« 不可抗力のインドネシア語 | トップページ | ケタパン クンチャナ »

2015年11月 5日 (木)

スロソワン王宮

バンテン1の遺跡である。サイトを見ると多くの凱旋門や複雑な構築物の写真があるが、他の遺跡と混同しているようで、0020151004_banten_lama_717


現在は2メートル位高い壁を持つ広大な広べったい平城みたいなものである。それはさんご石を組み合わせた城壁で何か集会場や湯浴み場やプールめいた遺跡は残る駄々ぴろいものにしか過ぎないのではなかろうか。王宮であるとともに砦でもあり、重臣の住居兼ねる、縦、約250メートル 横約500メートルの長方形で、行った時はその城壁を登る場所は正門と一番奥の所にあるがどちらも鍵が掛かっている。


0020151004_banten_lama_720

正門は、まっすぐ行く左手にあり奥の広場に向かう方向に曲がる手前であったがSurosowanの看板があり、その先にゲートがあるが近づくことは出来ない。

0020151004_banten_lama_769


一番奥の広場から城壁に近づけるところがありここに城に入る入り口があるが、ここも鉄網の門塀がありその隙間からやっと撮ったのがこの写真なのだ。

0020151004_banten_lama_791
この広場は領民が集まりスルタンが挨拶する所で現在のバンテン博物館の前辺りとなる。


Keraton_surosowan_2


博物館の左手に広いスペースを控えてマスジッド・アグンとそのミナレット(塔)があるのでこの塔から見下ろせばスロソワンも一望できるというのにあった写真はこれ一枚である。
この王宮の建築はオランダ人 Rucasz Caldeel(カルデール)が設計したという1680年代のスルタン・ハジの時代である。彼の時代までの王国の王を記録しておくと
1526年;ファタヒラー(スナン・グヌン・ジャティ )
1552年:ハサヌディン・マウラナ Banten GirangからCibaten河の港口へ移転、ランプンを併合し胡椒で栄える。
1570年:マウラナ・ユスフ、父と共にパジャジャラン攻撃で1579年同ヒンドゥー王国は滅ぶ。このスンダ王国から王の聖石を奪いスルタンの王位碑とする。
1580年:Maulana Muhamad(カンジェン・ラトゥ・バンテン?)、1596年Abdul Kadirアブムファキルのあと、オランダの来航、1619年バタヴィア建設
1651年:Sultan Ageng Tirtayasaスルタン・アゲン・ティルタヤサ
1681年:スルタン・ハジである。
ティルタヤサは中興の王であるが、勢力伸長中のバタビアのオランダと幾度と無く攻撃した。1671年に治世をプルバヤに譲ったがアゲンは権威は維持していた。1676年にハジで帰ってきた息子のアブドゥル・カハル(後にスルタン・ハジ)は父にスルタン称号を迫った。オランダは継嗣の内紛の機を逃さずをスルタンハジを応援した。アゲンの軍ははハジをスロソワンに囲んだがオランダの応援軍に敗北、捉えられたアゲンはバタビアで幽閉の後1692年に死亡した。(彼は国家英雄に叙せられている)
これ以降バンタンのスルタン王国はオランダの勢力下におかれ1813年にラッフルズの年金化で滅んでゆくのである。スロソワンに関してはダーンデルス軍が非協力のバンテンを攻撃した時破壊されているはずである。

|

« 不可抗力のインドネシア語 | トップページ | ケタパン クンチャナ »

インドネシア・ジャカルタ歴史今昔」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 不可抗力のインドネシア語 | トップページ | ケタパン クンチャナ »