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2016年5月 5日 (木)

Sunario Dian Sastrowardoyo、& AADC2

Sunario


ここのsatuの用法に出てくるSunarioとは小生手持ちの歴史書には名前が出てこないがネットではちゃんと説明もある。正式にはProf. Mr. Sunario Sastrowardoyo、1902年マディウン生まれでインドネシアの民族覚醒の歴史のポイントである1925年のマニフェストと1928年の第2回全国青年会議に関与している青年活動家である。
裕福な家に生まれ、例によりオランダ系の学校、ELS, MULOそしてバタヴィアでは法科学校そしてライデンに留学し当時居たハッタなどと合流した。
ここで留学中の学生でインドネシア協会が組織され1925年政治宣言を発した。Sunarioはセクレタリーを務めている。帰国後ジャワの青年組織(Jong Jawa)に参加、全国の青年組織を集めた学生会議を開催、彼も一つの演説を行っている。この1928年の2回目の会議で青年の誓いが生まれたものである。
日本時代は法曹管理養成所や法科学院の教授を勤め、独立時はパンチャシラ原則の創生に寄与した。やその後は1955年頃外務大臣であり、バンドン会議でインドネシア代表を務めた。その後1966年迄デポネゴロ大学の学長を勤め、1974年代のパンチャシラ5人委員会で活動、1997年94歳で没したが、国家英雄はまだのようだ。先の例文では2つの役目を果たした唯一の人物と書かれているが、4つも5つもあると思われる。女優でこのブログでも取り上げた「Ada Apa Dengan Cinta」のDian Sastrowardoyoのおじいさんに当たる。この映画は2002年策でDianは主演女優賞を獲得、米国などでも好評であったが、64ee624c7408d293779d0a480cbaac3anin


今年その第2作目AADC2が封切られた。殆どの出演者が総出である。14年過ぎてのCintaどうなっているか、まだ列をなしているようだ。

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