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2014年4月 8日 (火)

3人のバンテンのパンゲラン

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パンゲラン ウイジャヤクスマ(皇子)はパンゲラン ウィジャヤカルタ(皇子)に仕えた軍司令官であったがそのウイジャヤカルタはウイジャヤクラマ皇子とかジャヤウイカルタとか色々な名前を持つスンダクラパ地方に派遣された3代目の領主(公爵Adipati)で1602年から1619年迄治めた。一説、Jakartaの語源でもあるが、1619年はオランダのクーン総督がバンテンと組むイギリス軍を追放しバタヴィアを建設した年であり、バンテンのスンダクラパ地方の放棄の年になる。最初にバンテンがこの地をパジャジャランから奪ったのは1527年でドゥマクのファタヒラー司令官が功があった訳であるがそれを契機としてバンテン王国がここに領主を派遣していたわけだ。
2代目は1570年から1600年までのパンゲラン トゥバガス アンケでウイジャヤカルタの父である。その頃のバンテン王国のスルタンはスルタン・ハサヌディンの皇子のラトゥ・パンバユン(Pambayun)でファタヒラの孫になる。
バンテンスルタンの下で未だ若いアブドゥル・カディル スルタンを支援しながらもバンテンの紛争の中で中立であったが1604年には1,500の兵を連れて王国にやって来て反抗軍を抑えた。
ジャヤカルタは既に多くのシナ人、インド人、オランダ人が入っておりオランダの勢力に対抗させるためにチリウン西側にイギリスに砦を認めた。これが蘭英大海戦の始まりであった。スンダクラパはクーンの支配下に入りウイジャヤカルタは引退し後に亡くなった。
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ジャヤウイカルタのお墓はプロガドゥング群のジャティネガラ・カウムにある。
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1956年に公開されたがお墓の横には大きな木がある。
1964年には当時のアリサディキン市長がTamanとして整備して、多くの信仰者が集まった。 このブログで3人のバンテンのパンゲランを出したが彼らはジャカルタに由来があってもバンテンの歴史書には出てこないし、バンテンの地名にもなってないのであろう。
更に地図を見ていると意外な事が解った。一つはWijayakusumaは200以上も地名があるのに全て小さな道ばかりであり、どれが代表かわからない上になんとPangerangが付いていないのである。又資料をよく読むとPangeran WijayakartaはPangerang Jayakartaと同じ名前であり、此方はジャカルタ コタ駅のうらポルトガル教会の所の道の名前であり、Pangerang Tubagus Angkeと共に小生の人物名道シリーズ論から漏れていたことになる。

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