イワクスマ、シャリル、シンギー、ラツハルハリ、マラミス、ブンタランが卒業している。この政治教育組織はasrama Angkatan Baru Indonesiaとそれほど違いはない。一期生は1945年4月に30人卒業させ、その5月に80名の講習が始まった。彼らの一部は後にSudiroをトップにBarisan Peloporのメンバーになった。
と言うものである。
これらは日本軍が青年を正しく育成し統制する為のものでAngkatan Mudaと呼んだが、これに反発し自主的な動きをしたのがB.M ディア等のAngkatan Baruである。Barisan peloporとは日本軍政下の奉公会の下部組織の半軍青年隊で中央隊長はスカルノ、彼らは後にBarisan Banten と名前を変え独立戦争の部隊となった。

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2013年8月21日 (水)

8月のジャカルタ街並み

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インドネシア独立記念日を迎えたこの月間は記念日が過ぎてもMerah/Putihの紅白旗が建物を思い思いに飾り美しい。今年はそう言う目で見れば特にバラエティが多い。赤だけの物もあったがあれは違うかもしれない。 一番飾っているのは大統領宮殿か、モナスか、独立宣言起草記念館が或いは国軍司令官官邸か比較はできないが未だ8月は日日があるのでいずれ追加することとしよう。
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国軍司令官官邸はデポネゴロ側が正門、スロパティ側や後ろのJl.Syamsu Rizalにも面しているので広い敷地の3面と建物に飾る布地は相当なものであろうが、少し建物が負けている様な気がする。
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その通りを挟んだ前の家はむかしユスフ・カラが住んでいたので、副大統領官邸であろうか。ここも通りに面している線が長い。

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2013年8月20日 (火)

Kebon Sirih 80

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と言う住所を知ったのはチョウ・シン・モ回想記からであった。それは1944年マカッサルの海軍の仕事からジャカルタに移ってきた吉住留五郎に海軍武官府の前田精少将が調査第3課長として迎え入れ住まわせた所となっている。課員には西嶋重忠、田口忠雄、沖原紀夫、ハイルディン等が居て将来の独立の為の青年団Pemudaを編成する仕事を行ってきた。彼らのたまり場がKebon Sirih 80でグループも後にこの住所で呼ばれた。敗戦となった時前田少将は物資を売却した資金250万ルピアをインドネシアに残る決意をした吉住に独立の為に使う様にと渡し、これが、前から育成してきたラシュカル青年団(タンマラカ)の資金となったものである。日本軍には後一つこの様な教育塾があるが此方は陸軍の軍政幹部が作ったアスラマ アンカタン ムダでンテン31グループである。
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とう言う事でKebon Sirih 80 を探しに出掛けたのであるがこの番号のは無く88番地の隣の写真の建物だと推定した。
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と言うのはその前の建物が96番地であり8番の間隔を引くと80になるからであり、且つここはコストラッドのメスのようであった。このみっつ供並べて見よう。

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2013年8月19日 (月)

独立記念日のガルーダ

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その直前にレバラン長期休暇が終わり、序でに延長した独立記念日と翌日の日曜日までが休暇となったこの日はやっぱりガルーダは満席であった。ボーイングはエクゼクティブ36席が満席、エコノミーは186席中180席にお客が座った。小生はいつもの最後尾の席は既に人が居り、その横の通常搭乗嬢が座る席になったが幸いに隣は空席でゆっくり出来た。今日のお客の中には幼児・赤ちゃん連れの日本人が多く、写真の真ん中頭が見えない席は子供である。そして日本人対インドネシア人の比率で見ると日本人の方が多いので満席の要因はインドネシア要因ではなく、日本人要因と言えるが、レバランの間に盆帰郷をしたのであろうからやはりインドネシア要因となる。
来年の参考になるであろうか

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2013年8月16日 (金)

独立記念日、モナスの彫像達

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昨日はインドネシアの独立記念日であったのでジャカルタ新聞がジャラン・ジャラン モナス博物館を特集していたのでそれに合わせ小生も何か書くと、外回りの記念碑・彫像を挙げて見よう。まずは
1) 北側にあるディポネゴロの像
2) 東側にあるカルティニの像
3) 南側にあるイカダ記念碑
4) 西側にあるハイリル・アンワールの胸像
5) 西側、上の横にあるM.H.タムリンの胸像
6)モナスの外側になるが南西角にあるアルジュナ像
7)同、ムルデカ・スラタン通り入口に建つタムリン像
昔「モナス徹底調査」を書いたがこの分野は収録を忘れていた。すべてブログに登場済みであるが、別稿を予定していたのであろう。
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カルティニの像は日本からの寄贈品であり、昔、デポネゴロ通りのバペナスの前に建っていたのであるが、せめて道路の名前にその道路の人名像を立てようとのS市長のアイデアでディポネゴロ像に追い出されここに移転したのである。 東の端に日本人の来訪を待っている。
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道の名前の銅像を建てるため新たに像を作ったのでディポネゴロだけでなくタムリンもスディルマンもいくつも立つことになった。幾つも作ってもディポネゴロさえ変わり映えはしないが。 

それでも、戦争の武器にする為引き倒した日本とはえらい違いである。映画 「少年H」 では二宮君の出征送別朝礼の模様があったが、二宮金次郎は像の数では世界一だったのであろうか。これは再建されていい。

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2013年8月15日 (木)

クンストクリンがBuddah Barだった頃

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Teuk Umar通りの元移民局の建物は現在晴れて、昔のKunstkringという名前を冠したレストランとして、市民の前に晴れ姿をみせているが、その前は2008年末にBuddah Barと言う名前のレストランであった。レストラン内部には4メートル大の仏像が飾られていたことから翌年には仏教徒を中心に大反対運動が起こり又由緒ある建物の文化的史跡であることから多くの人の良識を刺激し結局閉鎖に追い込まれたものである。
Buddha Barの経営首脳は元知事Sutiyosoの娘Reni Sutiyosoと元大統領でPDI-Perjuanganの党首である Megawatiの娘Puan Maharaniで、あと一人の株主に当時実業家のDjan Faridzが居たのであった。Djan Faridzはその後出世して今は住宅相になっている。その頃DKIの首長はFauzi Bowoで仏教の団体はDKI首脳、観光省(当時の大臣はJero Wacik)或いは結果ユドヨノ大統領に迄持ち上げて働きかけたが誰も動かなかった。最終的にも仏教徒中心にで結成したFSLA(宗教堅護団体)は裁判に持ち込むことになったのであるが、その結果は2010年9月JKT高裁で、Buddah Barは閉鎖が決定され経営者等関係者は罰金を課せられた。そして市のGalleryを経て今のTuguグループの経営となったのでる。
ただこの所有権の問題はあくまでも政府が保有し賃借の形を取っていたと思われる。この様な史跡を有効に使用する事は多くの利益を生む事は自明であるが、そのリノベに多額の金がかかり、多額の金のプロジェクトはうまい汁であることもインドネシアでは自明である。
よく見るとBuddah Barの時のリノベーションは多額で有ったためそれ以降内装は別にして外装は不変である。

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2013年8月13日 (火)

Carakalokaは結婚式場

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もう半年も前、前から気になる建物がったので出掛けて見た。Gedung Carakalokaと言う名前が付けられている。分けるとCaraka と Lokaとなるがどちらも辞書にない言葉である。色々探るとCarakaがメッセンジャー、Lokaは世界とかアレーナか、外務省が保有している建物である。
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Senayan CityとSTCが有る所の三叉路Pertigaanと言うよりT字路にある。住所はJl.Sisingamangaraja No.73とあるがむしろJl. Hang Tuahになると思うがSisingamangarajaに向いた辺りから外務省が持っている施設なのでその様な住所名なのであろう。
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従いここから入るとこの建物の正面であるが背後の研修センターの入り口にもなる。全貌を見る為には前のSTCビルが良い。この建物は昔は外務省の文書保管Treaty Roomとして使用され又外務省関係の接待場所であったのであるが今はConvention Service特に結婚式場として使用されている。結婚式場はこの様に政府の省(労働省、社会省、工業省。。)等も持っているが、営業目的なのか或いは社会貢献なのだろうか。中には国会の中にあるBaiturrahmanモスクやAny Ageng Srang(観光省)もある。レンタルは一人当たり1万ルピア、高いのはKartini 会館になると1000人ルームでRp25 百万である。今日はお盆ではあるが、ジャカルタ住人はどなたも良く通る道で目に付く建物であったのでアップした。

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2013年8月12日 (月)

City開発でコートダジュールに

家の近くの風景でも写真に取ると素晴らしくなる。
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東京湾が入り込むここは漁船とクルーザーが憩う場所である。青空が海に映えその中に白い船体と林立するマストの如く見えるポールに繋船される漁船群でもここを開発する業者、日本綜合地所がイメージすると南欧のコートダジュールになる。 

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奥に見えるのが開発中の区画であり、二つのCityが建設される。Cityと言ってもマンションである。名前はヴエレーナ・シティとミント・ガーデンシティである。 二つもあるので多分ショッピングセンター的なものは出来るであろうが、ジャカルタのCityの概念までどこまで迫れるか楽しみではある。ただ67,000m2程度ではジャカルタのあちこちあるCityには太刀打ちできまい。 ただ大ジャカルタでも東京には太刀打ちできないのであるが。

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コート・ダジュールとはフランスの地中海海岸線でマルセイユよりずっと東部、ニース、カンヌが有る辺りでイタリア側にはサンレモ等保養地が多いリビエラともいう。小生は在欧時行く機会を作り得なかったが、森進一の冬のリビエラを時々唄っている。リビエラをgoogleしたらなんと最初のヴエレーナ・シティのAdに行き当たった。
この文章を書いた後、他の人のブログ(この二人はジャカルタとバリが話題の人)の頁にもこのヴェレーナのadが出て来た。Mint Garden Cityはgoogleしたが、、偶然なのか いや勝手なgoogleの力なのであろうか ところが自分のブログには出てこない。

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2013年8月11日 (日)

7月の投資環境トピックス(2013)

景況翳りを知らず自動車産業は再拡張の時代か
7/2  世銀が今年のイ経済成長率予想を当初の6.2%から5.9%に下方修正
7/5  外貨準備高1千億ドル割れ:BI。ルピア安の進行が心配されている(8日)。
7/11    BIレート再び引き上げ6.0%→6.5%。

7/4  自動車市場が新記録、上期販売台数600,352台に到達:協会。年130万台の声
7/8  タタ、9月メドにイ進出、乗用車・商用車販売開始へ。
7/9  クライスラー・インドネシア、新車種「クライスラー300C」発売
7/16 低価格グリーンカー工業省令:980-1,200cc、燃費20km、イ風ロゴ、Rp95m限度
7/18 ホンダ、小型車・低価格グリーンカー「ブリオ・サティヤ」生産へ、1,200cc。
7/23 オートバックス、インドモービル51%と合弁へ、資本金1,800万ドル
7/24 トヨタ、エンジン工場新設計画、投資約230億円、2016年稼動見込み。
7/28 スズキ、自動車工場増設計画、「ワゴンR」、グリーンカー 投資計1千億円。

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2013年8月 9日 (金)

ワヤン博物館に眠る総督達

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クーン総督のお墓から振り返って見ると、いくつかの総督の墓碑がある。ブログで何度も登場したイムホフ総督はタナバンのお墓からここに戻ってきたようだが、あと二つの総督が居るが年代がばらばらであるので同じ様な状況だろうと思う。Willem van Outhoorn 総督 とAbraham Patras 総督 である。
アウトホールン総督は1635年アンボン生まれである。オランダの栄光の17世紀と言われるディーメン総督の時代である。
商人としてVOCに入社後総督まで登り詰めた。総督も13年に長期に渡り、退任後も70歳で病気でもあったためバタビアに滞在が認められ、ここで没した。
彼の在任中の出来事にはコーヒーの栽培がある。この試みはZwaardecroon総督の時になって本国への輸出へと成功した。彼が死亡する直前にマタラムのアマンクラットII死亡後の継承問題からVOCが介入し1704年第1次ジャワ継承戦争が始まっている。
パトラス総督の時代は1723年のピーター・エルベルフェルトの反逆事件と1740年の中国人の大虐殺事件の間の不穏な時代であった。彼は商人勤めをした後VOC支店の兵士として東インドにやってきたが、アンボンやスマトラ各地で商人として活躍したがVOCの評議員経歴も無く、1935年突然仮の総督に任命され本部もこれを認めた。死亡までの2年間と言う短い期間で彼が下した政策は無いが、敬虔で良心の男でささやかな人生を送ったとされる。
前述のアウトホールン総督と共に先のブログ「バタビアで逝った総督達」に追加修正しなければならない。
24 Sep 1691 - 15 Aug 1704 Willem van Outhoorn (1635 - 1720) 85,13
11 Mar 1735 - 3 May 1737 Abraham Patras (1671 - 1737) 66、2

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2013年8月 8日 (木)

秋立ちぬ

未だ酷暑は後2週間は続くのであるが、この暑さの中でも秋立ちぬ季節を感ずることがある。庭のアジサイの付近でセミがよたついて終わりを迎えていたのを見つけた時そう感じた。その枝にはこの間脱ぎ捨てた脱皮の皮が残っていたのも見つけ、1週間の命の終わりは命の始まりの所に戻ってくるのかと、ものの哀れを感じた。
6日分、半ダースづつ買うビールもあっと言うほどに無くなり、いつの間にか盆踊りのシーズンも過ぎて行った。
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高橋秀樹と高橋麻美親娘が司会をした墨田川川開きもつい昨日の様であったがあの時は稲妻と大雨に打たれ40分程度で中止となった。 同じ日家の近くで、二つほど盆踊り(富浜地区と塩浜地区)があったが、それらもも最後まで出来なかったようだ。 あれから日本各地は経験もしなかったような瞬間豪雨の災害に見舞われた。小生の家の周りはピンポイントで雨も殆ど振らず、庭の水やりに気が引けるほどだ。
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この土日は晴天の中マンションの夏祭りがあった。このみっつの夏祭りは直径1kmの円に入る程度の距離であるので、奉納帳が三つ回ってくる勘定だなと感心する事であった。
秋立ちぬと題するのはひんしゅくを買うが、今日のレバランに免じてお許しこう。 Mohon maaf lahir dan batin
写真は こまめに題を付けて保存しないと機械のNOに任せていたら 上書き で、ブログ予定のものが無くなった。代わりにごみ箱に捨てたほうを生き返らせてアップした。

MSNで昨日が立秋だったことを知った。謝ることはなかったのだ。

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2013年8月 7日 (水)

風たちぬ

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読売新聞の付録で「風たちぬ」のポスターを貰ったので、序でに先週見に行って来た。
副題迄入れると「風立ちぬ いざ生きめやも Le vent Se l’eve, il faut tenter de vivre」と言うようだ。堀辰雄が訳
したポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」よりとある。

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宮崎駿監督で彼のスタジオ・ジブリが制作している。ジブリと言うのは彼が空への夢からイタリヤ カプロニ社製の偵察機の名前(本来の意味はサハラの熱風)から来ているそうで、名機ゼロ戦を設計した堀越二郎が夢で見たカブロニ技師に励まされゼロ戦が生まれて行くストリーとダブっているようだ。
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この話は堀越二郎が関東震災に遭遇する列車の中で偶然知り合った奈緒子と言う女性との恋愛と言うストーリーに繋がっていく。そこが作家堀辰雄の描く「風立ちぬ」の世界である。彼女はその内に結核に掛かっっているのが解ったが、二郎はあえて彼女との結婚を決意し、苦難を乗り越え愛していく。菜穂子は妻として女性として一番きれいにふるまいその努力の数日を二郎に捧げ、そして田舎の療養所に消えて行くシーンは涙を誘う。
ゼロ戦と言えば特攻隊と切り離せない悲しい時代であるが、それは映画のテーマではない。それが副題にあるが、それはあと一人の作家 堀田善衛のエッセイ「空の空なればこそ」に出てくる旧約聖書にある「凡て汝の手に堪ふる事は力を尽くしてこれを為せ」と言葉が全体を貫いている。
ポスターには「堀越二郎と堀辰雄に敬意をこめて。 生きねば」と墨書してあった。生きねばと言うのはあの暗い時代だったからなのか。
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今、又ひょっと風が起こった。
小生には日中戦争の時代を思い起こすが繰り返してはならない。

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2013年8月 6日 (火)

ガルーダは拡大しても変わらないもの

ガルーダの路線拡大のニュースが相次いでいる。最新は大阪・関空―ジャカルタ線である。未だ週4便であるが月・水・金と日曜である。ジャカルタ行き(GA889)は成田―ジャカルタ(GA885)が飛び立つ時刻と同じ12:00に大阪からも飛び立つのである。ジャカルタからの帰り(関空行き GA888はジャカルター成田(GA884)が飛び立つ時間23:30より1.5時間遅れで飛び立つので曜日はジャカルタ行きと同じ月・水・金と日曜であると覚えればいいが、実際飛ぶ人は前の日の夜に出なければならない。羽田ーデンパサール便も昨年末週7便に増便されこれでガルーダはデンパサール行きを入れると週32便となる。
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そして来春には羽田―ジャカルタ便が計画されているが、1stクラスを導入するとかエクゼキュティブを狙っているので小生には関係なくやはり成田と変わらないであろう。


GA881/880 成田/デンパサール 昼 11時/0:25      週7便
GA883/882 関空/デンパサール 昼 11時/0:35     週7便
GA885/884 成田/ジャカルタ  昼 12時発/23:30発  週7便
GA887/886 羽田/デンパサール 深夜1時発/15:00発  週7便
GA889/888 関空/ジャカルタ  昼 12時発/01:00発  週4便

豪州は35便であるが、Seoulは12便か、KLは1日3便 シンガポールJKTは1日9便、中国は不明ながら張り合っても仕方が無いだろう。
も一つ小生に無関係となったもの ボーイング 777-3--ERで、期間限定が小生の往復の間に入ってしまった。残念。写真はGaruda機内誌より。


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2013年8月 5日 (月)

国軍のレバラン

レバランを8日に控えて2日前の土曜から休みに入った会社もあると思うが、7日が最後の断食明けとなり、街中で花火や爆竹が鳴り渡る翌日までタクビランで祝う。翌日は集団礼拝の後着飾って親戚等を訪れ合う(SILATURAHIM)。偉い人はオープンハウスで来客に挨拶(集まり行事 halalbihalal)する。 
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インドネシアの国軍では朝のうちにレバランの集団お祈り行事(shalat Idul Fitri)を国軍本部で行う。国軍の本部はあのゴルフ場があるCilangkapのMarbes Lapangan GOR A. Yaniで、そこには国軍幹部がそろう事になる。現在の国軍司令官Panglima TNIは海軍提督Laksamana のAgus Suhartonoであるが3軍の参謀長はKasal Laksamana TNI Soeparno, Kasau Marsekal TNI Imam Sufa’at、Kasad Jenderal TNI Moeldoko であるが陸軍参謀長は大統領の義理の弟Pramono Edhie Wibowoであったが彼はどこにいったのかニュースを見逃した。国軍司令官も交代したニュースが有ったような記憶が有るがGoogleしても無いので記憶違いだろうか。このあと、国軍司令官はスロパティ公園の横の官邸でHalalbihalalを行うが、オープンハウスと言っても誰でも入れるわけではないだろう。写真は取り損ねているのでCilankap のMarbesにした。

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2013年8月 3日 (土)

出たっ! 移転価格・税務調査ガイド

インドマルコ社 「インドネシア企業経営」 7月号の目次は以下の通り。タイトルの新法令、前号に引き続く国際会計および新投資手続き規定の改正他、Pemotonganの概念、小企業簡易課税制度など、インドネシアの経済、会計・税務、諸手続き等の重要法令の紹介など満載。
詳しくはメールアドレスrisa@indomalco.com又は k2433@ae.auone-net.jp或いはww.indonesialink.net/indomalco/に照会下さい。
1. 今月の経営情報・事例研究 枚 頁
  1 ) インドネシアの 今月の税務法令アップデート 3 2
  2 ) インドネシアの 今月の経済法令アップデート   7 5
  3 ) インドネシアの 「会計原則 169 (法人所得税 2)」 北村浩太郎 4 12
  4 ) インドネシアの 「租税条約と移転価格税制」 広沢勉 2 16
  5 ) インドネシアの 新投資手続き規定 3 ~事業拡張 3 18
  6 ) インドネシアの 新投資手続き規定 4 ~変更届け 5 21
  7 ) インドネシアの 投資基本許可/拡張基本許可申請書式 邦訳 5 26
  8 ) インドネシアの 源泉所得税PPh-21の計算例 6 31
  9 ) インドネシアの 今月の労働関連トピックス 2 37
  10 ) インドネシアの 納税者番号・課税業者の登録と抹消手続き 5 39
  11 ) インドネシアの 農業省作物製品輸入推薦状の取得手続きの改正 3 44
  12 ) インドネシアの サービス取引での独立企業間価格の原則の適用 3 47
  13 ) インドネシアの 電子システムと取引の運営に関する政令~その4 3 50
  14 ) インドネシアの 特定売上以下の小企業の所得税 1 53
  15 ) インドネシアの 税法犯罪の初期調査方法 その3 4 54
   
2. 今月の政治・経済情報  
  1 ) 2013年6月度 下旬 政治・経済トピックス メール配信 3 58
  2 ) 2013年7月度 上・中旬 政治・経済トピックス メール配信 6 61
  3 ) 物価・貿易2013年7月発表 メール配信 1 67
   
3. 暮らしの随筆・その他  
  1 ) 「明日の街角91~夏の日に 富士山連想」  橋本政彦 2 68
  2 ) 「バタヴィアで倒れた総督~シオン教会に眠る総督編」 西見恭平 3 70
   
4.今月の金融・経済関連データ  
  1 ) 今月の月次経済指標 2012-2013トレンド メール配信 2 73
  2 ) 今月の会計・税務用換算レート メール配信 1 75
  3 ) 今月の為替株式金利の動き メール配信 1 76
      ニュース性のものについてはご希望の方にメール配信もしています。    
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表紙写真:中部ジャワ州スマラン市内に建つラワンセウ。1904-07年の建設で、オランダ東インド鉄道会社が使用。日本占領時代には、地下に牢獄が設けられた。ラワンセウ(Lawang Sewu)とはジャワ語で「千の扉」の意、多くのドアを配したその建築デザインに由来するようだ。

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2013年8月 2日 (金)

一番古いコーヒーショップ@Bakoel

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2007年の7月にチキニの古いコーヒーショップに行った時の事をブログに書いたが、最近井口氏との交信の中でこの名前がBakoel Koffieと言う事を知った。現在は4代目で最初は1878年の曾祖父Liauw Tek SiongのめしのWarungから始まっている。ある日ジャワの行商人のおばさんが頭に乗せた伝統のかご(Bakoel)からコヒー豆を取りだし置いていったことからローストコーヒー専門店へと育って行ったようだ。このBakoelをブランドとしての商売は2001年らしいがチキニの店はオランダ時代のショッピングプロムナードにあり、それが1920年頃建設されたものなのでこのコーヒーショップはその当時からのものであろう。多分その時代はtoko penggorengan kopi Tek Sun Hoと呼ばれていた2代目かもしれない。
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表の入口のガラス窓にはこのジャワのスタイルの良い行商乙女が描かれている。今はBintaro Utama、Soenopati、Kelapa Gading(La Piazza)等にも展開しているようで、日本人も通は知っている。
(Cikini Raya No.25 ,Menteng 3193-6608)

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2013年8月 1日 (木)

クーン総督埋葬の頃

5月のブログでワヤン博物館にあるクーン総督のお墓に1634年と書かれている年代が解らないとしたが、これは死亡年ではなく移されて此方に埋葬し直された年である。
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クーンが死亡したのはスルタン・アグンとの戦い(1628~29年)の中であり、時期が合わないのはその間、バライ・コタ(現在の歴史博物館)にあり、その後移された経緯がある。
ワヤン博物館の最初の教会はSalibkerk(十字教会)と言いスペッくス総督の1632年に計画(着手)されディーメン総督の1640年にオープンとなったが、これも1634年と1640年と時期が合わないかもしれないが、ともかくお墓が先だったようだ。
彼が死んだ1629年は現在の歴史博物館のバライコタは1710年にリーベック総督時代に完成したもので、これではなく既に2代目(1627-1707)のバライコタがあったのである。何故バライコタになったかと言うと、当時あった教会堂はマタラムの攻撃で焼失していたのである。
それほど意味のあることではないので、年代合わせはこの辺りでやめよう。

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