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2014年4月の投稿

2014年4月30日 (水)

反逆児キアイ・タパ

Kyai Tapaと言う通りはZainal Arifin通りと繋がっていると思っていたが違っていた。
①Kyai Tapa通りはトリサクティ大学前の道で ②KH Hasyim Ashari通りから来る道で、その北は③KH Zainal Arifin通りである。③Zainal Arifin通りがGaja Mada通りの先はS.Wiryoprano通りで、②Hasyim Ashari通りがGaja Mada通りに繋がる所はCarrefourがありその南の道がS.Pranoto通りでありPranotoと関るのでこのコタで西に向かう三本の道は厄介である。 
その上歴史上Kyai Tapaと言う人は③Zainal Arifinというサルタンの血統を擁してオランダと戦った話があるので、③Zainal Arifin通りと①Kyai Tapa通りは繋がっていると思っていたが一筋ちがいである。 
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③Zainal Arifin通りはその先が細く無くなっているので我が運ちゃんは北の④KH Moch Mansuru通りが⑤KH Imam Mahbub通りとなる所で左折し②KH Hasyim Ashari通りに出てきて①Kyai Tapa通りに出るのでうっかりこの二人③Zainalと①Tapaの名前の道路は一本で繋がっているものと思った次第。S.Pranoto通りには ⑥Kyai Caringan通りがある。KyaiもKHもイスラムの指導者の敬称であるので、この辺りはイスラムだらけで数えると⑥つとなる。そのザイヌルアリフインとキアイタパの関係は以下の通りである。
オランダはマタラムで3代の後継者問題に介入し戦役となったが、バンテンでも同じで 時のイムホフ総督はスルタン・ザイヌル・アリフインを追放しアラブ系夫人ファティマの娘婿をスルタンとしたが、住民はこの血統を無視した措置に反対、イスラムの導師キアイ・タパ及びラツー・バグスの下、激戦が繰り広げられ、オランダを危機に陥れた。イムホフ総督の後任モッセルは外交政策に転じ、ファティマの娘婿を追放しパンゲラン・グースチを後継者と認めた。1753年グースチはオランダと条約を結び、ランポン地方をオランダに割譲した。
オランダに服する事に反発するラツー・バグス、キアイ・タパはバタビアにも進出、反逆行為を続けさらにマタランに渡り長く反抗は続いた。
Ki TapaはSultan Ageng Tirtayasaの孫とも言われている。

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2014年4月29日 (火)

今頃ホテル・ルワンダに虐殺を思う

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先日来から偶々所蔵していたインドネシア海賊DVDからHotel Ruandaと言う映画を寝入りに見ていた。此方は1994年頃のルワンダでの部族内乱中に名門ホテル
Hôtel des Mille Collinesの支配人が家族を虐殺の危険から救う話で最後は家族だけでなく敵味方とも1,200人を救出に成功した話である。頭の隅にこのツチ族とフツ族の内乱のニュースはあったが調べて見るとこの80日間の内乱で約50万人から100万人が犠牲となったようだ。100万と言えば国民の20%である。農耕フツ(色黒)と牧畜ツチの関係には長い歴史と植民地国の関与もあり複雑であるがジャノサイドはフツ政権側の組織的虐殺を言う。ルアンダ愛国戦線を中心とする反政権側の虐殺もあり、最終的にはルアンダ愛国戦線が勝利し虐殺は終了している。
虐殺と言えばカンボジア出のポルポト政権による虐殺は人口800万にすぎない中犠牲者150万人強と言われる。此方も人口比20%である。 アクト・オブ・キリングの解説では100万とか云われているが、小生は長く30万人レベルが頭にあった。
日本では先の第二次世界大戦での戦死者は300万人であるが、沖縄戦、広島原爆を含めても民間の死亡者は80万人である。100万以上にラウンドアップされるのは残った政権とかのプロパガンダの数字の様だ。

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2014年4月28日 (月)

アクト オブ キリングの後のドキュメンタリー

4月12日から渋谷のシアター・イメージフォーラムでアクト オブ キリングと言う映画をやっているそうだ。これはインドネシアの先輩が教えてくれた情報であるがこの映画は1965年9月30日事件を発端としたスハルト政権移行期の騒乱に伴う100万人規模の虐殺を扱ったドキュメンタリー映画である。本来この様な映画は被害者側に立った取り組みが共感を呼ぶのであるが、それは取りも直さず政権批判になりやすく許可が取れない事情もあるのかこの映画は加害者側を描いている。
虐殺に狂奔した当時の街のギャングに出演させ、虐殺のシーンを再演させている内に、この加害者が自ら善と思っていた信念が悪であった事に目覚めるのを描いているようだ。この映画は普通の映画館でなく限られた映画館で上映されているが関東では渋谷、新宿、千葉がある。
理詰めの先輩は何故今この映画が出来たのかと問われるが、小生にはあてずっぽうで選挙目当てではないのと言ったが見事に外れた。これはインドネシアの映画では無くテキサス出身のジョシュア・オッペンハイマー監督の作品だったのである。この映画は山形映画祭他世界の50以上の映画祭でも受賞しているが世界の10大映画祭のプーサン映画祭も入っている。
プーサン映画祭ではこの後インドネシアの“JALANAN”と言うのもインドネシアの作品とし初めて受賞したドキュメンタリーが続いている。この映画は街頭のミュージシャンと言う限界的生活の庶民を描いていて今PlazaやGrand インドネシアで上映中である。そして小生的にはそれに続いて‘Children of a Nation’.と言うドキュメンタリー映画があり、これは2009年の大統領選挙の中のインドネシア政治の特異性を描いたものだ。これで選挙と結びついた。

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2014年4月25日 (金)

記念旧跡を破壊は日本の所為

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JP誌の報道でコタの中央駅のオランダ時代の記念建築遺跡であるタワーを倒さないと行けなくなったらしい。理由は日本から譲ってもらって中古車両が大きすぎて停車できないので停車場を拡張建設するためらしい。
タワーと言うのはシグナル・ハウスで1929年に建てられたそうである。
駅全体は有名な建築家Frans Johan Louwrens Ghijelsが設計したもので何度もこのブログで紹介しているが古い写真は添付の通りである。
タワーは二つあるそうで問題なのは12番プラットホームで後3メートル欲しいらしいが、取り壊しの許可が出ない場合は1.5メートルでもなんとかすると言っているが安全上は問題があるとしている。写真で見るとこのタワーは見当たらないのであるが、駅の建築年は1926年と言うのもあるので、後で追加されたとしておこうか 

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2014年4月24日 (木)

設計家の為のオフイス

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時々見て見るのであるがSlippiのJakarta Design Centerは豪華な家具とか設備ばかりで、今や縁もなく又いつ行っても人影が少ない。紹介するのも元気が出ないが、一階に紹介スクリーンがあったので念の為写真を取っておいた。
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今日見るとこれはJDC全体の案内ではなくその一角にでも用意しているのであろうBusiness Centerの紹介でそれも日本語である。要は建築や建築設計家の為のレンタルオフイスで1-3人用、7-9m2程度のスペースで、月額260万と手頃である。これも中々需要は少ないと思うが、いずれ設計士の友人に紹介しよう。

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2014年4月23日 (水)

二人のザイヌルアリフイン

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紅渓酒楼 はザイヌル・アリフイン通りにあるがこの通りの名前は昔書いた人名道路シリーズから拾うと以下の様に紹介している。
KH.Zainul Arifin 1909年~1965年:北スマトラ、タパヌリ出身、小学校、プサントレンだけの学歴ながら日本占領時、マシュミの総務部長や日本軍が編成したイスラム青年をメンバーとした準軍事組織のヒズブラーの司令官になる。  独立宣言後ヒズブラーは国軍に編成され、ザエヌルアリフィンは国軍司令部の秘書官となる、その後DPRSの議員を経てアリ・サストロアミジョヨ内閣の首相第二代理となる。65年民族運動英雄に叙せられる。
となるが心中穏やかんではない。と言うのは同じ名前のザイヌル・アリフインがバンテンのラジャでは無かったからである。
此方のアリフインは正式にはSultan Abul Fathi Muhammad Syifa Zainul Arifin
で1733 - 1747にスルタンとし在位したが夫人の一人のアラブ系のファチマが自分の娘婿をスルタンの後継者にすることを画策し総督イムホフに取り入り実現させアリフインはアンボイナに追放、同地で死亡させ息子の正統後継者グスティもセイロンに送っられたが、反対する民衆を引き連れたキヤイ・タパの反乱軍と長い騒乱が続いた歴史である。 侮られたのは彼は頭がおかしくなったからのようでこれでは英雄になりえない。

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2014年4月22日 (火)

アンケ・レストラン

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Angkeで忘れられないのはAngke Restoranである。中国語で 紅渓酒楼 と書いてあるのでこちらの名前はKali Angkeからとったものである。KetapangとKelapa Gadingにある。Ketapangと言うのはオランダ時代最初のガス灯会社がある地区の名前であるが実際の住所はJl. Zainul Arifin Telp: (021) 634-3030である。昔から有名で小生は一人でAyam Garam(塩蒸し鶏?)を食べに行ったこともある。メニュを見るとSaklon(Kodok 石蛙?)とかLindungcahウナギ炒め等もあるが魚はNila か Malasである。Kelapa Gadingにも大型店があるようだ。
店の内部の写真はJakarta 100Barからの写真である。これはホールとなっているが、昔はもっとざっくばらんとした店であったが。

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2014年4月21日 (月)

Angkeの語源

トバガス・アンケ通りから左折するGangの入口には奥に有るモスクの名前が書かれている。00dsc02686


正式にはMesjid Al Anwarと言うがJami Angkeとも言う。このモスクに付いては“Mesjid Al Mansyur < = > Al Anwar”で紹介したがこの名前の由来はスンダクラパの領主トゥバガス・アンケから来たものの様で、近くを通るKali Angkeアンケ運河(河)から来ていると揶揄するものもある。
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アンケ河自体のアンケの語源は1740年の中国人虐殺事件で殺された中国人の死体が投げ込まれたので河が赤く染まったというもので中国語でAngが紅色、keは死体(或いは河)を意味する。 このモスクの村(Kel.)の名前はAngkeでTambora郡であるがアンケ河の河口である Muara Angkeはアンケ河河口の意味でKapuk Muara村の Penjaringan郡になる。 “アンケの見直し”で紹介したが、海洋資源保護区で20メートルも飛べないスンダ・カッコーが居る所である。此方のアンケはTubagas Angkeから来ているそうでこの領主は死体の赤い血の1740年より前の200年近く古いのでこれらのAngkeの語源はTubagasの方で赤い血は一説にすぎないと思われる。

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2014年4月18日 (金)

ジャカルタがトップの大都市

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目を引く記事があった。新華社が伝えるタイトルは「インドネシア首都ジャカルタ、国際的な地位を持つ新興都市になる」と言うものでその後ウオールストリートジャーナル が「 20年後に世界のリーダーとなる都市は?―ジャカルタとマニラが有力」と言うものである.
これは今の新興国等の中での話でアメリカのコンサルティング会社ATカーニーのリポートであった。
マニラに次いでアジスアベバ、サンパウロ、ニューデリー、リオデジャネイロと続いておりクアラルンプルは10位、北京は12位である。
日本の都市は新興国の枠を超えたもので当然ない中でのランキングだからジャカルタに居る者にとって当たり前かもしれない。
新華社は今後のアセアン共同体の発展とインドネシアの政治システムが安定性を増していることと、収入格差と環境問題への取り組みを挙げているとしているが、後者は特にこの総選挙後の政治の動きから次期政権が大所帯の連立になれば、必要な改革が遅れかねないと指摘するアナリストもいると評している。そう言えばイギリスのエコノミスト誌は「分権的で乱雑で好戦的な国を統治するということは難しい」と論じていたが、成程そう感じることは日々に増えている。
目に付くのは権利の主張であり、誇りをちらつかせることになったことである。インドネシアが外向きに、改革的で、友好的で有り続ける事を望むものである。ジャカルタの人口優位性も物を言ったが多くが勝手に動くマイナスも考えねばなるまい。

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2014年4月16日 (水)

バジャイの運命

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写真があるから取り上げるがバジャイという3輪タクシーである。ジャカルタポスト誌はジャカルタの年間交通違反チケッティングは700,000件であるが不思議な事にバジャイはゼロと言うのが報道のポイントであった。ちなみに内訳を書くと2輪が480,975 、次いでminivansと言うからミクロレットだろうか77,938 そしてminibuses メトロミニだろうか 50,266とある。自家用車は1万以下となる。年間70万は本来もっと多く現金処理が多いのであるるから意味は無い。00p2050137


バジャイは大通りから離れた都市部落の短距離移動にしか使えない。バジャイにはオレンジと最近青色の物がある。
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排気ガス規制からオレンジ色を廃車しCNG(圧縮天然ガス)使用の青色の物に入れ変えつつあるが一向に減ってはいないようだ。ライセンスに関する法令がないのも一因である。バジャイは元々インド製のもので大昔に輸入したものが何十年と走っていると思われる。頭の写真はベモと言われたタイプのようである。インドのバジャイと言う会社のサイトにはかっこ良い二輪車のみとなっていた。

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2014年4月15日 (火)

日イ企業ちょっと比較

何時だったかPGN社の決算報道があった時のメモが残っていた。いわく「国有ガス会社PGNが2013年度の収入を前年から16%アップの30億米ドル、純利益は8億6千1百万米ドルと公表」
億ドルなどと言うと相当な額の如く感じ日本企業と比較してみたらなんと日本の東京ガスと肩を並べる企業であった。中身は違うかもしれないが円ベースにすると
東京ガス 日本で39位 1,017億円
大阪ガス 日本で75位  525億円
インドネシア国営ガス   950億円

日本のトップ企業はトヨタで純利益規模は1兆円規模であるが、インドネシアでもトップ民間企業はインドネシアでトヨタ等を扱うアストラ インターであるがその利益は2,000億円程度である。これは日本で言えばキャノンクラス、20位程度となる。
実際は国営だからランキングからは はずしているプルタミナは30億ドル規模であるので3,500億円となる。

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2014年4月14日 (月)

トコ・メラーの歴史

トコメラーに付いては既にブログに書いた筈であるが昨日半日探して無いので、その歴史だけでも書いて見る。
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この建物はイムホフ総督(Gustaaf Willem baron van Imhoff 1743-1750)が総督になる前に自分の住宅として1730年に建設したものでロケーション、住宅規模などからその後多くの人が使いその一部始終も明らかなのは不思議な気がする。記憶でもその後の3人ほどの総督達の総督邸、海軍アカデミー、最初の博物館がある。しかし何時頃からか空屋になったのであろうか。いつ行ってもこの十数年いつも閉まっている。
所有者の経歴を調べたので何かの為に記録に取っておこう。
(別に記録  約20件)
そして現在にいたるが一度Gallery等へのRestorationの計画があったが未だである。RestorationをRestorantと誤読したがこのToko Merahの前は昔ホテルにしただけに駐車場的にはスペースはあるのでレストランもいい案であるが、運河との間の道は自動車がひっきりなしに来るので運河の方には渡れない。落ち着かない場所である。
(追)1851年   :カピタンOey Liauw Kongが購入、彼が赤でペイントした事から以来Toko Merah(赤い店)と呼ばれるようになった。

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2014年4月11日 (金)

2014年3月投資環境 飛行機は便利に

飛行機旅行は便利に:羽田ジャカルタ便、ガルーダに続きANAも(3/30)、イ国内均等な開発で年内14の新空港オープン計画(3/11)、スラバヤ空港第2ターミナル開業、メダン新空港クアラナムが正式開港式。ガルーダ航空、スカイチームに加盟は歓迎か、日本政府観光局がスミットマスビルに事務所開設でイ人観光客開拓
(追)4月ニュースではJALはNRT-JKT便を増便し週14便に(夕方成田出発)

ほかは芳しくないニュース多し

1. 企業・産業情報
3/3  鴻海精密工業、州知事の要請で研究開発センター開設へ、用地46ha、投資$10億
3/15 最低賃金高騰で履物メーカー11社がベトナムへ移転へ:イはアセアン内で3位
3/16 作物製品分野への外国投資30%に制限へ:作物法。
3/18 ソーダ飲料に物品税課税を検討:業界猛反対。
3/19 丸紅、イ火力発電所事業めぐり国会議員に贈賄、米司法省が罰金8,800万ドル命令。
3/21 3,000cc超車の奢侈品税4月に引き上げ75%→125%:SBYが発言。

2.一般経済・金融情報
3/1  未加工鉱物の輸出禁止措置、日本がWTO提訴検討。
3/14  BI、経済成長率予測を当初の5.8-6.2%か5.5-5.9%に引下
3/20 来年のアセアン共同体実現前にSNI強制適用対象94品目に
3/21 今年の輸出成長目標を下方修正5%→4.1%:国家輸出推進総局。
3/26 土地評価大幅引上げで土地建物税2倍程度のアップに、批判集中。徴税強化へ。

3.政治社会情勢
3/3  ポソ(中スラウェシ)で武装組織と警察の間で銃撃戦。
3/5  リアウの山火事、11,138ha焼失。3,200万人が呼吸器障害、軍人が森林放火を命令
3/14 華人の呼称Cinaから再びTionghoaに:大統領決定。
3/15 最高裁事務局長息子の結婚式で高価な引き出物配られ、不正な資金源疑惑

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2014年4月10日 (木)

フレーデブルフVredeburg 砦

空港でお土産に手ごろ(コンパクト)なチョコレートを見つけた。序でにバリの石鹸も買ったが、最近のインドネシアお土産物産は豊富で立派になってきた。特に包装が昔と隔世の感がある。
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買ったのはブランドがVREDEBURG と言うものでJogjaの産品である。この会社はブランドから包装までマタラム王朝とコロニアル風イメージを打ち出している。Vredeburgがその代表でこれはオランダ時代の砦の名前であるが、現在はMuseum Benteng Yogyakartaと言う博物館になっている。ハメンクブオノの宮殿の前にある。日本時代は日本軍の司令部本部として使われたそうだ。
インドネシア人は最近オランダを許しむしろ懐古趣味に陥っている風がある。オランダは有形無形のものを多く残して、余裕の出て来たインドネシアはこれを観光の売り物として価値観を見つけて来たが、小生のブログの批判の声から考えるとそんな昔のことが一般の観光客を呼び込む力になるのであろうかということである。 日本人にとっては旨いものがあることが第一だと思われるが、そうなるとイメージの回復から取りかからねばならないから長期を要することとなる。

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2014年4月 9日 (水)

パンゲラン達の歴史背景

スンダクラパを治めたバンタンからのパンゲラン3人の歴史背景をバンテン王国の歴史から見てみると;
バンテンは古くから東西貿易の拠点のひとつでパジャジャラン王国に属していた。地名の発音は欧州人がバンタムと発音した時代があり、バンタン位が良い。
1524年~1526年、ドゥマクのファタフィラー(グヌンジャティ)のイスラム布教でドゥマクの傘下になる。
1527年 バンタンとファタヒラー軍、スンダクラパを占領、ジャカトラ(勝利の街)としてバンテンの領土になる。
1556年(or68年):正式な建国(ファタヒラー又の名ファラテハンの息子ハッサン・ウディンがドマクから独立したサルタンの称号を発する。)
1579年ハッサン・ウディンの息子ユスフがパジャジャランのパクアンを占領、パジャジャラン滅亡
Maulana Yusufが亡くなったときYusufの子供Maulana Muhammadは幼児であったためジェパラの王はバンテンを支配せんとバンテンを攻撃して来た。 このときの戦争は多くのウラマの応援もありバンテンの勝利となった。
このあたりで彼らは活躍したのであろう。
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この後もバンタン王国は2回ほどの王位をめぐる内紛があり、それらに付け込まれオランダに侵略され最後はダーンデルスの時代に廃墟に化したのである。

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2014年4月 8日 (火)

3人のバンテンのパンゲラン

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パンゲラン ウイジャヤクスマ(皇子)はパンゲラン ウィジャヤカルタ(皇子)に仕えた軍司令官であったがそのウイジャヤカルタはウイジャヤクラマ皇子とかジャヤウイカルタとか色々な名前を持つスンダクラパ地方に派遣された3代目の領主(公爵Adipati)で1602年から1619年迄治めた。一説、Jakartaの語源でもあるが、1619年はオランダのクーン総督がバンテンと組むイギリス軍を追放しバタヴィアを建設した年であり、バンテンのスンダクラパ地方の放棄の年になる。最初にバンテンがこの地をパジャジャランから奪ったのは1527年でドゥマクのファタヒラー司令官が功があった訳であるがそれを契機としてバンテン王国がここに領主を派遣していたわけだ。
2代目は1570年から1600年までのパンゲラン トゥバガス アンケでウイジャヤカルタの父である。その頃のバンテン王国のスルタンはスルタン・ハサヌディンの皇子のラトゥ・パンバユン(Pambayun)でファタヒラの孫になる。
バンテンスルタンの下で未だ若いアブドゥル・カディル スルタンを支援しながらもバンテンの紛争の中で中立であったが1604年には1,500の兵を連れて王国にやって来て反抗軍を抑えた。
ジャヤカルタは既に多くのシナ人、インド人、オランダ人が入っておりオランダの勢力に対抗させるためにチリウン西側にイギリスに砦を認めた。これが蘭英大海戦の始まりであった。スンダクラパはクーンの支配下に入りウイジャヤカルタは引退し後に亡くなった。
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ジャヤウイカルタのお墓はプロガドゥング群のジャティネガラ・カウムにある。
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1956年に公開されたがお墓の横には大きな木がある。
1964年には当時のアリサディキン市長がTamanとして整備して、多くの信仰者が集まった。 このブログで3人のバンテンのパンゲランを出したが彼らはジャカルタに由来があってもバンテンの歴史書には出てこないし、バンテンの地名にもなってないのであろう。
更に地図を見ていると意外な事が解った。一つはWijayakusumaは200以上も地名があるのに全て小さな道ばかりであり、どれが代表かわからない上になんとPangerangが付いていないのである。又資料をよく読むとPangeran WijayakartaはPangerang Jayakartaと同じ名前であり、此方はジャカルタ コタ駅のうらポルトガル教会の所の道の名前であり、Pangerang Tubagus Angkeと共に小生の人物名道シリーズ論から漏れていたことになる。

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2014年4月 7日 (月)

ネオルネッサンス様式の建物

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カリブサール・バラットのトコ・メラーの手前に有る小さなオフイス・ビルはBanteng Buildingと表示されている。通りの番号では Kali Barat No.6である。この辺りは隣のビルと軒を連ねるRow Houseになっており入口前は雨除けの回廊になって両隣りと繋がってショッピングなどが出来る状態であるが。トコメラーなど」引っ込んだ建物は別でこれを遮断している。この建物には現在は弁護士事務所とかTIKI宅急便の事務所などが入居している。もう100年近くになろうか1920年以前に立てられたものである。
ネオルネッサンス様式である。何がネオなのか何がルネサンスなのかは解らないだろうがそうだと思うとそうなるもんだ。
ただこの程度の建物では設計者も元の使用者もインドネシアには資料はないようだ。

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2014年4月 4日 (金)

ウイジャヤクスマの墓

Taman Makam Pangeran Wijaya Kusamaに、ウイジャヤクスマ皇子のお墓があると言うので3月末探検に行って見た。00dsc_0252


住所はKel. Wijayakusuma のJl. P. Tb. Angked/h. Jl. Angke Kampung Goestiである。Tubagas Angkeと言う大きな通りに面している。
ここは空港に行く高速の左手のゴミゴミした一帯なので行くことが無く、また住所のKampung Goestを探したのでおお周りさせられたりして大変であったが結果は道沿いに写真の通りの門構えであるのでGoestiは無視すればよかったのである。彼はバンテン王国のスンダクラパ地方に派遣された領主Pangerang Wijayakartaの助言者或いは軍司令官でオランダVOCとの戦いで軍功を立てた。17世紀の話である。 00dsc_0257


この墓は沼地の中から出て来たそうで最初はアリサディキン ジャカルタ市長が整備し現在のこの廟は2003年の3代目のものである。公園と言っても別に大きな物ではなく腰かける所もない。
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お墓の廟に3人ほどの人が祈っていた。そう言えば彼はイスラムのウラマでもあった。更に云い募ると9人のイスラム聖人カリジャチの血をひくそうである。
Jabodetabekの地図帳を調べたらなんと210ものこの名前の道路名があって驚いたが、これは彼の名前の他に有名な花の名前でもあったからだろうと納得した。

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2014年4月 3日 (木)

Tragedi Cina Benteng

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タンゲランのCina Bentengと現地プリブミとの民族的関係は対立もあったであろうが400年の歴史から見るとマジョリティは融合の中で過ごして来、時に事件もあったと言うのが正しいのかもしれない。その一つがTragedi Cina Bentengである。
1946年6月 タンゲランのカンプン・ジュアリンガンで多くの男達がここで殺され、少なくない少女が、人間の顔をした狼にレイプされた。
これは6月23日の週刊新聞で中国人子孫(Keturunan)に降りかかった悲劇の騒乱の報道からの文章である。
放火された部落はRajeg , Gandu , Balaraja , Cikupa , Maukの5部落で、多くの人が殺され又多くが逃げた。
このきっかけは中国人を含むNICAの兵士が紅白旗を降ろしオランダ国旗を掲げたもので、更にその中国人がプリブミの家を焼いたというニュースはオランダ軍に立ち向かう独立戦の最中に火の様に広まった。更にここには社会的な環境として多くの中国人地主がおり緊張関係にあった事もある。
6月3日、怒りに狂った人民軍は中国系男たちを全て逮捕しMaukの刑務所に送った。この刑務所は15mx15mの小さなものでここに600人を詰め込んだ。夜はランプも無く便所の設備も飲む水の設備も無く劣悪な状況になった。
このニュースは直ぐジャカルタに飛び6月10日、Poh An Tuiを下に40人の中国人が武装しタンゲランに救出に向かった。最初にMauk刑務所の男たちを救出した。 一部は焼け出された住民の救出に向かい約2,000人をジャカルタに送った。その中に13歳の女の子のレイプ事件も起こっていることが解った。 政府が介入する前にPoh An Tui一身は人民に殺されていた。以上は余り要領を得ないがSuperkoranから要点を拾ったもので、この悲劇は52年後にも起こっていると結んでいた。Tragediの最大は1740年の中国人惨殺Angke事件であろう。いまはもうインドネシアには中国人Tragedyはなくなった。No More Tragedy CINA/INDO
写真はタンゲランの中心、チサダネ河畔中国人が密集していたKota Lamaである。

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2014年4月 2日 (水)

三菱 クラマ・ユダ

プロガドンの工業団地に入居している日系企業は多いが地図を見ているとプロガドンの北側、Bekasi Raya 通りの北側にある三菱自動車の工場はMitsubishi Krama Yudah Motor ManufacturingとKrama Yudah Tiga Berlian Motorと後一つの工場群が書かれていた。この三菱グループの会社群も頭に入りニクイ。名前が長いからであろうが、まず現地パートナーがKrama Yudahでこの名前が入るからである。また現地パートナーは販売を担当し日本側は製造を担当して来た歴史があり、共に資本を入れている。現在の状況で言えばKrama Yudah Tiga Berlian Motor(MTB)が販売を抑えた頂点に立ち、Mitsubishi Krama Yudah Motor(MKM)がエンジン・ボディなどの生産し、他にKram Yudah Ratu Motor(KRM)が商業車の生産を担当して三つ輪を形成している。詳しくは解らないが昔はギャランなど乗用車も生産していたが、現在は乗用車はタイからの輸入である。主力はパジェロやアウトランダーのSUVであるが昨年あたりからこの乗用車部門のインドネシア生産も始まった筈である。
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いつも行くゴルフ場の近くにKTBの本社がある。アパートのそばにデーラーの一つがあり、
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三菱のデーラーはどこも隆々とした三菱カラーを打ち出した立派なものだ。 昨日も街であちこちで三菱の1トントラックを見かけたが 黒色に白抜きで大きくMITSUBISHIと書かれたボディの為目に付いたのであろう。
昔、小生も独立した鼻は三菱商事のギャランのお古を安く譲ってもらい、乗りまわしいたものだ。

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2014年4月 1日 (火)

工業地帯第1号プロガドン

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この間Bekasiに行くのに国道で行ったと述べたが、それはBekasi Raya通りを使ったと言うものでプロガドンを越えていく。この道は中々自分の物に出来ないがそれには色々地図上の理由がある。一つは丁度良いサイズの地図が無いため、一望できずそれが又東西をめくればいいと言うのではなく南北と頁を繰らねばならないからである。
ジャカルタからの出発はどの道路がいいのか、結論は三つ以上もある。一つはJatinegaraからBekasi Raya Barat(Ngulah Ray)、二つ目はPemuda、三つ目はPrintis Kemurdekaanであるが Bekasi Raya BaratはBekasi Raya Timurとなり更にKlenderから上がって来たBekasi RayaとなりPemudaと合併しさらにPerintisも合併し Bekasi Raya一つでBekasiに向かうのである。この他 Kali Malangを通る単純な道や他にもあるが小さな道になったりで中々難しい。そしてこの三つ、北のPerintis MerdekaanもPemudaもNgulah Rayもプロガドン工業団地にぶつかる。00dsc_0088


小生は北側のBekasi Rayaを通ったが地図をなぞっていたらそこプロガドンの北側に三菱・ふそ自動車の工場を見つけた。道理で先の写真にある三菱のミニトラックを運搬する車に出会った理由がわかった。そしてそれよりずっとBekasiよりにGMの工場も見つけたのである。
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このプロガドンの工業団地やブカシラヤ通りにはびっしり工場があり、インドネシアの工業力の原点を見る思いがした。

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