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2013年10月24日 (木)

惣兵衛の七不思議

1600年代、今のジャカルタに住んでいた日本人の一人にSobeなる人が居た。
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日本の海外交渉史の権威、岩生成一氏の著作になる中公文書の日本の歴史シリーズ「14 鎖国」356頁に、Sobeのお墓の写真が掲載されている。この頁は「バタビアの日本人」の章ではあるが「ジャガタラお春」と「おてんばコーネリア」の話ばかりでSobeは出てこない。首題からそれるからかとも思えるが井口正俊氏の著作の「ジャワ探求」にはもっと詳しい。
Michiel T’Sobeのお墓が触れられている、1925年刊行のドゥ・ハーン編「オウド・バタビア」等を参照し、以下の如しである。この墓は1886年、イギリスの宣教師がカリブサールの敷石となっているのを見つけ、英国教会に埋葬したが1911年にKebon Sirih 28にある日本の領事館に移した。「じゃがたら紀行」を著わした徳川義親公が1921年ここにある事を記しているが、その後紛失している。(井口氏は賞金を掛け多くの人に訪ねまわっている)
小生はその後は日本が占領したので領事館は不要となり、誰か日本人が住んだはずであるので何かした筈であるが、当時ジャガタラお春のお墓もあった筈であろうが、それさえ不明なので、独立戦争の混乱の時を含め何かあった筈である。と言うのはSobeはお墓に1605年生まれで1663年死亡と記載され、お春の死亡はその後の1697年であること、二人とも裕福に暮らしその財産の相続遺言状が現存しているからである。Sobeの遺言状ではその財産の1/3をお春の夫に譲っている(親族関係にあった?)が
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その作成は当時のヨンケルス通りのお春の家で行ったと記載がある。ロアマラカではなかったのである。この写真のJl.Kakapあたりなのだろうか。惣兵衛と言うあて字は徳川公が書いているそうであるが、それを表す証文等はない。宗兵衛の字のブログ等もあるが、あて字なのであろうか。
それはそうとしてその頃バタヴィアには鎖国で追放された等で日本人が100人規模で居た(全人口の1%強)居たが、欧米の文書にも当時から日本人は低賃金で米と塩魚だけ与えれば済むなどと重宝された一面もあるが賢くて有能且つ男は勇敢、女は淑女であったことが知れ、現代の我々はこの誇りを維持しなければならないと思う事であった。

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