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2016年1月の投稿

2016年1月31日 (日)

日本の健康保険の海外適用

又ヘマをやって病気に罹ってしまった。料理を作り満腹のまま寝たら腹痛を起こしたとばかりおもっていたのであるが、そうではなくて食あたりだったようだ。タケノコクリニックのスディルマン店が官憲で閉鎖された為ポンドクインダ-店まで出向いたがほとんどシマトパン通りに近いメトロ ルコ2にたどり着くまで大変であった。今ジャカルタでは何か病気が流行っており、小生も前罹ったテング熱やZikaとかではないかとも心配したが、まずは例の点滴をうけて2時間、金額は2百60万であった。小生は一応海外旅行障害保険は長期に保有しているのであるが、日本の健康保険で求償できることとなった頃から病気を保険事由から外しているが、前回辺りから日本の保険求償が大変難しくしている現実にぶつかっている。前回数えてみたら必要とされる文書に宣誓書のたぐいも含めて8通くらいあり、諦めたことがあった。 よほどごまかす人が居るのだろうか。その疑い深さには驚く。今回は約2万円だからどうしても取らねばならない。これをつぶやきたくて急遽バックデートしてアップした。

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2016年1月27日 (水)

Yellowfinはgoogleで

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10月17日のブログでスノパティ通りの日系レストランを紹介したが、その時店の名前が分からずxxxWEINとしたが昨日行ってみて解った名前はYELL WFINであった。メニューにもそうなっているので間違いないが 小生は看板が壊れているとしか見なかった。つまり真ん中の空白のOがなくなっているのだ。Yellowfinとは岩波英和にない単語であった。経営グループはOBCOらしい。 住所を聞くとSoenopatiと言ったが車でそこのSoenopati薬局迄来てもここから一方通行が始まるしこの店は右側になり右側のGunawarman通りからドンドン車が流れているのでその店に入れない。ちょうど前に交通警官が見張ってもいるし、道にブロックが置かれていたので不可能だ。ここはむしろGunawarman通りのPojokという方が良いだろう。その上注意すべきはGunawarman通りも一方通行で薬局に出てくるT字路で将にT字型の大きなブロッグがあるのでGunawarmanの左側を通って出てくるとSisingamangarajaの方向に誘導されて又店に入れない。GunawarmanからSuryo方面に曲がる右側のPojokなのだ。
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店内は広く外側のテラス風やVIP用個室などもある。メニュウは可成り高い値段が着いており和牛が348,000ルピアである。メニュウもいろいろ工夫を凝らして創作メニューのつもりだが単なる組み合わせで気を衒うものが多い。例えばとんかつラーメンとかビールと酒のカクテルSake Bombとかである。Kawaianという可愛いダジャレもある。Yaki TacoというのはTakoyakiかと思ったがイイダコの串焼きであった。日本語も時々書いているがFryは揚げでOKだが Bakarだったか焼き料理の部は 戦いと書かれていた。友人がこれは 暖かい から来ているのだと分析してみせた。この大きな高級レストランは日本人相手にせず現地客100%でやっている点感心するが 日本人を拒絶するものではないのでゆっくりと利用するのもいい。午後からずっと開いている。小生にとっては鳥元に代わる店の一つになる。が後で聞いた話ではリノベや移転の話などもある。

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2016年1月26日 (火)

出るわ出るわSNI義務法令

SNIとはインドネシア工業規格とでも言うもので各メーカーは製品に工業規格合格のシールを貼付する義務があるが、そのためにはラボラトリーでの検査もある。
消費者側としては当然メーカーにやってほしい物ではあるが、日本のメーカーにとっては全て高度な品質検査をしているので無駄の飾りになろうか。
12月にキャッチした義務法令はあり、11月も6件もあるので、まあここに至っては全部あるものだとの認識で遵守が必要だろう。12月11月の義務法令を列挙してみよう。
(1) 法令:工業大臣規則No.94/M-IND/PER/11/2015 :乳児衣料
(2) 法令:工業大臣規則No.95/M-IND/PER/11/2015 :玩具16品目
(3) 法令:工業大臣規則No.96/M-IND/PER/11/2015 :ビスケット5種
(4) 法令:工業大臣規則No.97/M-IND/PER/11/2015 :アゾ色素
(5) 法令:工業大臣規則No.100/M-IND/11/2015 :パーム食用油
(6) 法令:工業大臣規則No.101/M-IND/11/2015 :酸化アルミニウム
(7) 法令:工業大臣規則No.102/M-IND/11/2015 :酸化亜鉛
(8) 法令:工業大臣規則No.103/M-IND/11/2015 :炭化カルシウム
(9) 法令:工業大臣規則No.104/M-IND/11/2015 :Sodium Tripolifosfat
(10) 法令:工業大臣規則No.105/M-IND/11/2015 :酢酸
(11) 法令:工業大臣規則No.106/M-IND/11/2015 :一次無機肥料
(12) 法令:工業大臣規則No.87/M-IND/PER/10/2015 :キャストアイアン・ハブ・パイプ
(13)  法令:工業大臣規則No.88/M-IND/PER/10/2015: 鋼材
(14)  法令:工業大臣規則No.89/M-IND/PER/10/2015 :ワイヤーロープ
(15)  法令:工業大臣規則No.90/M-IND/PER/10/2015 :圧力前コンクリート鋼ワイヤー3種
(16)  法令:工業大臣規則No.91/M-IND/PER/10/2015 :食材用小麦粉
(17)  法令:工業大臣規則No.92/M-IND/PER/10/2015 :梱包ウオーター
尚上記は創設法令ではなく既法令に対する手続きの追加、ラボラトリーの拡大などの変更法令である。

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2016年1月25日 (月)

本当のパジャジャラン国の誕生(2)

パジャジャラン王国の始まりに間違いがあったのではと気付かした論文はボゴール市のサイトにあるシリワンギ物語であり井口正俊氏の著作「ジャワ探求」の中の列島列王史を題材にしたパジャジャラン国である。両者より歴史年表風にまとめると以下の様になる。
395年 タルマネガラ国 第3代プルナワルマン王(~434)の治世
526年 タルマネガラ第7代スルヤワルマン王がバンドンにケンダン国を建設、ジャワに移ってサンジャヤに繋がる。
669年:タルマネガラ第12代王リンガワルマンの娘婿タルスファが弱体化したタルマネガラを引き継ぎスンダ王国とした。同時にその東にガル-王国も並立し、両国は領土を数度に渉り変更し収める。
1333年:スンダ王国第28代リンガデワタの女婿リンガウィセサがガルー近くに移ってカワリ王国を建て同時に旧スンダ王国の王も兼ね治世した。
1357年: ブバットの戦い:スンダ王はマハラジャ リンガブアナ(カワリ王国第3代王)、皇女はディア ピタロカ
     この後も住民はこのスンダ王をPrabu Wangi芳しき王として慕った。
     留守を守っていた弟王子ワストゥ クンチャナまだ小さいので伯父が通称ブニソーラの名前で王となる。
1370?年:成人したワストクンチャナがマハプラブ ニスカラ ワストゥ クンチャナ プラブレシ ブアナ
トゥンガルデワタの呼称で王位に付く。通称はWangi Star
14xx年:ワストクンチャナが死亡しその二人の王子で国が分かれ、一つはガルー王国で王はデワ ニスカラ王、
あと一つはパクワン王国でススク トゥンガル王である。
1482年:カワリのラトゥ・ジャヤ・デワタ(スリ・バドゥガ)が両国を統一してパジャジャラン王国を建国し都をパクアンとした。
1498年:マジャパヒット王国滅びる。ドマクの侵食で。
1521年:スリバドゥガ治世終わる。息子のスラウィセサが継ぐ。
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1533年:バトゥトゥリスの碑文が建立された。(2代目の王スラウィセサが父王スリ・バドゥガを顕彰して建立。
スリ・バドゥガ・マハラジャ王はプラブ・シリワンギ(シリワンギ王)として親しまれた。

間違いの原因は碑文に書かれた1333年であるが、これがパジャジャラン国の創設の年と誤解されたがそうではなくこの年は代わりにカワリ国が成立している。1333は碑文建立年であるがそれは1533年の間違いであった。
そしてガルー国が7世紀と15世紀に2度出てきて、パクワンの国とカワリの国がスンダ王国或いはパジャジャラン国として統一或いは凌駕した、繰り返しの歴史があることである。また1357年の王と1482年の王がどちらも芳しいニックネームを持っていた事で混乱の元があった。
しかし1535年にパジャジャラン第3代王スリ・バドゥガ・マハラジャ王(別名ラトゥ・デワタ王)が即位したという論文も発見したのでまだ混乱があるようだ。

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2016年1月22日 (金)

雪からテロへ

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多分、冬の寒期の隙を付いたのであろうが昨日ジャカルタにやってきた。なんでこんなテロー騒ぎの時にとは思うものの購入済のチケットはどうしようもない。念の為延期出来るかANAに問い合わせるも、そのような対応は致しておりませんとのことである。
冬の早朝の空気は澄みわたりくっきりと雪化粧の富士も見え、その向こうのアルプスまでも見えるのではないだ00dsc_00000126


ろうかと思うほどである。
羽田は早くチェックインしてもすることがない。値段もお高く、気取った西欧の店ばかりで、その点成田はいい。h羽田にはない小物土産、缶ビール、明太子などもあり、軒を連ねている。こちらは店そのものが所々僅かにであり従い、どこも支払いで並んでいる。そこまでいくには遠すぎて動く歩道もないので、いつもこの電動カートにお世話になっている。話しかけて少し顔をこちらに向けるシャッターチャンスを狙っていたが、何のことはない、サイドミラーに写っていた。観光のアンケートのおじさんが居たのでこの動く歩道は要望しておいた。ジャカルタの着いても誰もテロの話をする人もなくいつもの通りの平常が戻っていた

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2016年1月20日 (水)

本当のパジャジャランの誕生(1)

昔2007年に「スンダをめぐるジャワ王国盛衰記」なるものを書いたがその後この記述に引っかかるものがあり今日これを解明したいと思う。この論文タイトルもズレがあり、正しくは「スンダ・ジャワの王国盛衰記」が正しく、さらに付け加えるとスンダ地方の王国は火山噴火と言われる歴史の東遷でスンダの歴史が不明確であったと言うことがありこちらが焦点となる。
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問題の箇所は「パジャジャランはスンダ王国とも言い、首都はPakuan(現在のボゴール)におき、隆盛時にはバンテンもスンダクラパもその勢力下であった。それは7世紀頃タルマネガラのヒンドゥを引き継ぐ形で成立し14世紀までスリウィージャヤ・サイレンドラの影響下で存続し、その後1333年にラトゥ・デワタがボゴールを王都と定めたパジャジャランが成立したが、1357年ババットの戦いで隣国マジャパヒットの奸計で王子一人除き王族一族自害した歴史のあとひとり残った王子が国を存命させた」という辺りである。
これをバックアップする論拠は一つは西祥郎師の翻訳小説「クラカタウ」には
「ジャワ島西部地方はスンダと呼ばれ、その地域に住むひとびとはジャワの中部東部地方と文化や言語を異にしている。スンダ地方は8世紀はじめから16世紀終わりごろまでスンダ王国が支配したが、ボゴール周辺にあったパクアンパジャジャランが王都の時代にジャワ島最期のヒンドゥ王国として滅亡した。スマトラのスリウィジャヤ王国が南海の広範な地域で覇権を拡張すればスリウィジャヤに中部東部ジャワでシャイレンドラやシンガサリ、あるいはマジャパヒッ王国が威勢をスマトラからインドシナ半島にまで轟かせればジャワ王朝に服従してその宗主権を認めるという形で生き延びてきたスンダ王国は、中部ジャワ北岸部の商港がイスラム化してジャワ島最初のイスラム港湾都市国家となったドゥマッによってマジャパヒト王国が1487年に息の根を止められたとき、庇護者を失ってイスラム勢力の矢面に立たされることになった。」とあり、
大槻重之氏のインドネシア専科では次のような文章がある。

「碑文によればバラジャラン王国1333年にラトゥ・デワタによって始められ、ボゴール付近のパクアン(Pakuan)を本拠地としていた。折から東ジャワでマジャパヒト王国が繁栄していた。マジャパヒト王国は東南アジアに覇権を唱えた大帝国であるが、西部ジャワのパラジャラン王国はシリワンギ王の下に独立を保ち、その傘下に組み入れられなかったことがスンダ人の誇りである。。。。。
マジャパヒトのハヤム・ウルク王の王妃としてパジャジャラン王国の王女が迎えられることになり、シリワンギ王はこの上ない光栄として娘を連れてマジャパヒトの地へ乗り込んだ。」

又早坂隆志氏のインドネシア歴史探訪では次のように記述されている。
「パジャジャラン王国:ジャワ島西部のスンダ人の王国。
 ジャワ人のマジャパヒト王国に対抗し、「パジャジャラン」の名も「(マジャパヒトと)対等の地位」の意味だという。
1333  ラトゥ・デワタ が西ジャワのボゴールを王都に定める。(古代ジャワ文字によって スンダ語で書かれた「バトゥ・トゥリス碑文」による)
1357 パジャジャランの王女ディアピタロカがマジャパヒト王国の宰相ガジャ・マダの懇願で同国王ハヤム・ウルックに嫁入りすることになり、国王プルブ・マハラジャ (=シリワンギ) も宴席に招かれたが、そこでガジャ・マダの使者から、王女は実は王妃ではなく、妾になるのだと聞かされた。
 謀略に引っかかった国王は殺され、王女も自害して果てた(マジャパヒトの年代記『パララトン』による)。 しかし王国は独立を守り通した。」
問題の一つはパジャジャラン王国の正式な成立は1482年だとする文書もあるので、その辺りを次回に紹介する。

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2016年1月19日 (火)

建機分野にも億万長者Hamani氏

インドネシアにはまだまだ知らないビリオネアが居るもんだ。それも建設機械分野一本なので意外な気もしたそれがPT.Trakindoグループの Achmad Hamami氏である。
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Trakindoは重機Caterpillarの総代理店で氏はその創始者である。フォーブスによると彼は世界のビリオネアでインドネシアで16位、世界1415位で資産 13億ドルである。2014年は931位の16億ドルであったのでここでも建機不振のインドネシア経済がでている。彼はもともとインドネシア海軍のジェットパイロットで一番若い大佐であったが、その後政府の投資基金に移ったあと、この会社を作る機会を得たようだ。それが1971年で40歳のときであった。1999年に緑内障の為経営を3男のBari Hamami氏に任している。Bari氏は米国留学、コロンビア大学を卒業後キャタピラー本社で3年の研修を積み1998年にTrakindoに参加している。ビリオネアランキングもFamilyとしてである。
キャタピラーはkomatsuに次ぐ2位グループだったとおもう。この分野は意外なことが多いので次の機会とするが意外とは知らなかったことでUTやUDのことを言ってます。

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2016年1月18日 (月)

新宿と世界の巨大駅

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先日の新宴会は新宿界隈だったが、ちょっと新宿駅の写真は上手いのがなく間に合わせた写真である。偶々インドネシアのニュースサイトKONTANで世界の5大鉄道駅をあげていたので紹介するのであるがどうもこの記事はプラットフォーム数で選んだようである。
それで行くと世界最大はニューヨーク以下ランクをつけると
1. Newyork :44 plahome、Opened 1913
2. Paris:44ホーム 1844年オープン
3. Shinjuku:36 ホーム、1885年オープン
4. Munich:32ホーム、1864年 オープン
5. ミラノ:29 ホーム、1863年オープン
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となるが、1日あたりの乗降客数は新宿駅が3.6百万で世界一とギネスに記録されている。このホームの数え方であるが、この数字は多分日本で言えばxx番線と言うものでTruckであろう。ホームは日本語では通常単独駅では屋根がある上下線をカバーするものを言うようで、36 Plathomeはいろいろ数えて以下の通りと断じた。
JR(山手、中央、総武、埼京等) 7番ホーム+仮設で8番ホーム、16番線
小田急:10番線
京王:4
メトロ:2
都営:4(大江戸、新宿)
最寄りの接続駅 西武(東部、副都心線)等も入れると51ホームになると言うがその辺りは次の機会にでもしよう。

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2016年1月15日 (金)

PengaHati2-Hi 特別裁判所

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先日のラスナサイドのTIPIKORの特別裁判所は、その後Gajah Mada No.17に移転したことをキャッチ、そこまで追いかけで記事にしたが、実際はその先があり、又移転していた。更に追いかけ移転先のJl. Bungur Besar Raya No.24,26,28に出掛けた。
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Gunung Sahari通りの昔Golden Trulyの裏で、昔Hotel Goldenに向かう通りである。
最初はこのGajah Madahの裁判所はジャカルタ中央区のものであり、Bungur Besaの方はジャカルタ東区だと思ったが看板は間違いなく同一でジャカルタ中央区と書かれている。
しかしGajah Madaの方も閉鎖されておらず、今はどちらも生きて居るように見えた。
或いは移転直後なのかもしれない。
いずれにしてもこのような裁判所は第一審として地方裁判所に属し、従いジャカルタは各区にあり更に各地方地方でもこれら特別裁判所或いは特別法廷を設置されているのである。
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建物にはPengadilan Negara/Niaga/HAM/TIPIKOR Dan Hubungan Industrial、Jakarta Pusatとある。HAMとかTIPIKORは略字(SingkatanとAkronim)であるが全体を略して欲しいものだ。PengaHati2-Hiとでもしておこう。

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2016年1月14日 (木)

メデューズ号はバタヴィア号の200年後

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フランス絵画の本で過去も見たことのある『メデューズ号の筏』に又出会い、バタビア号の惨劇を思い出した。
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これに付いてはこのブログで「バタビア号の惨劇と救出劇」と「オランダ来航時代の帆船」で2回も書いているので再出はやめるが、バタヴィア号の2世紀後の、同じ海難事故での人間の断末魔の姿を描いている。メデュース号はフランスのフリゲート帆船でアフリカの植民地に向かう途上、無能な船長により岩礁で有名な海域に入り込み座礁し、離礁にも失敗し、自分や赴任中の知事を優先脱出、いかだに取り残された150人はほんの13日の漂流の間に、将校への反発から殺害、海中放り込みの反乱や、又その後の飢餓によるカニバリズムなどで、偶然の出会った僚船に救助された時は15名のみであったと言う話である。この事故は1816年、これを題材に絵にしたのがジェリコーで2年の狂ったような没頭で1819年に発表された。ボートは2艘しかないが全乗組員400人、座礁地点は陸から50Km ~100Km 、船長は最初曳航していた筏のロープを恐怖から切断、死に至らしめたが、処罰を免れている。メデューズはこの事故の前はフランス政府によりジャワにも派遣されており、英国との艦船との戦闘にも参加している。 この当時はオランダはフランスに占領されたナポレオン時代であった。

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2016年1月13日 (水)

Rawa と Pulo

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先日、Rawa Bungaの地名が出たので纏わる話をしよう。Rawa Bungaはジャティネガラ駅の通り Bekasi Baratの南一帯のDesaであるが、序に書いたRawa BelongはここではなくKebon Jurukらしい。
Rawaという名前が付く地名はこの一帯にあるような気がして思い出したのが大物Rawamangunである。Rawaという単語の意味は湿地帯の森のイメージがある。大昔はそうだったのだろうか。そういえばこの一帯にあるPuloの意味はPulauである。
陸上の島とは、すなわち大昔の土地の成り立ちに違いない。 競馬場のあるPulo Masは金の島になるがそれより大物はPulogadungとPulogebangである。
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写真はRawamangun Golf (JGC)だが、伊藤さんも楠さんもジャカルタに居た頃だ。Rawamangunの後ろのmangunは意味不明ながら、昔からRawの発音に自信がなかったが今やっとわかった。

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2016年1月12日 (火)

投資環境トピックス 2015年12月

A. アセアン共同体発足。政治・経済・文化の統合 6億人、3兆ドル市場
B. 経済政策第7弾発表:
従業員5千人以上、過半の製品輸出の労働集約型企業のPPh21を減税、対象は手取りが年5千万ルピア
以下の従業員で、来年から2年間で延長も検討。 投資許可3時間発行サービス
C. Welcome政策は来年ずれ込む:法人税率、現25%を20%程度にカット。製造業者のテスト・アフターセール
ス用完成品輸入制限付きながら再び認められる見通し。
D その他
12/14 国会議長のフリーポート株の裏取引疑惑:政治調整相も国会査問
12/3 ジャカルタ~バンドン高速鉄道はバンドンのLRTと連結:西ジャワ州知事。
12/6 ボゴール市内はモノレール建設へ、首都圏結ぶ構想のLRTに連結へ。
12/7 ごみ焼却発電事業の許認可緩和へ:投資誘致でジョコウィが方針。
12/1 インフラ開発や貧困率引き下げに向こう5年間に計100億ドル支援:世銀。
12/23住商と関電、中ジャワ州に超々臨界圧発電所 264万キロワット、25年売電事業

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2016年1月11日 (月)

元日系のHolcim Indonesiaの限界

読み方もホルシムとは知らなかったこの企業はセメント企業で世界のトップ或いはフランスのラファージュ、メキシコのセメックスなどと並ぶセメントのメージャーで、スイスの大企業である。
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スイスにセメントが取れる話は聞いたことがないのでこれら世界企業は買収に次ぐ買収のセメント投資会社なのだろう。そうしてこのホルシムのインドネシアの歴史をたどると元は日系かと、たどり着く。
ただこの辺りは関係者が何故か隠す所で明確な記録がない。小生の記憶する所は、海外投資でJ/Vを組む場合、相手企業の株式がいつの間にか思わぬ人の手に渡るので気をつけようと言うものだったと思う。その場合J/V契約で相手の重大な事業内容の変更ではJ/V契約でパートナーを解消する権利を取り決める必要があるはずである。今調べると当時のこの日系を担当した公証人はブログに既報のカルティニ・ムルヤディ女史であったようだ。 2003年頃のHoltimのあとには、こちらもブログに出した公証人Pohan氏も登場する。
関連しそうな事件を拾うと以下のようである。
1971年 ローカルのセメント会社PT.GNDが設立さる。
1974 PMA PT Semen Nusantara設立 
株主は上記GND40%、 小野田セメント  30%及び三井物産30%
   場所はチラチャップの工業団地内である。石灰は囚人の島ヌサカンバン
   ローカルマジョリティ義務が規定されていた。
1975年 Nusantara社の法務省認可
1981年 GNDの株主が株をW氏に売却 証書は1985年
    W氏の名前がない証書もある。  以降株主のローカル化が進むか?.
1993年 Nusantara社、PT Semen Cibinong社と改称(買収?)される
Prabowo Subiantoの弟 Hashim Djojohadikusumoが大株主と判明
1995年 Cibinong社 拡張等で1.75億ドル借り入れ、以降はアジア金融危機による
    リストラなどが進む。
2001年 Cibinong社 PT Holtim Indonesiaに買収される。
2005年 PT Semen Cibinong Tbk はPT Holcim Indonesia Tbkに改称
2008年 PT Holcimの役員の配当税着服(?)汚職で検挙される
2009年 PT Holcimの社長がWS氏に500億で乙波するもマリオットテロで斃れる。
後半は乗っ取られ劇とは関係ないが、国会や検察や裁判が入り乱れた事件?に、ついメモした。まだ後半がClean & Clearとはなってない様で、小生の記録探しも諦めざるを得ない。ジャカルタの街を半日、通りがかりにHolcimやそのブランドの看板の写真を取ろうと思ったがそれも出来なかった。サイトからHolcimの世界制覇地図があったが日本は流石に侵略されていないようだ。

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2016年1月10日 (日)

1月11日タムリンの日

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明日1月11日をタムリンの記念日とした報道を目にした記憶があったがこの日は国家英雄M.H Thamrinの亡くなった日である。時に1941年故75年前である。生まれた年は1894年であるので46歳であった。1894年と言えばこの間ブログで書いた通り、オランダがバリ侵攻のあとロンボクを攻撃した年、で日本は日清戦争の時代である。
父は文献ではAyahnya, Thabri Thamrin pada masanya tergolong orang berada. Thabri adalah seorang wedana とある。このberadaと言うのはBelandaではなく、存在すると言う意味の自動詞形であるが富裕の意味もある。Wedanaも不明だがオランダ植民政府の行政執行者例えば知事とかに当たるのであろう。伝記はこのブログで何度も登場しているが死亡に付いては日本に傾斜しているとして逮捕され投獄5日目の午後4時に死亡しているので虐殺説もある。投獄前はオランダの警察により家族共自宅に監禁状態であり、すでに病気状態であったようで心不全であったとするものもあるがオランダ側は自殺としている。タムリンの3番めの銅像が2012年に建ったが
タムリン通りと交差するMerdeka Selatan側であった。

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2016年1月 8日 (金)

ラワン・セウの歴史


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スマランの観光地はトップ3は青年の塔、ラワンセウLawang Sewu、サムポーコンとしたが昔2008年5月に書いたブログでLawang Sewuを間違ってRawang Sewuとしていたこともあり、再登場させる。
その後写真もインドマルコ月刊誌の2013年8月号に掲げたものがベストなのでこれも今回アップしよう。

00dsc_0419Lawang Sewuとはジャワ語で「千の扉と言う意味で、この正面の両サイドはオープンギャラリーとなっており40弱のアーク状の門扉で飾られている。つまりラワンセウという名前はこのデザインに由来する。
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1908年(建築1904-07年)オープンでオランダのJF Klinkhamer と BJ Quendagの作品である。最初は1864年設立のNederlandsch Indische Spoorweg Maatschappij (NIS 蘭印鉄道会社)の事務所であったが 独立後は現在のKAI(国鉄)の事務所として使われた。心霊スポットとしても有名で同じ名前のホラー映画に使われたが、多く手が入り良かったのか悪かったのか、いずれにせよ多くの人が訪れている。
00dsc_0031_2小生もここの青年の塔の周りは何度も来て数回回りながら良い角度の写真を試みたが結構難しい。ここに熱中するばかりにこの周りにあるマンダラ・バクティや教会なども撮りそこねた。

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2016年1月 7日 (木)

アクロニム Kamseltibcar Lantas

妙なインドネシア語に出会った。
Kuningan 通りとなっているがGatot Subroto通りにあるFlyoverがこの1月1日からオープンになった記事に出てくるものでKamseltibcar はKeamanan安全, Keselamatan安寧, Ketertiban規律, dan Kelancaranスムーズ順調、 Lalu Lintas交通の省略形である。略語には頭文字だけの組み合わせ(一語づつ読むSingkatan)と 頭部分も取り込んで一つ綴りの造語にするもの(Akronim)があるがこれらは新語みたいになって辞書を引いても出ないので厄介だ。先般のPILKADAやTiPIKORもそうであった。Lalu Lintas自体もどちらも動詞には遠い“通る”であるので“交通”とするのは特別だ。そういえばLaluはこちらより、以下の方でより使われる。
Lalu?=話の続きを促す。
Tahun (yg) lalu=昨年
Selalu=いつも、
Terlalu=大変~過ぎる
動詞はmelalui(通過する、経由する)やmelintasi(横断する)となる。
序に交通巡査はPolantasである。

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2016年1月 6日 (水)

BPJSの会計と税務  実施手順等

インドマルコ社 「インドネシア企業経営」 12月号の目次は下のようである。
この月刊誌は会計、税務,、貿易、金融、産業、経済、企業 政治等のインドネシアで経営する企業が関わる全ての分野の重要法令など満載している。
月刊誌の購読の他、毎週法令ニュースをE-mailでお届けしているので、是非ご連絡ください。
詳しくはウエブサイトwww.indonesialink.net/indomalco/或いはメールアドレスrisa@indomalco.com
又は 'kitamura@indomalco.com、 nishimi@indomalco.comに照会下さい。 

1. 今月の経営情報・事例研究 枚 頁
  1 ) インドネシアの 今月の税務法令アップデート 4 2
  2 ) インドネシアの 今月の経済法令アップデート   4 6
  3 ) インドネシアの 「会計原則 198~収益 1」 5 10
  4 ) インドネシアの タックスホリデー 所得税免除・軽減便宜 7 15
  5 ) インドネシアの 新投資手続き規定~事業許可 6 22
  6 ) インドネシアの 輸入品搬出時の納税猶予手続き 2 28
  7 ) インドネシアの 会計・税務のためのBPJS 2 30
  8 ) インドネシアの 賃金についての改定政令 4 32
  9 ) インドネシアの 林業製品の輸出規制の改定 3 36
  10 ) インドネシアの 一株当たりの株価評価とのれんについて 2 39
  11 ) インドネシアの 今月の労働関連トピックス 2 41
  12 ) インドネシアの 食品・医薬品・化粧品の原料の輸入規制アップデート 3 43
  13 ) インドネシアの 投資環境トピックス2015年 5 46
  14 ) インドネシアの 賃金受給者の労災・死亡・老齢保障実施の手順 6 51
  15 ) インドネシアの SNI認証取得のための監査の受け方 5 57
  16 ) インドネシアの 2016年州と主な県/市の最低賃金速報 1 62
   
2. 今月の政治・経済情報  
  1 ) 2015年11月度 下旬 政治・経済トピックス メール配信 2 63
  2 ) 2015年12月度 上・中旬 政治・経済トピックス メール配信 3 65
  3 ) 物価・貿易15年12月発表 メール配信 1 68
   
3. 暮らしの随筆・その他  
  1 ) 「明日の街角120~今年を顧みてー希望の明日は」  橋本政彦 2 69
  2 ) 「パーム製品輸出への課税」 広沢 勉 2 71
  3 ) 「インドネシア・ウッドの不動産」 西見恭平 6 73
   
4.今月の金融・経済関連データ  
  1 ) 今月の月次経済指標 2014-2015トレンド メール配信 2 79
  2 ) 今月の会計・税務用換算レート メール配信 1 81
  3 ) 今月の為替株式金利の動き メール配信 1 82
      ニュース性のものについてはご希望の方にメール配信もしています。    
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表紙写真:Gereja Blenduk
スマランにある古い教会で1753年建築、1894年改修され、現在までプロテスタントの教会として使われている。
Blendukと言うのはKubah(ドーム)の意味でここのは大きく紫色にコーティングされている。
8角の堂建築の内部はギリシャの十字教会の様式である。

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2016年1月 5日 (火)

ラワブンガのガプーラ

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ジャティネガラ駅の前に大きな門Gapuraを建設中らしい。幅4メートル、高さ12.5メートルとさほど大きなものではないが、多分この奥がインドネシアの宝石類を売っている市場があるはずだ。この報道のタイトルがSentra Batu Akik Rawa Bunga Dibangun GapuraというものでBatuk Akikがめのうなどを意味するようだ。発表したのは東ジャカルタ区の中小企業サービスの担当課長であるが、ここにはそれらの業者の団体(paguyuban)があり彼らの民間資金で建設するものだと説明していた。 同時にジャティネガラ駅周辺に多くの屋台店(PKL)があるが、これらもBekasi Barat1方面に移動させるニュースもあったがそれがこの宝石市場がある地区でもある。 Rawa BungaはKelurahan地区名であるが取り上げたのはこのめのう市場Rawa Beningや花市場Rawa Belongやセラミック市場Rawa Sariなど後続話題があるからである。 ジャティネガラ駅の写真は2,014年のものであるが現在もこの鉄柵はある。2006年頃はなかったが。。

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2016年1月 4日 (月)

Banding、timbangの用法

Bandingの接頭・接尾辞を加えた変化には多くあり、そのニュアンスは小生は攻め切れない。全てを解き明かすことは次回への宿題として取っておき、小生にはよく似た単語としてtimbangがあり、いくつかを比較しつつ模索してみよう。
* bandingには訴えと言う意味もあるがこれも置いておいて比較という意味の動詞・名詞とその結果の差異というような意味がある。 tiimbangは同じ様に名詞・動詞の測り・考慮、及び意見の意味がある。
*動詞としてmembanding:比較する、meninbang:考慮する
*目的を明確にした他動詞となるとmemperbandingkan~と照合する、mempertimbangkan熟慮・審議にかける
*受動形として diperbandingkan dengan~に比較して、dipertimbangkan 測られて
*動作の名詞としてperbandingan 比較すること、相違、pertimbangan=timbangan
*同じのseを付けてsebanding匹敵する、均整の取れた setimbang 同量の
*kese~an 可能性の意味でKesebandingan比較可能性、比例、
Kesetimbangan 調和、一致、釣り合い
この探りの文章は以下の実際法令の翻訳のためであった。
Dalam melakukan Analisis Kesebandingan dan menentukan pembanding; harus memperhatikan hal-hal sebagai berikut :
a.transaksi yang dilakukan antara Wajib Pajak dengan pihak yang mempunyai Hubungan Istimewa dianggap sebanding dengan transaksi yang dilakukan antara pihak-pihak yang tidak mempunyai Hubungan Istimewa dalam hal :
1) tidak terdapat perbedaan kondisi yang material atau signifikan yang dapat
mempengaruhi harga atau laba dari transaksi yang diperbandingkan

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2016年1月 2日 (土)

申年、諸悪には三猿か

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ジャカルタにまだ居た12月はじめに今年の干支が猿なることを思い出し猿の木彫を買ってきた。ラーマーヤナのハヌマーン以外素材はあるまいと思っていたところ幾つかの三猿を目にした。見ざる聞かざる言わざるという例の話で言語的に日本発かと思うとそうではなく、世界的に紀元前よりあったらしい。
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ジャカルタではクバヨラン・スルヨ通りに"Three wise monkeys"というレストランもある。(車で通りがけに通ったのでぶれている)

昨今の不愉快なTVのコマーシャルや社会ニュースにはTwitterで文句をつけてきたりしたが、最近では目をそむける自分を発見し、偶々今年の干支で三猿に到達したのである。
そうだ今年は文句をつけることもあるまい、目をそむけ耳を閉ざせばいいだけだと一旦は思ったが、それは汚濁、悪、非礼からの逃避にすぎないのではないかと三猿を打ち消す自分もいる。許せないと言って苦しむより、許すことが心を和ませ、美しい言葉となるのだと気がついた。しかし又それができれば世話はないはずで、今年1年悩みながら暮らすことだろう。
世界が不安定になったISに対してもそれが出来るかと煩悶した時に、思い出したのはフェースブックで見たよく見て、よく聞き、美しく話す三猿、前向き三猿であった。

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