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2015年11月16日 (月)

バンテン国と遺跡の崩壊

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バンテンの見どころでスロソワンの次はなんといってもKeraton Kaibonであろう。Surosowanの南東、かれこれ1km程度の所、河が合流する地点にある。Keratonというからこれでも宮殿であり、水を取り入れた王の部屋もある。
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Surowowanは平坦になっているがこちらはまだアチコチ立った門塀などもある。
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大きな門はPaduraksaの門と言われブギス風である。入り口はヒンズーの門の様に2つの翼を持っている。
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最後のスルタン Shafuiddinの母Ratu Aisyahの宮殿である。宮殿であるとともにイスラムのモスクも兼ねている。Shafuidinは後を継いだ時はまだ5歳であり、母が摂政となり治めた。
1808年ダーンデルス総督が着任するや、ジャワ北縦貫道路(Postweg)の道路工事やメーウエン湾の築港工事の賦役を命じたが反抗するスルタンと衝突した。特に築港工事は難工事で差し出した人夫1,500人が死亡し、又オランダ側は指揮官のドゥ・ピューイも命を落とし、その差し出された首を見たダンデルスは激昂し軍を率いて攻撃、KaibonもSurowaowanも共に破壊された。
ラッフルズの時代はスルタンSyafiuddinを説いてその領地をイギリスに引き渡すことと引き換えに年金を受けさせることとした(1813年)が、この年がスルタン王国の最後であるが、その領主の後継者は、1832年オランダにより海賊行為を口実に追放されている。司令官Du Pyuiと似た名前があるが、こちらは総督のDu Busドゥ・ビュスである。

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