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2014年4月 3日 (木)

Tragedi Cina Benteng

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タンゲランのCina Bentengと現地プリブミとの民族的関係は対立もあったであろうが400年の歴史から見るとマジョリティは融合の中で過ごして来、時に事件もあったと言うのが正しいのかもしれない。その一つがTragedi Cina Bentengである。
1946年6月 タンゲランのカンプン・ジュアリンガンで多くの男達がここで殺され、少なくない少女が、人間の顔をした狼にレイプされた。
これは6月23日の週刊新聞で中国人子孫(Keturunan)に降りかかった悲劇の騒乱の報道からの文章である。
放火された部落はRajeg , Gandu , Balaraja , Cikupa , Maukの5部落で、多くの人が殺され又多くが逃げた。
このきっかけは中国人を含むNICAの兵士が紅白旗を降ろしオランダ国旗を掲げたもので、更にその中国人がプリブミの家を焼いたというニュースはオランダ軍に立ち向かう独立戦の最中に火の様に広まった。更にここには社会的な環境として多くの中国人地主がおり緊張関係にあった事もある。
6月3日、怒りに狂った人民軍は中国系男たちを全て逮捕しMaukの刑務所に送った。この刑務所は15mx15mの小さなものでここに600人を詰め込んだ。夜はランプも無く便所の設備も飲む水の設備も無く劣悪な状況になった。
このニュースは直ぐジャカルタに飛び6月10日、Poh An Tuiを下に40人の中国人が武装しタンゲランに救出に向かった。最初にMauk刑務所の男たちを救出した。 一部は焼け出された住民の救出に向かい約2,000人をジャカルタに送った。その中に13歳の女の子のレイプ事件も起こっていることが解った。 政府が介入する前にPoh An Tui一身は人民に殺されていた。以上は余り要領を得ないがSuperkoranから要点を拾ったもので、この悲劇は52年後にも起こっていると結んでいた。Tragediの最大は1740年の中国人惨殺Angke事件であろう。いまはもうインドネシアには中国人Tragedyはなくなった。No More Tragedy CINA/INDO
写真はタンゲランの中心、チサダネ河畔中国人が密集していたKota Lamaである。

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