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2014年4月30日 (水)

反逆児キアイ・タパ

Kyai Tapaと言う通りはZainal Arifin通りと繋がっていると思っていたが違っていた。
①Kyai Tapa通りはトリサクティ大学前の道で ②KH Hasyim Ashari通りから来る道で、その北は③KH Zainal Arifin通りである。③Zainal Arifin通りがGaja Mada通りの先はS.Wiryoprano通りで、②Hasyim Ashari通りがGaja Mada通りに繋がる所はCarrefourがありその南の道がS.Pranoto通りでありPranotoと関るのでこのコタで西に向かう三本の道は厄介である。 
その上歴史上Kyai Tapaと言う人は③Zainal Arifinというサルタンの血統を擁してオランダと戦った話があるので、③Zainal Arifin通りと①Kyai Tapa通りは繋がっていると思っていたが一筋ちがいである。 
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③Zainal Arifin通りはその先が細く無くなっているので我が運ちゃんは北の④KH Moch Mansuru通りが⑤KH Imam Mahbub通りとなる所で左折し②KH Hasyim Ashari通りに出てきて①Kyai Tapa通りに出るのでうっかりこの二人③Zainalと①Tapaの名前の道路は一本で繋がっているものと思った次第。S.Pranoto通りには ⑥Kyai Caringan通りがある。KyaiもKHもイスラムの指導者の敬称であるので、この辺りはイスラムだらけで数えると⑥つとなる。そのザイヌルアリフインとキアイタパの関係は以下の通りである。
オランダはマタラムで3代の後継者問題に介入し戦役となったが、バンテンでも同じで 時のイムホフ総督はスルタン・ザイヌル・アリフインを追放しアラブ系夫人ファティマの娘婿をスルタンとしたが、住民はこの血統を無視した措置に反対、イスラムの導師キアイ・タパ及びラツー・バグスの下、激戦が繰り広げられ、オランダを危機に陥れた。イムホフ総督の後任モッセルは外交政策に転じ、ファティマの娘婿を追放しパンゲラン・グースチを後継者と認めた。1753年グースチはオランダと条約を結び、ランポン地方をオランダに割譲した。
オランダに服する事に反発するラツー・バグス、キアイ・タパはバタビアにも進出、反逆行為を続けさらにマタランに渡り長く反抗は続いた。
Ki TapaはSultan Ageng Tirtayasaの孫とも言われている。

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