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2013年10月15日 (火)

ジャワ・バルーの評価

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Halo Jepangだったか切り抜きにしてきたコラムがある。タイトルはBerburu “Djawa Baroe”で、”ジャワ・バルー“を探して云うタイトルである。
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ジャワ・バルーと言うのは日本軍占領期に日本軍が発行したグラーフ雑誌である。Marcoなる人がそのコレクションとして探している話である。軍政監部は当時 「啓民文化指導所」を設立し文化活動を幅広く行ったがその一つが1943年1月1日が最初で月2回の発行で48回発行したこの雑誌の出版である。これは大変重要で、この2年間の文化活動はオランダの300年を超えるものがあった。確かに日本軍はプロパガンダの戦略をもっており、それは各司令官に文化を含めたプロパガンダを考案する自由を与えていた。Marcoに依れば演劇家Asrul Saniや画家のAffandiやHendra Gunawan達インドネシア現代派に多くの影響を与え、彼らは後大家に育って行った。コラムはそう締めている。
インドネシア語の中庭ブログには“1945年8月1日号まで、総計63号で 記事はインドネシア語に対して日本語の抄訳が併記されているのですが、1945年5月15日号(1945年10号=総計58号目)からインドネシア語のみになる”
とある。またここに出てくるMarcoとは20世紀初頭の著作家Marco Kartodikromoで彼も先に弊ブログの「不運だったスルヨ」と共に新聞社で働き、インドネシア民族の意識形成に重要な役割をはたした人物のようである。

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