不運だったスルヨ
スノパティのSuryo通りやハーモニーのSuryo Pranoto通りと同じ名前の Adhi Suryoと云う国家英雄は未だ道路を与えられていない。かれはインドネシア民族運動の嚆矢とも言えるイスラム商人同盟を作った傍ら、初めてのムラユ語による新聞を発行し新聞の父ともあがめられている人で、その上その新聞で鋭いオランダ批判を展開し遂には流刑とされ38歳で亡くなっている。この事績を持ってしても彼の国家英雄叙勲はやっと2006年であったが、一つにはアナンタトゥールが彼に付いて書いた著作が長く発行禁止されていた事情による様ではあるが不思議である。
従い今に残るものは彼の写真しかなくインドネシア人でも知らない人が多い。彼の時代のワヒディン(道路あり)もチョクロアミノト(道路名あり)、マングンクスモ(病院名あり)も似たような姿である。あの帽子とちょび髭はインドネシアの侍だったのであろうか。
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