« 経済刺激対策に刺激されない一般企業 | トップページ | 投資環境トピックス 2015年10月 »

2015年11月 9日 (月)

アスラマ  プラパタン 10

00prapatan_10_aug_14_19


アスラマ プラパタン 10といっていいのか、何かで読んで名前を知っていただけであるが、それは独立前夜の日本軍が設置したMenten 31を土台に独立への情熱を高めて行った若人の寮の住所で、他にCikini 71やBunder 56があるがそれらは既にこのブログで取り上げている。
ここのPrapatan 10は1942年スラバヤから出てきたS.MartosewojoがジャカルタのSeoedewo達と日本軍に医科大学を設置(維持?)するよう働きかけた時からでそれに成功するやここは各地の医大生の寮として250人(累計?)が収容された。ここに居た学生で後に名を成した人がSoedjatmokoでありSoedarpoでありAbdulrachman Salehである。但し彼らは日本軍の強制する最敬礼などに不服従で対抗し、スカルノ・ハッタ達は何度もなだめた。
その後も学生の急進主義は、長い間、続き、ある時はBox-LAN(今のプランバナン、メンテン)、で軍事演習を開催した時はプラパタンの十数活動家は日本軍により逮捕された。そして半分の学生は放免後学業を続けることを認められたがSoedewoは1年の休学を命じられ又Soedjatmoko、Soedarpo、およびKoento達はキャンパスから追放された。 事件により大学は大きな打撃を受けたが学生たちの憲兵隊に対する憎悪は収まるどころかますます燃え広がるなかDr.Abdurachman Saleh(後にメグオで飛行機事故で亡くなる)は危険信号を感じ彼らの中の精神的支柱になり活動を続けた。ナショナリズムを指導しつつ生活の場に降り職業訓練教育や食品開発(かたつむりなど)も行ったようだ。
小磯声明の後、インドネシアの政体の議論が真実味を帯びてきた時スカルノハッタはムルデカバラットにあったDeutsche Hausをイメージしていたおり、参加したPrapatan 10の学生たちに学業に戻ることをなだめていたが学生たちの単一国家の主張に耳を傾けた。その主張はメンテン31のハイルルサレーに指名されたM. Kamalであった。
1945年6月7日、医科大学、薬学大学、建国学院などの学生達はインドネシアの独立のためのアピール為この医科大学の主導で会議を開催し、さらに大団長Kasman Singodimedjoのもと、Jagamonyetでライフルも使用する完全な軍事演習を開催した。日本の降伏後、彼らインドネシアの急進青年たちはスカルノ・ハッタをデンガスデンクロックに誘拐することとなる。
この住所を探してTugu TaniのPrapatan通りから行き着いたのはSenen寄りの大きな建物であった。今は看板には財務省 国家財産総局 ジャカルタ第VII地方事務所と書かれており、住所もJalan Prapatan No.10とあった。
STOVIAの民族覚醒記念館の辺りではないのかとちょっと自信が崩れるが住所自体は間違いない。しかし昔の建物が裏に隠れているのかもしれないのでいずれ再度見に行こう。

|

« 経済刺激対策に刺激されない一般企業 | トップページ | 投資環境トピックス 2015年10月 »

インドネシア・ジャカルタ歴史今昔」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 経済刺激対策に刺激されない一般企業 | トップページ | 投資環境トピックス 2015年10月 »