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2014年6月25日 (水)

Groeneveldの別荘は何処

何度か行った所であるがアルバムにはこれといったものは残ってない。後ろから追われる1車線道路のため通り過ぎるためだけだからである。
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そこはチョンデット通りのどん詰まり、ボゴール街道がチブブール街道とT字で結ぶところであるがそこにオランダ時代のカントリーハウスがあった。その建物は1985年に火災になりずっとそのまま残されていた記憶がある。住所で言うとその地区はパサレボ郡のTanjung Gedongという所である。実際には、この建物の謂れからgedong村の名前も生まれている。 Gedong=Gedung建物かな。あまり意味はないが のMetro » Tjatatan djakartaから写真も借用し要点を書いてみよう。
84496_landhuis_goeneveld_di_tanjung


「最初この地区はオランダ人のPieter van de Veldeの私有地であった。彼はここに1750年にカントリーハウスとして別荘をつくったのである。
建物は2階建てであるが高地に位置しているため、遠くからでも高く壮大な建物のように見えたそうで、古典的なヨーロピアンスタイルの建物は両サイドを3階建てのタワーとなってそのタワーの1階は反逆者のための牢屋として使われた。本館は2階建てのフロアに4部屋があった。 1980年代まで、建物の周りの庭は、Gandariaや ASEMなどの大きな木に満ちていた。
建物の前の庭では、供物のためにバッファローのヘッドを置く場所として使用されている石のテーブルがある。確かに、そこはバタビアの市内からは遠かったが、その周辺には、カントリーハウスを建て管理農地をもつにはお気に入りの場所だったようだ。
この建物はその後、緑地という意味のGroeneveldという名前が与えられました。その当時まだプリブミの集落はなく、周囲の景観にマッチした名前です。
大きな様々な樹木が生えている広大なお荒れ地は年を降るに連れて所有者の名前が変わった。
しかし農業や畜産を推進することを目的でダニエル•コーネリアスエルベシウスの時代に非常に急速に開発され、その娘Daniel Cornelius, Dina Corneliaと結婚した Tjalling Amentが引き継ぎ19世紀の中頃ここには6,000匹の牛が飼われるようになった。
牛乳製品も有名であった。1942年まだGroeneveldはVan Riemsdjikの子孫が住んでおり徐々にプリブミも住み始めた。独立後はホテル従業員の寮とか1963年には警察の寮ともなった。 」
数ケ月前行った時はサッカー場や軍の施設などが多分当時の農業牧畜の跡地だろうと推察はできたが家はまだ見つけられない。00dsc_0334


写真はT字路の左から入ってきて右折のチョンデット・ラヤが突き刺さる点とその右折のサッカー場である。この背後は民家は少なく広々と昔の牧地や果樹園などが想像できるが。。

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