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2016年1月20日 (水)

本当のパジャジャランの誕生(1)

昔2007年に「スンダをめぐるジャワ王国盛衰記」なるものを書いたがその後この記述に引っかかるものがあり今日これを解明したいと思う。この論文タイトルもズレがあり、正しくは「スンダ・ジャワの王国盛衰記」が正しく、さらに付け加えるとスンダ地方の王国は火山噴火と言われる歴史の東遷でスンダの歴史が不明確であったと言うことがありこちらが焦点となる。
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問題の箇所は「パジャジャランはスンダ王国とも言い、首都はPakuan(現在のボゴール)におき、隆盛時にはバンテンもスンダクラパもその勢力下であった。それは7世紀頃タルマネガラのヒンドゥを引き継ぐ形で成立し14世紀までスリウィージャヤ・サイレンドラの影響下で存続し、その後1333年にラトゥ・デワタがボゴールを王都と定めたパジャジャランが成立したが、1357年ババットの戦いで隣国マジャパヒットの奸計で王子一人除き王族一族自害した歴史のあとひとり残った王子が国を存命させた」という辺りである。
これをバックアップする論拠は一つは西祥郎師の翻訳小説「クラカタウ」には
「ジャワ島西部地方はスンダと呼ばれ、その地域に住むひとびとはジャワの中部東部地方と文化や言語を異にしている。スンダ地方は8世紀はじめから16世紀終わりごろまでスンダ王国が支配したが、ボゴール周辺にあったパクアンパジャジャランが王都の時代にジャワ島最期のヒンドゥ王国として滅亡した。スマトラのスリウィジャヤ王国が南海の広範な地域で覇権を拡張すればスリウィジャヤに中部東部ジャワでシャイレンドラやシンガサリ、あるいはマジャパヒッ王国が威勢をスマトラからインドシナ半島にまで轟かせればジャワ王朝に服従してその宗主権を認めるという形で生き延びてきたスンダ王国は、中部ジャワ北岸部の商港がイスラム化してジャワ島最初のイスラム港湾都市国家となったドゥマッによってマジャパヒト王国が1487年に息の根を止められたとき、庇護者を失ってイスラム勢力の矢面に立たされることになった。」とあり、
大槻重之氏のインドネシア専科では次のような文章がある。

「碑文によればバラジャラン王国1333年にラトゥ・デワタによって始められ、ボゴール付近のパクアン(Pakuan)を本拠地としていた。折から東ジャワでマジャパヒト王国が繁栄していた。マジャパヒト王国は東南アジアに覇権を唱えた大帝国であるが、西部ジャワのパラジャラン王国はシリワンギ王の下に独立を保ち、その傘下に組み入れられなかったことがスンダ人の誇りである。。。。。
マジャパヒトのハヤム・ウルク王の王妃としてパジャジャラン王国の王女が迎えられることになり、シリワンギ王はこの上ない光栄として娘を連れてマジャパヒトの地へ乗り込んだ。」

又早坂隆志氏のインドネシア歴史探訪では次のように記述されている。
「パジャジャラン王国:ジャワ島西部のスンダ人の王国。
 ジャワ人のマジャパヒト王国に対抗し、「パジャジャラン」の名も「(マジャパヒトと)対等の地位」の意味だという。
1333  ラトゥ・デワタ が西ジャワのボゴールを王都に定める。(古代ジャワ文字によって スンダ語で書かれた「バトゥ・トゥリス碑文」による)
1357 パジャジャランの王女ディアピタロカがマジャパヒト王国の宰相ガジャ・マダの懇願で同国王ハヤム・ウルックに嫁入りすることになり、国王プルブ・マハラジャ (=シリワンギ) も宴席に招かれたが、そこでガジャ・マダの使者から、王女は実は王妃ではなく、妾になるのだと聞かされた。
 謀略に引っかかった国王は殺され、王女も自害して果てた(マジャパヒトの年代記『パララトン』による)。 しかし王国は独立を守り通した。」
問題の一つはパジャジャラン王国の正式な成立は1482年だとする文書もあるので、その辺りを次回に紹介する。

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