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2013年8月22日 (木)

アンカタン・ムダ

Kebon Sirih80はJakarta.go.id]に出ているくらいだからその場所に記念碑とか観光表示があってもいいものだが、出ているだけで驚きである。ただ、Jakarta.go.idは間違いが多いので注意しないといけない。
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この項目ではIndonesia Merdeka Asramaがタイトルで途中からメンテン31の方の説明の様だ。ただKebon Sirih 80が所在地として記載あるが、その他にJl.Bungur  Ray 56とも出ており、そして塾生たちはBungur 56 と呼ばれたとしている。更にその説明を追加すると、これは前田少将のイニシアティブでつくられ、塾長にスバルジョを指名しWikonoを手伝わせた。 前田は吉住よね五郎 西嶋しゃげ忠に管理支援させ、又スラバヤにも支部を作っている。ここでスカルノ、ハッタ、イワクスマ、シャリル、シンギー、ラツハルハリ、マラミス、ブンタランが卒業している。この政治教育組織はasrama Angkatan Baru Indonesiaとそれほど違いはない。一期生は1945年4月に30人卒業させ、その5月に80名の講習が始まった。彼らの一部は後にSudiroをトップにBarisan Peloporのメンバーになった。
と言うものである。
これらは日本軍が青年を正しく育成し統制する為のものでAngkatan Mudaと呼んだが、これに反発し自主的な動きをしたのがB.M ディア等のAngkatan Baruである。Barisan peloporとは日本軍政下の奉公会の下部組織の半軍青年隊で中央隊長はスカルノ、彼らは後にBarisan Banten と名前を変え独立戦争の部隊となった。

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