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2016年10月の投稿

2016年10月31日 (月)

止められない2度とない旨さKhong Guan

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昔、撮った建物の写真に何だろうかと保存したままになったものがあり、思い立ち調べるとそれはシンガポール出のビスケット菓子のブランドであった。シンガポール出イクオール 中国菓子だから スーパーなどで売っているのは見掛けたことがあったような気がしたが、昔から中国菓子は古くても販売しているのでめったに手に取ることはないから知らないままになっていたのであろう。

Kongguan
しかしインドネシアでは1970年から知られたレバラン手土産として伝統的なものに育っていてCMモットーも「Tak Asing Lagi dan Tak Ada Duanya.」というものだ。今はWaferなどもある。最初の工場は戦後まもなくマレーシアでスタート、その後インドネシア、タイ、フイリピンであったが更に中国にも進出、日本、豪州、カナダ、アメリカなど40ケ国の市場で見られるそうだ。建物はJalan Wahid Hasymにある。タイトル通りかはまずは食べなきゃ話にはならない。


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2016年10月28日 (金)

ロイ・エイカフ カントリー王

カントリーの思い出を綴りあった本(確か東理夫編著だった)の中にKings of Country Musicと言うタイトルに出会ったが、それがRoy Acuffである。王ならばと、テネシーのカントリーミュージックの殿堂入りを調べるちゃんと入っている。この殿堂は1961年に開館され最初はハンク・ウイリアムなど亡くなっていた3人が飾られたが翌62年にエイカフは4人目であった。良く通る声の歌手であり、あるいはむしろプロモーターではなかっただろうか。彼は1903年生まれで89歳で1992年に亡くなっているが小生にすれば1992年などつい最近で、あのころはまだおられたのだと感慨する。 一番活躍した時代は1938年頃から1940年台でSmoky Mountain Boysと言うグループも作っていたFidlerでもある。関わり合いは別にして彼の名前で出てくる曲を羅列しておこう。
Great Speakled Bird(後のHonky Tonk Angel)
Lonesome Old River Blues
The Precious Jewel
Wreck on the High
Life's Railway to Heaven
Blue Eyes crying in the Rain
Oh my Clementain
Tennessee Walz
Wabash Cannonball
殿堂入りは既に130人とかで、小生にはもう追いつけない。

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2016年10月27日 (木)

18世紀のサヴ島

クックの第1回航海の下巻の後半のバタヴィア以降をブログしたがその前もインドネシアだから覗いてみる。
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すでにNZのクック海峡を抜けて豪州(当時はニューホラントに立ち寄り更にグレートバリアリーフの座礁からニューギニアに向かうまでも追記したので、インドネシア領のティモールにつながるアラフラ海に出航した最初の地から始まるがそこはどこであったのだろうか。
当時先人達の誤った海図などもあったが、クロノメーターも発明され緯度・経度も図れるようになっている時代でクックが初めて科学的事実に基づいた探検を行った訳だが現在の地名とは異なり先人のスペイン人やオランダ人が名付けた地名となり航海記を読んでも現在のどのあたりかなと思いながらの読書となる。
その出発地はパプアの今はYos Sudarso島となずけられているちょっと北の今はAgatsという港かもしれない。クックはここで上陸しかけて100人ほどの全裸の住民の襲撃を受けている。それが9月3日でジャワのスンダ海峡に至るまでの約3,500㎞を1ケ月かかっていることになる。この後の地名は現在の名前と同じが多くティモールからその西端のロティ(ロッテ)島さらにサウ海のサウ(サブ)島である。ここが9月18日で3日滞在したがその後は一直線で約1,500㎞弱のジャワに向かっている。ここのサウ島はオランダ東インド会社が支配し一人行政長官も常駐していた。オランダ本国から考えると、まさに地の果てまで進出している男のありようは悲惨ながら感動を覚える。

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2016年10月26日 (水)

Gedung Sate

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Sutardjoの請願のSutardjo Kartohadikusumo.が西ジャワ州知事として勤務した事務所はGedung Sateである。サテ(串焼)の形をしたとあだ名がついたこの建物は今も州事務所である。

00_gedung_sate_pesta
数年前の独立記念日にここを訪問した時は市民の大きなイベントをやっていたが、1920年代に建てられた建物は微動だに変わらない。設計はJ.Gerberでヌサンタラの伝統美を取り入れる巨匠Berlageの影響をうけている。パゴダやボロブドールとイタリアルネサンスの混合美だとして多くの賛美を得ている。独立戦争時にオランダとの争奪戦があり、ここでインドネシア青年7人の命が散ったと庭のモニュメントが伝えている。


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2016年10月25日 (火)

ヘッジ新商品 と 金融商品の会計原則

インドマルコ社 「インドネシア企業経営」 10月号は、ヘッジ新商品 と 金融商品の会計原則を特集しています。その他移転価格税制と税務調査対応 その3など税務問題が注目です。
この月刊誌は会計、税務,、貿易、金融、産業、経済、企業 政治等のインドネシアで経営する企業が関わる全ての分野の重要法令など満載している。

月刊誌の購読の他、毎週法令ニュースなどをE-mailでお届けするサービスもあるので、是非ご連絡ください。 他に会社運営に必要な会計記帳・経理指導、税務計算申告代行、投資関連許認可・変更事項の法務セクレタリ-なども個別フイーにて提供しております。どうぞご利用ください。
詳しくはウエブサイトwww.indonesialink.net/indomalco/或いはメールアドレスrisa@indomalco.com又は kitamura@indomalco.comに照会下さい。 
1. 今月の経営情報・事例研究 枚 頁
  1 ) インドネシアの 今月の税務法令アップデート 3 2
  2 ) インドネシアの 今月の経済法令アップデート   4 5
  3 ) インドネシアの 「会計原則 208 ~ 金融商品;開示 2」 4 9
  4 ) インドネシアの 国外特別関係者経由支払う給与の再計算 2 13
  5 ) インドネシアの 輸出関税課税品目と税率の見直し 3 15
  6 ) インドネシアの 外国人住居の権利供与・放出・譲渡 3 18
  7 ) インドネシアの PPN不徴収関連仕入税の貸記 4 21
  8 ) インドネシアの 首都の貨物取扱業 3 25
  9 ) インドネシアの 外貨取引に関する中銀規則  5 28
  10 ) インドネシアの 経済特区の租税・関税制度 その2 3 33
  11 ) インドネシアの 輸入木材製品の合法性証明 2 36
  12 ) インドネシアの 今月の労働関連トピックス 2 38
  13 ) インドネシアの 移転価格税制と税務調査対応 その3 2 40
  14 ) インドネシアの 携帯電話/コンピュータ、タブレットの輸入推薦状 2 42
  15 ) インドネシアの 医薬品・医療機器産業発展加速化指示 2 44
  16 ) インドネシアの 首都の使用済食用油の処分規則 4 46
   
2. 今月の政治・経済情報      
  1 ) 2016年9月度 下旬 政治・経済トピックス メール配信 2 50
  2 ) 2016年10月度 上・中旬 政治・経済トピックス メール配信 3 52
  3 ) 物価・貿易16年10月発表 メール配信 1 55
   
3. 暮らしの随筆・その他  
  1 ) 「明日の街角130~」  橋本政彦 2 56
  2 ) 「カタカナ表記と漢字表記」 広沢 勉 2 58
  3 ) 「国軍のインドネシア語」 西見恭平 4 60
   
4.今月の金融・経済関連データ  
  1 ) 今月の月次経済指標 2015-2016トレンド メール配信 2 64
  2 ) 今月の会計・税務用換算レート メール配信 1 66
  3 ) 今月の為替株式金利の動き メール配信 1 67
      ニュース性のものについてはご希望の方にメール配信もしています。    

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表紙写真:バンカ・ブリトゥン州都パンカルピナンにあるスズ博物館。元はオランダのバンカ・スズ収穫管理会社の従業員らの社宅だったもので、独立後の1949年にはインドネシアとオランダとの間のRoemRoyen交渉の場となったこともある歴史的な場所でもある。スズ博物館としての開館は1958年と古いが、国営スズ会社ティマによるスズ博物館としてオープニングは1997年、アジアで唯一のスズ博物館だそうだ。

発行:PT. Indomalco Info Center
Plaza Sentral 5A Floor, Jl.Jend.Sudirman No.47, Jakarta 12930, Indonesia
TEL: (+62-21) 570-9767, 570-9768(直通), Fax:570-9769, 574-1923
Handphone:0816-726585, E-Mai:risa@indomalco.com, 筆責:北村、兼松、西見

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2016年10月24日 (月)

ジャカルタに住む 不動産数題

外国人も住宅を購入できるようになり、また最近その条件の一つの最低価格も引き下げられた。外国人の住宅所有は80年間の使用権として認められるものであるが80年の生きる人はいないし売却すれば何も所有権に劣る価格になるわけでもない。そんな投資ということは考えなくとも、日本の価格と同じだけ出せば豪華でサービスの行き届いた生活をエンジョイできるわけでそこに価値がある。

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権利落ちの小生も写真を見ながら生きる力を得ている。たまたまキャッチしたのはKeppelLandが開発中のアパートで飛行場に近いKosanbiのWest Vistaである。このグループはシンガポールの開発業者であるが、

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ジャカルタの中央通りスディルマンにもInternational Financial Centerを建設した。他に昔このブログで取り上げたこともあるCakungのJakarta Garden Cityというコンドミもある。こちらの方がジャカルタ東部の工業団地勤務の日本人には便利かもしれない。このブカシ地方の工業団地勤務者は通勤渋滞で今やジャカルタに住む人は少なくなっているようで、町も大発展している。そしてジャカルタ日本人会では日本人学校もこの東部に分校を作る話が動き出している。そうなるとJJCも支部となることが想起されるがせいぜい部会がいいのだろうと思われる。


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2016年10月21日 (金)

キャプテンクックとバタヴィア

小生のインドネシア歴史年表にキャプテン・クックがジャカルタに来たことがあったというので調べてみた。それは1770年であるのでVan der Parra総督の時代でデポネゴロの乱の後スラパティの乱が続いた少し不穏な時代だったようだ。

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クックの航海日誌には上陸した土地の状況などの描写はなかったのが残念であったがここでクックはボロボロでたどり着いた帆船を修理に出したことだけが記録されている。修理はオンラスト島のドックで船体をひっくり返しての修理であったようで約3ケ月を要している。この間船員も体力も弱まっていたのかマラリヤなどで7人が没した。バタビアは1800年初めには南のウエルトフレーデンに市中心を移した通り猖獗の極みであったのだ。10月初め入港し12月末に13の礼砲を打ち合い出航、多くの船員が発病したままだったこと、最後のスンダ海峡の島で組んだ水が悪かったか赤痢も蔓延し、季節の貿易風の高熱蒸気にやられマダカスカルまでの2ケ月で36人が死亡していったそうだ。
クックは都合3回の航海をやっており、上記は第1回の下巻のうちの最後の方だけで翌1771年7月にドーバー海峡にたどり着いているが、下巻の前編は豪州上陸、ニュージーランドのクック海峡発見や豪州とニューギニア分離の発見あるいはグレートバリアリーフ座礁の苦闘などがこの南方大陸を探す第1回航海のハイライトである。
この船エンデバー号は397トン、全長32メートル、94人乗りだった。その後復元され今シドニー港に繋がれている。

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2016年10月20日 (木)

イドハム・ハリド

新紙幣のRp5,000札に予定されているIdham Chalidであるが旧札のイマム・ボンジョールよりも知名度は低い。イダムとかカリドとか呼ばれることもある。報道では元副首相とのみ紹介され、これはと言う英雄のポイントではないので探して見ることにする。

Idham_chalidhtm

1921年カリマンタン出身で、若いころは語学の才能を示し日本軍のイスラム利用に乗り通訳として働きNUに近くなり、政治の基盤はカリマンタンの地方議会を発端に1950年に国会議員、1955年や1971年の総選挙でのNUの躍進に力を尽くしてスカルノとスハルトの時代を生きたと言える。NUとしての働きは1952年(1956年)から1984年までの長期に渡り、2代目の総裁(7代目の議長)の座にあり、それを4代(8代)のグスドゥルに譲った流れから見ると相当なものである。政治家としては早くも56年ジュアンダ内閣の副首相をはじめ66年社会福祉調整相、71-77年にはナスチオンの後を受けてMPR/DPR議長、そして最後は83年迄最高諮問会議総裁を務めている。88歳で没した2010年であり2011年国家英雄となった。。。。

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2016年10月19日 (水)

オランダ・台湾・日本

オランダが日本にやってきたのは歴史教科書の通り1600年のリーフデ号で貿易が始まったのは1609年平戸のSpecx商館長の時でこの商館長は後バタビア商館長にもなりバタビアの華僑カピタン から贈られたバタビア地図入りメダルが有名である。

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その前にイスパニアは薩摩にポルトガルは長崎に来ていたが何れもカトリックの布教の故に放逐され1613年参加したイギリスも1624年に撤退していたが日本の商人達も多く台湾などに進出していた。オランダは特に日本との貿易の為台湾を目指し1623年澎湖島に商館を建築していたが対岸の厦門の福建総督より許可が得られず翌年ここより敗走、現在の台南市にゼーランジア城を築き拠点としたがここはその後1661年、日本との混血の明の遺臣鄭成功により滅ばされ台湾を去ることになる。この当時台湾(南部)はタイオワンとオランダは呼んでおり、日本との関係でもタイオワン事件が歴史に残っている。事件は1628年に長崎代官の末次平蔵とオランダ台湾行政長官ピーテル・ノイツとの間で起きた紛争でことの発端は末次の部下の商人浜田弥兵衛がオランダの課金に抵抗し最後はノイツを組み伏せ日本に拉致した。いろいろ経緯もあったが最終オランダ側が家光に深謝することでノイツは5年ぶりに釈放される。その間にノイツの息子は日本で病気で亡くなり平戸の追悼碑文に名前がある。

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2016年10月17日 (月)

バタヴィア城日誌 日誌不要論

市の図書館で「バタヴィア城日誌」と言うものを見つけた。写真は口絵にあったRachのバタビア城遠景

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村上直次郎誌が訳したもので1624年から1641年迄はS12年発行され その後の1684年迄の分は遺稿をS45年に発行されたものだが原本はほとんどがジャカルタの古文書館にあるがそれは1624年から1807年迄存続されたものだ。
この資料はVOCの各地の日誌をバタヴィアでまとめ本部に送ったもので鎖国中の日本の状況や台湾、その他各地の歴史資料として非常に有用なものであるが、原本自体1808年3月「何ら益なきものとして廃止された」と言うし日本語の翻訳もこの偉大な村上博士の偉業のあと続いた形跡はないのが不思議である。
この翻訳もただの翻訳ではなく例えばオランダ語原文にはない漢字の中国人名や訳注の内容がさらに価値を増している。氏にはほかに「蘭領印度史」の翻訳もあり、これもその後訂正を見た個所がないほどのもの故造詣の深さは押して知るべしである。この本も3巻もあり詳しすぎて中1巻のみ、そして序文以外は拾い読み程度しかできなかったが、なぜ原本も翻訳も継続されなかったのだろうか。日誌と言えば航海日誌などは義務であるし一定の価値はあるはずである。小生の会社勤務時代は義務ではなかったが自発的に書いていた記憶がある。最近でこそ不要論が出てきたが、思うに否定する根拠としては時間がもったいないということ或いは上司に報告するなら作文になる可能性がある程度である。


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2016年10月14日 (金)

kemang 洪水対策

ジャカルタは今年はLa Niñaのせいで8月と9月に特にKemang地区が洪水にやられたらしい。
昨日のJP誌ではクバヨランのKrukut川添いの住宅が取り壊された様子が報道されていた。

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ここは昔、鳥元と言う居酒屋レストランがあった裏側でPetagagan地区と言う名前であるが南ジャカルタ区庁舎の裏にもあたるがこの上流がKemangであり、多分さらに上流のParadise Eksekutif住宅などもやられたのではないか。何せこの地区は道路から見て相当低地になっており、住宅が川岸に迫っている。これらの河の堤防には人が歩ける道はなくびっしり住宅が迫っているので、これを取り壊し川幅を広げる予定だという。川幅は20メートルはほしい所であるが3メートルしかなく、広げるために550の家の移転が必要らしい。この河はさらに下流に行くと良く洪水となるTornojaya/TendeanやBenhilを通って西洪水運河につながる川である。
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webから借りたのどかな洪水風景

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2016年10月13日 (木)

インドネシア二輪車市場 :数字は語る。

  :過去の栄光は忘却へ。独占禁止法真近い。??
:さてさてどう読むのか
Honda % Yamaha % Suzuki % Kawasaki %
Jan-Dec.15 4,453,888 69% 1,798,630 28% 109,882 2% 115,008 2%
Jan.16 287,776 69% 112,124 27% 5,587 1% 10,681 3%
Feb.16 362,668 69% 139,235 27% 11,721 2% 11,081 2%
Mar.16 440,171 78% 108,416 19% 5,085 1% 9,482 2%
Apr.16 348,626 73% 120,158 25% 1,833 0% 7,190 2%
May.16 339,128 73% 112,145 24% 3,109 1% 6,909 1%
Jun.16 380,019 73% 127,224 25% 3,780 1% 7,708 1%
Jul.16 203,659 67% 91,015 30% 3,800 1% 6,584 2%
Aug.16 388,847 74% 123,972 24% 6,445 1% 8,085 2%
Sep.16 423,256 76% 119,717 22% 4,628 1% 8,036 1%

Jan-Sep16 3,174,150 73% 1,054,006 24% 45,988 1% 75,756 2%

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2016年10月12日 (水)

カイシエポ Biak  Rp10,000


Kaisiepo


新貨幣Rp10,000の画像に予定されている国家英雄であるが、西イリアン州の4番目の州知事(現在のパプア・西パプア州)と紹介されている。イリアン・パプアは名称がややこしいが、それは弊稿「パプア・イリアン。ニューギニア」を見れば氷塊する。
任期が1964年から1973年迄とあるのでスカルノ時代のイリアン奪取の歴史の後で国連統治の後の1963年の施政権取得からスハルトがイリアンジャヤと改称した時代で2番目の山であろう。その間にインドネシア軍介入の住民投票やパプア独立運動も激しさを増した。  現在が3番目の山と言うか丘であろうか、目が離せない。
カイシエポは1921年ビアクに生まれ1979年ジャヤプラでなくなっている。ビアクはこのパプア州に属するがチェンデラワシ湾の外島でもある。彼の名前を付した国際空港があるが日本軍が作った空港がベースで日本軍がここを国防死守線として散華した地点でもある。珍しい名前なのでそれとばかり読んでいたら別人のマニュエル・カイシエポ氏であったが、氏はゴトンロヨン内閣時代の東部地区開発促進担当国務大臣であった。フランスカイシエポの写真はこの特徴的なものしかない。

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2016年10月11日 (火)

Johannes, NTT,100ルピアへ

Radiocaraprofjohannesmelawanpropaga


予定新コインのRp100の画像に選ばれたのがHerman Johannessである。写真はこれしかない。報道の紹介には元公共事業相(1950年~1951年)とのみ紹介されている。1950年とは独立戦後のハーグ円卓会議で成立したインドネシア連邦を経て同年8月には統一共和国憲法が出来ているので、これは初代のナッシール内閣である。野党となった国民党との亀裂から短期倒閣となった。その後古巣の学業に戻りUGMの教授・Rektorなど勤め66年から1979年までは高等教育調整官(Koperti)となり、同時に1968年から1978年迄最高諮問会議のメンバーでもあった。
古巣と書いたがこの時代は独立戦争の真っただ中であり、学生共々戦地に立っており、1946年最初の命令は爆薬ラボの責任者から始まり、1948年のスハルトのジョクジャの6時間占領劇には要地の橋梁爆破作戦に従事し、後にゲリラ勲章を受勲している。 彼は1912年にNTTで生まれELS、MULO、AMSを経て1934年THSで化学分野を専攻し、練炭原料の代替物としてバイオマスの研究に従事していたことが軍部やその後の学問に参加したバックグラウンドであろう。2009年に遅ればせながら国家英雄に叙された。 以上であるが一言で表わすのに短期内閣の公共事業大臣はないと思うし 最小単位の100ルピアでは出身地のNTTが怒るだろうし落ちてても踏みしゃぐことはあっても拾われないコインに人物が描く必要があるのであろうか。国家英雄が印像されておればインドネシア人もコインをもっと大事にするよう願っての事であろうか。

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2016年10月 8日 (土)

9月投資環境トピックス:いろいろインドネシア

9/1  成長率5.2%→5.1%、来年5.3%→5.2%に下方修正:財務相、ADBも5%と5.1%
9/16 グーグル強制調査へ。15年だけで5兆追徴。ヤフー、Twitter、Facebookも調査。
Mangkuluhurcityjakarta
9/10 スハルト三男がスマンギに80階建てビルの建設計画。
9/22 ジャカルタの渋滞世界ワースト2位、バンドン6位、スラバヤ7位:WAZE調べ
9/1  首都人工島開発贈賄でポドモロAPL元社長に3年2億の刑。開発は続行へ
9/15 医薬品購入の見返りに医師らに計5千億ルピア:疑惑の製薬会社の調査へ。
9/17 砂糖輸入事業への口利きで収賄容疑で地方代表議会議長が逮捕される。
9/29 租税特赦:バクリー・メドコ・バリト総帥らが駆け込み申告。9月までに1,000兆
9/23 国連総会で副大統領が演説、2019-20年の非常任理事国の立候補表明、など。
9/00 ジョコウイ会談:習近平、オランダ王妃、ドゥテルテ
9/00 災害も吹き荒れ:ジャカルタ暴風4人死亡、バルジャリ山噴火、ガルット洪水
日系企業ニュースは
9/10 ヤマザキヤマザキの商標権獲得、MY ROTIブランドにヤマザキの ロゴを。
9/15 JFEスチール、MM2100に自動車用溶融亜鉛鍍金製造設備、投資約3億ドル。
9/15 川崎重工、アネカ・タンバンのフェロニッケル精錬工場建設に参加へ

記録にとどめて
9/22 新政策金利の7日物リバースレポ金利引き下げ5.25%→5.00%:BI。
9/30 来年のたばこ税、平均10.5%引き上げ:財務相令。値上げ必至。

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2016年10月 7日 (金)

ジャカルタ オクトーバーフェスト

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もうジャカルタではオクトーバーフェストをやっているらしい。2014年は通りすがりに撮った写真では9月であったが、今年は10月5日から7日迄、このビアレストランも祭りのイベントをやっている。7日だから今日であるが明日の夜明けまでである。とはいっても予約が居るからむつかしいかもしれない。この店はグランドインドネシアのPaulaner Brauhausであるが、チケット850,000ルピアで食事とドイツビールの飲み放題、歌や踊りで憂さを晴らすがいい。

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古いアルバムで1枚My Oktobrfestがあったが何年だったか、サファリが流行っていた時代だから相当だ。
東京のオクトーバーフェストをネットで見ると日比谷公園は9月19日で終わっているが、横浜赤レンガ倉庫は今月16日迄やっている。行くなら15日の座間空軍基地がよさそうだが今日東京ではオリンピックのパレードがこれから始まる。

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2016年10月 6日 (木)

スタルジョの請願

1,000ルピア・コインに彫像されるケトット・プジャが最初の小スンダ州知事であったが、小スンダはバリからチモールに至る諸島である。時に、ジャカルタ首都(スウィルヨ)を別格とすると8つの州(省)の順番の筆頭は西ジャワであり、最初の西ジャワ知事はスタルジョ・カルトハディクスモである。フルで名前を読むと初めての人のように思えるが、「スタルジョの請願」と言えば思い出す人は思い出す。

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日本のファッシズムの軍靴が聞こえて来る頃、オランダとの協調を模索する穏健派が民族運動の中心を占める時代の1936年、オランダに対してオランダの憲法の枠内での自治を請願する文書を作ったのがスタルジョなのである。このウイルへルミナ女王宛の文書に対する回答は長くかかり最後38年になって拒否された。オランダに失望したタムリンは日本に接近すると思われオランダに逮捕され数日を置かず不可解な死と遂げた。1892年ジャワ・テンガー生まれレのスタルジョは50年迄KNIPの委員長やスカルノの最高諮問会議(DPA)総裁となっているが、その後、亡くなる1976年までの奉職はない。

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2016年10月 5日 (水)

Mercu Buana大学

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ジャカルタの東部でMPU Tantular大学が設立されたころ西部でMercu Buana大学が設立された。Mercu Buanaと言えばスハルト元大統領の義弟プロボステジョのグループでありこの大学もそうだったし、氏は1930年生まれなのでまだ元気である。今までの関わり合いは知らないがこの大学はキャンパスをいくつも持ち拡大している。現在 4っつのキャンパス27,000人の学生を教育している。でジャカルタ近辺で以下のキャンパスがあり、プロボさんはジョクジャにも別の大学を持っている。

Aキャンパス:Meruya、JakartaBarat
B キャンパス:Menteng, Jakarta Pusat
C キャンパス:Depok, Jawa Barat
D キャンパス:Jl. Raya Kranggan No.6, Jatiraden, Bekasi Barat

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上のBキャンパスはGedung Joang 45の隣にあり、昔、ここはプロボさんのGMグループの総代理店が保有しGarmakビルと言われていて、大きな中華料理店もあり、直径7メートル位の丸テーブルで、中国からのお歴々が来訪したこともある。これだけ大きい丸テーブルは回転するものではなく中央は生け花であった。レストランの栄枯盛衰は空しい。

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2016年10月 4日 (火)

Asuransi ASEIとは


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ホテル・ミレニアムの前にある教会のJati Baru通りの向こう側にも昔、古い建物があったが、いつの間にか取り壊され、新しいビルになっている。

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新しいビルは国営保険会社の名前が表示されている。前の建物も取り交わし何になったかは撮った写真に何も表示されてなく、調べた住所だけでは昔の建物の何かまではわからず仕舞いであった。
現在のビルのAsuransi Aseiは、生まれは1985年でAsuransi Expor Indonesia(Persero)(インドネシア輸出保険公社)と言うから、日本で言う貿易保険(輸出信用、非常リスク保険)である。その後再保険の機能を持たされ通称ASEI Reと言われていたが、保険自体はこのAsuransi ASEIが子会社として設立された。 ASEI ReはPT Reasuransi Indonesia Utama (Re Indonesia)と改称、同じ機能を持つ国営保険を吸収合併した。(若干諸説あり)
それは年間20兆にもなる再保険料の対外支払いを削減するための強化策であった。

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2016年10月 3日 (月)

K7から1001へ


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昔2007年、北のクニール通りの7番地にアジア最大のデスコの一つがあるとしてこのブログでも紹介したが、当時はこの通りの名前からK7と称していた。今はその建物は健在であるが名前はいろいろ変わり1001を使っている。

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その設備や歴史からかHotel 1001や1001 Colosseum、The Pool 1001と言っても通じるだろう。多分それぞれのホテル・ディスコ。プール設備として独立風をよそっている。 K7 時代に行ったこともあるが子供時間だったようだ。

その頃は日本やドイツで学んだ人がオーナーであったが今は近くのアンチョールに通じる道にあるAlexisのオーナーに移っている。The PoolはAlila GroupのIlligalsなどと同じコンセプトのようだ。


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