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2017年2月 2日 (木)

クーパンが日本の前線だった頃。


作家久生十蘭の従軍日記を読んでいる。日本開戦2年目のインドネシア東部を従軍した時の日記でどうにか存続しえた日記が彼の死後発見され発行できたものである。昭和18年2月24日東京出発、途中、台北に7泊後マニラ、メナド、マカッサル経由しながら3月6日スラバヤ到着、スラバヤでは40日、業務未定、空路待ちなどで4ケ月も怠惰の中空費しやっと蘭領チモールのクーパンに入るがここは前線で既に米軍の空襲下であった。砲台のある最前線での毎夜は防空壕へ避難、爆弾投下を「ドスドスドス、ズンズズン、ズズンズズン、ズンズンずんずん、ドドッドドッ、ガガガガン、バフバフ」と聞く。ここ前線には200名の兵がいた。前線の1週間を含め司令本部のタロスでの滞在で合計3週間いたことになるが、彼は士官待遇であり士官クラスはまだ思いやりがあり、余裕があった。例によりこんな所にも花の家、月の家、松の家などがあり、ネシア(原文ママ)のバアもあり、暗い灯影に獣のごとく蹲りけがらわしく感ずることもあったが、彼は松の家の台湾女性の身の上に心を寄せた日もあった。 ここから前線アンボンへそしてニューギニアに向かうのであったがその機中から、「今青い海の上で親切だったクーパンの人々に心からの訣別の辞を繰り返す」とクーパンの日記を締めている。

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