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2017年6月の投稿

2017年6月30日 (金)

私のToko Tiga


コタのパンチョランのToko Tigaは有名な地名であるがまず何がToko Tigaなのか、それが店の名前なら
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その名前を冠する店は多くあり中にはコタから離れたワヒッドハシムのバクミー・トコ・テイガもある。通りの名前なら割と短い道で且つそこに用があるような店もないのでなじみはない。
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道で言えばまずグロドックから左手パンチョランに入りKrukut運河とぶつかる所で運河に添って左に曲がる所にToko Tigaの道標がある。

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そこから運河サイドを上流に上る500メートル程度がその道であるがこの運河の両サイドである。 500メートルの先は金徳院の方からぶつかって来た道Kemenanganが運河を越える橋の所から合流する形で古い中国建物を右に見ながら行く数百メートルも同じToko Tiga通りでそれは昨日紹介したPasar Grosir Perniagaanの所までである。 
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この先は道もPerniagaan通りとなり、さっきのKrukut運河(それは少し上流で二手に分かれた左手の運河)にぶつかるがその端に大きな中国建物があり壁にToko Obatと大きな名前が彫られていたので小生はこれが Toko Tigaに関係するかなと思っていた。それではここから又戻って復習すると、今来た道を戻ってさっきの橋に来たら渡らずに運河の左側の道をとるとそこもToko Tigaでさっき来た運河を挟む両サイドの道の側である。

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この500メートルのTokoTigaを抜けるとさっきの道標があった所、すなわちパンチョランであるがこの名前はここからむしろピントゥクチルと言われ左に曲がって進むと例のFlyoverが見えそのあたりがパサールパギで更に北に取るとカリブサールに出てくることになる。 ここをイキツ戻リツしながら実は本物のToko Tigaは見つけているがそれは次回のブログとしよう。

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2017年6月29日 (木)

モロタイよりもテルナティ・チドーレ

モロタイ島もハルマヘラ島も現在では北マルク州を構成するが、熱帯山岳地であるため人口は少ない。むしろハルマヘラ島がその西側でかかえる様に浮かぶ島テルナテ、ティドーレ島の方がこの地だけの特産品の丁子などの香料貿易でにぎわった歴史がある。
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1999年にマルク州から独立し北マルク州になった訳であるが州都は最初はテルナテであったがやっと10年もかかって計画の首都ハルマヘラ島のソフイフイに移転できたようなわけである。その南はバチャン島からオビ島、或いはスラウエシ寄りのタリアブ島などが加わる程度でなぜ分離したかはわからない。

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この地は1513年ポルトガルがやってきてテルナテを本拠にしたあと、スペインも1519年チドレにやってきて両国は丁子貿易で競争し抗争したが後に条約でスペインがフイリピンに去った後オランダやって来た。テルナテもチドレもスルタン国であり、西欧の侵略には悩まされ、最後はオランダの伐採価格政策(ホンギ遠征)で丁子の生産も逆にすたれた。そのような背景でこの地方はインドネシアでも貧しい地方になり、北マルク分離したのはハビビ政権の経済特区として地方開発の促進が目的であった
写真はリプタン6より 

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2017年6月28日 (水)

ジャカルタのヒンズー寺院のpura2


レバランと言うわけでもないが最近の宗教間の不寛容の出来事がおおく、各宗教の教会の記事も目にする。JP誌では5つの宗教でイステクラル、カセドラル、イマニュエル、ラーマングン、ホウセイジを挙げていたが、この仏教のホウセイジだけ初耳で素人でも仏教は金徳院以下多くあり、モスクも教会もまた多くブログで紹介している。
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ヒンズーはラーマングンにあるPura Adyya Jayaは「http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_1362.html」としてブログしたがあとなかなか思いだせない。
そこでネットで探してみるとジャカナビの「多様な宗教が共存する街ジャカルタ#2」で珍しくヒンズーが三つも紹介されていたので、それを引用すると
Pura Chandra Prabha: Jelambar, Grogol petamburan
Pura Penataran Agung: Taman Sari Halim Perdana Kusumah, Jakarta Timur
Pura Amerta Jati: Pangkalan Jati, Cinere, Kota Depok
である。ジャカナビの筆者は「ヒンドゥー寺院最大の年間行事である創設記念祭・オダランでは。。。(神聖な一番奥の境内は本来他宗教にはゆるされないがここではきちんと正装しておればおおらかだし何よりバリそのものの空間に心打たれた)」と言う風な表現である。
いずれ行くこともあろうとマイアルバムで他を探すと、北のプルイットに仏寺と共存していた「Candi Shiva Mandir北のヒンドゥー」と言うのをこれも既に昔ブログにしていた。更にマルンダにもあった記憶がある。
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少し小さいがちゃんとしたPuraなら、タナアバンのプラサスティ墓碑公園にいく道にPura Agungというのがある。

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少し違うがタマン・ミニの切手博物館の入口にはどんとそびえ立つ割れ門がある。宗教を離れて海のバリを味わうならアンチョールの奥のJimbaranレストランがいいだろう。最後の二つもブログにしていた。

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2017年6月27日 (火)

遅すぎる降伏 沖縄とモロタイ

6月23日は沖縄慰霊の日で、1945年のこの日、日本軍の沖縄戦の組織的戦闘が終結した日ですがこの沖縄戦でなくなった戦没者数は24万人と、広島を上回る数なのである。圧倒的な戦力の前に一時の時間稼ぎに24万人が亡くなったこの悲劇こそ、米軍が落とした原爆よりも悔恨の意を注ぐべきではないでしょうか。 やみくもに憲法を変えたいというのなら政権はまず沖縄の基地問題は自分の出身地で引き受けると言うべきでしょう。

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インドネシアにおける組織的戦闘終了はモロタイ島である。中村さんという日本兵(台湾出身)が戦後30年で発見された土地で米軍との組織的戦闘が行われた土地であることは、今はインドネシアに居る日本人ですら知られていない。1944年8月ごろには米軍はフイリピン反抗作戦に着手しこの一帯には米国機動部隊の航空爆撃を行いモロタイ島にはその航空基地作りの為上陸、日本軍は中隊規模で圧倒された後、ハルマヘラの大隊クラスで逆上陸を行ったりその戦闘は45年6月末まで続いた戦闘である。投入兵は最初の駐屯兵500名、ハルマヘラから2,000名強、1700名強が亡くなった、対する米軍は投入57,000、降伏を知らない日本軍である。
島には中村さんの銅像が建てられている。よく見るとインドネシア語で書かれており、耐えられずに現地政府が建てたようである。


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2017年6月26日 (月)

Pasar Pagi(Asemka)とPasar Perniagaan

この写真は確かに昔のパッサールパギだと思うが縁となる固有名詞もない。
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1980年代だとは思うがこれも解らない。パッサールパギはマンガ・ドゥアのWTCにもあるのでこちらはラマであり、ここから移転したのでその年代を探ればわかるかもしれない。 
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パッサル・パギ・ラマはコタのマンディリ博物館の横に降りてくるFlyoverの下の道を含む一体でアセムカと言い今も多くの玩具類や文房具類を売っているので移転は一部だったのであろうか。

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ところが昔この辺りを通ってかなり大きな一風変わったビルがあり、その後それがどこにあるか一時忘却の彼方にあったので、今日Googleで訪ねてみた。一方通行なのでここに行くのはかなりむつかしい。簡単に説明するとこの間FPIのデモの流れだったか半暴動が起こったPejagaran通りを北から下ってくる道で左に曲がるのであるがジャランコピをやり過ごしflyoverの手前で左に取ればPasar Pagi Rayaと言う道で少しカリブサール方向に進むとここにやってくる。この通りが正面でこの建物は奥に長く周囲に道があるので裏側に行くとFlyover添いに道があるがここも同じ賑やかな玩具類の商店街である。
この建物は今やネズミの巣窟らしくワンブロック南のPerniagaan通りにあるPasar Grosir Perniagaanに移った業者も多いそうだ。見た目はなかなかで都営のPasar Jayaがやっているので何とかとは思うもののこの一帯は道が一方通行で複雑すぎてそれだけでよそ者にはダメである。
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この玩具類が売られている賑やかな一帯はパンチョラン(ピントゥクチール)から入ってきてFlyoverに出てくる道をとることも出来る。しかしそこからはこのネズミのモールにはダイレクトにはいけない。
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又一部移転したすぐ南のPasar Grosirにもダイレクトにはいけない。皆3~5百メートルであるので歩けばどこにも行けるがネズミに気を付けねばならない。カリブサールの少し上流で左手がパサールパギ、右手がアセムカとなると思う。

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2017年6月25日 (日)

個人財務情報の自動交換 


どこに行っても監視と規制の時代であす。インドマルコ社 「インドネシア企業経営」 6月号は、前号に続き、強化されつつある税務行政のいくつかの法令を紹介します。その他、この月でキャッチした会計、税務,、労務、貿易、金融、産業、経済、企業、政治等のインドネシアで経営する企業が関わる全ての分野の重要法令など満載しています。
この購読の他、毎週法令ニュースなどをE-mailでお届けするサービスもあるので、是非ご連絡ください。 他に会社運営に必要な会計記帳・経理指導、税務計算申告代行、投資関連許認可・変更事項の法務セクレタリ-なども個別フイーにて提供しております。どうぞご利用ください。
詳しくはウエブサイトwww.indonesialink.net/indomalco/或いはメールアドレスrisa@indomalco.com又は   kitamura@indomalco.comに照会下さい。 
1. 今月の経営情報・事例研究 枚 頁
1 ) インドネシアの 今月の税務法令アップデート 4 2
2 ) インドネシアの 今月の経済法令アップデート   7 6
3 ) インドネシアの 「会計原則 216~固定資産 2」 4 13
4 ) インドネシアの 自動的に情報交換される課税情報  3 17
5 ) インドネシアの PMA会社と駐在員の基本的な許認可 2 20
6 ) インドネシアの 作物製品の輸入規制の改定 3 22
7 ) インドネシアの PPN暫定還付等の税務調査ポイント 3 25
8 ) インドネシアの 土地情報オンライン照会 2 28
9 ) インドネシアの IMB取得のための実施細則 4 30
10 ) インドネシアの 納税遵法の実地調査のガイドと実務指示 2 5 34
11 ) インドネシアの 公認鑑定士の登録と業務 その2 3 39
12 ) インドネシアの 政府等の学習成果評価 3 42
13 ) インドネシアの BEPS とOECDの15項目BEPS行動計画について  2 45
14 ) インドネシアの 今月の労働関連トピックス 1 47

2. 今月の政治・経済情報
1 ) 2017年5月度 下旬 政治・経済トピックス メール配信 2 48
2 ) 2017年6月度 上・中旬 政治・経済トピックス メール配信 3 50
3 ) 物価・貿易2017年6月発表 メール配信 1 53

3. 暮らしの随筆・その他
1 ) 「明日の街角137~忘却 忘れることの悲しみ」  橋本政彦 3 54
2 ) 「IT時代とビジネス環境」 広沢 勉 2 57
3 ) 「資源株の本社ビル」 西見恭平 2 59
4 ) 「資源関連企業の決算状況(企業決算 その2)」 西見恭平 2 61

4.今月の金融・経済関連データ
1 ) 今月の月次経済指標 2016-2017トレンド メール配信 2 63
2 ) 今月の会計・税務用換算レート メール配信 1 65
3 ) 今月の為替株式金利の動き メール配信 1 66
ニュース性のものについてはご希望の方にメール配信もしています。


表紙写真:インドネシア初の海上高速道路、バリ・マンダラ高速道路。バリ州都デンパサールの国際空港近くから、南のリゾート地ヌサドゥアまで、12.7kmを結ぶ。バリでは最初の高速道路でもある。2012年3月着工、2013年5月完工。純粋なインドネシア製と胸を張る。バイク用の車線が設けられているのがユニーク。料金は、一般乗用車は11,000ルピアなのに対して、二輪車は4,500ルピア。

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2017年6月23日 (金)

蘭印の設計家シュマケル兄弟

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大分前に「Jiwasrayaの源流 OLVEH」として紹介したOLVEH記念館でこの5月にOLVEH展が開かれ、それについて本間女史が「オランダ領東インド時代の奇才シュマケルの現代的商品価値」と言う小論文を書かれていたのを目にした。

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この建物の設計家は蘭領時代の設計家シュマケルであるが、シュマケルは弟もおり、この展示会のポスターに兄弟で写真が出ており、またこの建物を引き継ぎ保有している国営生保JiwasrayaのホームペイジにもSchoemaker 兄弟,つまりC.P. Wolff Schoemaker (CHARLES PROSPER (C.P.) WOLF SCHOEMAKER)と L.A. Schoemaker (Richard Leonard Arnold Schoemaker)と出ている。読み方に英語風ではシューメーカーだしドイツ読みではシューマッヒャーと自信がなかったので今ブログにするわけである。弟のRichard (1886~1942)は確かにバンドンのTHB(現ITB)で建築の教鞭をとったりしているが、その前に彼は軍のアカデミーで尉官でありフェンシングのオリンピックの選手であったりの伝記が有名だ。アカデミーの後デルフトで建築学を5年履修の所アカデミー卒であるので2年で卒業し蘭印に赴任した。THBは1920年から1924年であるが、その後本部のデルフトの学部長として迎えられITB職はWolfに任した。本国ではドイツの戦雲急で彼は軍籍復帰し地下活動する中で、最後はドイツ軍に逮捕され翌日キャンプで銃殺されている。

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今インドネシアに残る彼らの遺産は圧倒的に兄(1882~1949)のCP. Wolff Schoemakerの方が多くなる。
シュマケル兄弟の合作をあと一つ紹介するとそれはバンドンJl.Acheにある師団司令本部(Makodam)である。Makodamが取る前は蘭印軍最高司令官の公邸で、豪壮な構えの宮殿作りであった。

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2017年6月21日 (水)

新規プロヴィンス8州

タイトルがおかしいが私にとっての新規である。
インドネシア共和国の州の設立リストを見てみるとジャワ各州は1950年であり、一番新しいのはつい最近2012年の北カリマンタンである。各州まちまちでそこに歴史の」痕跡があり興味をそそる。
Map_of_indonesia
まずはいくつの州があるか、小生に取っては長く27州であったが現在は34州である。数えると26となるが、東チモール州がインドネシア共和国から独立していたのを忘れていた。27の時代はスハルト迄であり、その後新設は8州もあった訳であるが、これが西パプアを除き、権利に目覚めたインドネシアの象徴である。但し今後も続くのか思いをはせても、思いつかない。パプアは逆に政権としては分断したいはずであるが、住民は結束するのだろうか

Maluku Utara Sofifi
1999/10/4
Papua Barat Manokwari
1999/10/4
Banten Serang
2000/10/4
Kepulauan Bangka Belitung Pangkalpinang
2000/11/21
Gorontalo Kota Gorontalo
2000/12/22
Kepulauan Riau Tanjung Pinang
2002/10/25
Sulawesi Barat Mamuju
2004/10/5
Kalimantan Utara Tanjungselor
2012/10/25

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2017年6月20日 (火)

ブカシのGedung Juangと日本

ブカシのTambun通りにインドネシア独立戦の遺産の建物が残っている。

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これについてはこのブログで「http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/gedungjuang45-0.html」として紹介したが、ウイキペデイアに日本占領時代の事が少し書かれている。。。。
1943年になって日本軍がやってきて、この建物を占領し 行政本部の施設として使用した。その後日本敗戦の時ブカシ地区はここから汽車を使ってスバンのカリジャティ経由引き上げようとしたが、インドネシアの青年団はレールを曲げ列車が転覆をはかった。
多くの日本軍は武器を商品倉庫にかくして残して来たので丸腰であった。そこでどのような悲惨なことが起こったかは記載がなかったが、累々の死体はブカシの川に投げられ捨てられたそうである。
その後は連合軍との戦いでインドネシアの司令本部となり色々な施設として利用され今日に至っている。

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2017年6月19日 (月)

Pantjoran Tea House

コタに行ってなんとなく皆の記憶に残る店がある。
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コタはパンチョランの入り口で今改装されPancoran Tea Houseと言う綺麗な店になっている。
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ここはグロドックでこのパンチョラン の入り口左手はグロドックパッサールという中型ショッピングモールがある。このTea Houseは1928年からのApotheek Chung Hwaと言う名前のアポテク(薬局)でバタヴィアで最古の店であった。ここでは中国茶のred teaが出されるが、オランダの植物学者Andreas Cleyerが1684年に日本から種を持ち込んでコタのTijgergracht(タイヘル運河通り) で栽培した歴史もあるそうだ。
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ジャカルタ動乱前はここはCity Hotelがありテントの店などが密集していたところでクバヨランからここまで薬を買いに来ていたことを思いだす。或いは繊維の問屋もこの辺りに多く、営業担当に付いて行って店の旦那に濃いインドネシア・コーヒーを頂戴したこともある。

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どこかの店に飾ってあった風景絵が手元にあり、見るとまさにこの店の昔の薬剤店の絵であった。このパンチョランには今でも何百単位の薬の店がある。室内はシックな作りで落ち着けそう。いろいろな中国茶の他焼売や揚豆腐みたいな中華軽食もある。贔屓に出来そうだ。


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2017年6月16日 (金)

東部ジャワの思い出 ブロモからトロウーラン

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歴史ある郵便局を改装したHermitage Hotelを探したとき見つけたのが東ジャワ州のジャカルタ事務所である。ホテルの横の道Jl. SumarangがT字路のPasuruanに出たところにある。小生が摂った写真は民家の豪邸風であったが、
Gedungjatim
Googelで確認してみると出てきたビルの風景は近くのMetropole 21のように見えたがよく観察するとこれはスラバヤの本庁の写真であった。
小生にとって東ジャワとはスラバヤとその近辺であるが何度も既にブログにしている。 まだ触れてないところはTrowulanである。
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マジャパヒット王朝の都であるが、この広い地域のあちこちに壮大な遺跡が散らばって存在している。記憶にあるのは多分ミュージアムであったのだろうか 戸外の吹き抜けの展示場にいろんなものがあった記憶だけである。
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Googleの地図で見るとCandiなど遺跡がマッピングしている。更に拡大すると他の名前も浮き出てくるが中心部の全体を写す大きさはこれが限界である。
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ここにはブロモ火山の山頂での旭日を仰いだ後廻って来たのであるが途中のどこを通ったのかも思いだせない。明け近くいまだ暗黒の中刻々変わる大宇宙の神秘に身体が持って行かれそうな感覚に陥った事を思いだす。その当時カメラも持ってなかったのか悔やまれるが断捨離でひょっとして出てくるかもしれないといつもそこで終わっている。Bromoの写真は知り合いのS女史からもらったもの。トゥロウーランはGoogleから借用である。


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2017年6月15日 (木)

気になるタムリン

国家英雄タムリンについては何度かブログしているが間違いがあった点も多く以下に補充してみよう。間違いが不確かに上がるだけかもしれない。彼は1894年2月16日にSawah Besarで生まれ、1942年1月11日に亡くなりKaretに埋葬された。

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父はオランダ人(蘭英?、母はベタウイ)でWedanaと言う郡長(?)であったのでオランダの学校(Willem III ギムナシウム)に通ったが父が早くなくなり、小さい時から住民との素直な付き合いの中からベタウィ代表として議会やVolkslaadに選ばれていった。その間KPM(オランダ王立海運)の職員でもあった。そこでオランダ人の社会運動家と知り合い活動していったのである。祖父にさかのぼると名前はOrtでイギリス人で母はブタウウィであったことから残された地所がPetojoにある街の中にあるサッカー場(祖父はここでホテルをやっていた)である。Sawah Besarは現在の同名の駅の一帯か、Sawah Besar No.32 とあったがそれはH.Wuruk通りに近いKebon Jurukだとgooglは表示するがこの辺りは密集地帯で現在では金持ちが住むようなところには見えない。
彼は議会でオランダ独占を破り副市長(wakil Warikota)になりまたインドネシア独立の為の指導的役割を担っており、1919年市議会、1935年(or1927年)Parindraを代表し国民参議院(Volksraad)に議員となった。

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このGedung Kenariもその活動のための集会所として元オランダ人の倉庫を購入したものである。古くは1928年のPNIの集会、1935年アラブ統一集会、1939年Parindra合体集会である。
Jintan
日本占領後偶々皇帝の絵がある仁丹を持ち上げた話から日本のスパイの嫌疑をかけられた。最後は多くの秘密警察に自宅に拘禁されその時はマラリアにもかかっていたこともあり他殺説もあり、死亡原因は解っていない。死亡場所をSenen(Sawa Besarに隣接)とするものもある。写真の一つはorangbetawi.comから借用、2016年対する小生のは相当古い 20年前としておこう。あまり変わってない。

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2017年6月14日 (水)

第2の国家英雄墓地

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ラマダン前或いはレバランにインドネシアではお墓参りする慣習がある。ジャカルタ新聞でラマダン前の州営墓地カレット・ビファックのお詣り風景を伝えていたが、ここはPejomponganで先般このブログで、この下のカレット堰(Bendungan Hiril)やプジョンポンガン浄水場についてふれたが今回小生に取っては大きな新発見があった。ジャカルタ新聞では、ある家族のお詣り風景を描いていたが、
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実はここにあの国家英雄MH.Thamrinのお墓があるのだ。昨年の話だったのだろうかAhok知事もラマダン・レバランに際し亡くなったジャカルタ州知事のお墓参り(menziarahi)をしたのであるがその時はカリバタ英雄墓地とここカレット墓地を訪問している。
カリバタでお祈りを捧げた英雄には以下の人が挙げられていた。
初代知事 Swiryo、第5代Sudiro Hardjodisastro 12代Letjen TNI (Purn) Wiyogo Atmodarminto、その他にAhmad Yani, Soedharmonoであるが、その時カレットに回ってThamrinと作曲家Ismail Marzukiに花を捧げていた。Ismail Marzukiもここだったのである。
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タムリンに話をも押すとタムリンとここにはつながりがあり、彼の政治活動の傍ら、住民福祉にも意を払い、住民への上水の供給のある農村ずくリを掲げて活動した。そういえばこの墓地の前の道はJl.Penjernihanと言うがそれは透明clearの意味で浄水に関した名前だったのである。彼には又サッカーを生活の中に根付かせた功績もある。

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2017年6月13日 (火)

5月度インドネシア投資環境 インドネシア再確認

インドネシア再確認 見る人がみれば;
5/19 S&Pが長期ソブリン格付け引き上げBB+→BBB-、20年の念願。
5/20 来年の経済成長率6.1%、予算案審議で検討、2012年以来最高
5/4  リッポー、チカランで大規模の自立都市「Meikarta」開発へ、投資Rp278兆
5/13 一帯一路:メダンでの統合工業団地GIIPE開発MoU、投資74.3億ドル。
5/1 首都空港新第3ターミナルが完全稼働、他の航空会社の国際線も順次移動
予定。5/25 エアアジアが成田~バリに就航、6/18から毎日運航に。
5/29 サリム・グループがイナ・プルダナ銀株51%を取得、New BCA構想始動。
5/8  CIC出資のイ初民間信用情報機関ペフィンド・ビロ・クレジットが開業。
5/22 丸紅、製糖プラント債権めぐる最高裁裁判で敗訴、2.5億ドルの賠償命令。
5/24 フリーポート、4月のスト後に計2千人の労働者解雇、世界の注目が集まる

税務攻勢続く
5/9  税金不正申告に対する調査目標年内45兆ルピア:租税総局。
5/22 税務当局の金融情報自動アクセス、預金百万ルピア以上。LJK報告義務

政府イスラム対策後手後手:
5/25 カンプンムラユ・バスターミナルで自爆テロ、2度爆発があり、警官3人死亡
5/9  アホックに、求刑超え禁固2年判決、即日収監。副知事が知事代行に
5/8  イスラム強硬派HTIの解散勧告、FPI代表はポルノ容疑で海外へ
6/30 ネットでFPI批判者に対するFPIの報復行為頻発、大統領は声明のみ
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2017年6月12日 (月)

ワクワク インドネシアモスク

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目黒に初めてインドネシア・モスクが開堂したニュースがあった。それほど大きなものではなさそう(2階立て総面積350m2)であるが構想20年近くになるようで場所の問題や金の問題もあろうがそれに絡んだ日本側の許可の問題もあったのであろう。結局場所は目黒のインドネシア人学校の敷地でカラ副大統領やジョコウイの訪日を経て実現した。230人収容だそうで、観光訪日のイ人も含めると全く足りないのだろう。少し美しさが足りない感じである。

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日本にあるモスクで有名なものは代々木のジャーミーモスクでこちらは1938年(日本は国策でイスラム取り込みで支援)の初代が古くなって2000年に改築したものでこちらはトルコ大使館敷地にある。1階には「トルコ文化センター」で2階が礼拝堂、(総床面積は1700m2弱)プアサ明けのイフタールの食事も食べられるそうだから行ってみたらどうだろう。ジャーミーとはCiamiiと書く人が集まる礼拝所の意味である。
インドネシア人も又ワクワク・ジャパンにやってくるだろう。ワクとは倭の国和の国と言うれっきとしたアラビア語らしい。


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2017年6月 7日 (水)

ジャカルタ大阪王将の代わりに相の川

餃子の大阪王将がジャカルタにオープンしたニュースを聞いて日本に居る小生は初めて聞くブランドだが何時か行ってみようと思ってたのが、なんやかや遅れて先週になった。
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驚くなかれこのチェイン店は隣町の相の川にもあることが解り、自転車で出かけたのであった。
大阪らしく店舗はにぎにぎしく、きらびやかで目立つ作りですぐわかったが店内はサービスの在り方を考えた色々工夫が凝らしてゆったりできる。
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メニューも目移りするが国産豚、国産野菜使用と銘打った餃子を注文、お餅の感じで芳しくかつふわりと柔らか味もなかなかであった。いつもの通り、食べるのが先で写真を思いだしたときは平らげていた。そしてやはり流行る店は従業員がはきはきしている点なと満足して後にした。
ジャカルタ1号店はプラザスナヤンの地下1階らしいが、先々月行った時は地下迄下りなかったがどうだろうか

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2017年6月 6日 (火)

Gedung Syafrudin Prawiranegara

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ラパンガン・バンテンの奥の旧財務省の裏(Jl. Lap. Banteng Timur No.2-4)にあるのがこのビルで美しい白亜の旧ダーデルス宮殿の裏から突き出で景観を損なっている。ここには財務省の国富管理総局(Dirjen Kekayaan Negara 森友学園で言えば理財局か)であるがその建物のニックネームにつけられたのがSyafrudin Prawiranegaraで、なぜここに?と疑問に思うが彼も財務大臣であったのだ。それも3回もであるが46年、49年、50年の何れも数ケ月の短期であった。しかし彼はスカルノの反乱であったPRRIのリーダーであったこともあるが最後は国家英雄で一言では言い表せない。
伝記記録を示すと1911年バンテン生まれ、母はミナンカバウで1989年77歳で亡くなっている。ジャカルタ法科大卒で1948年のオランダ第二次侵攻の際のスカルノのジョクジャ国内亡命を助ける政府代理PDRIを務め危急を救ったが10年後の1958年は押されてスマトラに樹立したPRRIの首相を務めたほか、順不同で言えば商業大臣、農業大臣、BI総裁、副首相を目まぐるしく連ねている。

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この建物がこの名前であろうと言うのは財務省のサイトからである。この総局リストでダーデルス側にあるのは先に紹介したGd. Prijadi Praptosuhardjo I, (ここも住所は同じJl. Lapangan Banteng Timur No. 2-4)のみである。他にこの所にあるOJKの建物はGedung Soemitro Djojohadikusumoで住所はOJKのサイトでJalan Lapangan Banteng Timur 2-4とあるので同じコンプレックスである。その隣がGedung Wardanaであるが
此方は経済調整大臣府のサイトでその名前を確認しておるので真ん中の白亜はGedung Maramisであるがそれは財務所のサイトでHERITAGE BANGUNAN KEUANGANとして確認できる。ここに入居しているのはどこかとなると多分Perpustakaan Direktorat Jenderal Pengelolaan Utang (DJPU)謎の名前が見える。これでダーデルス側はラパンガンバンテン・グドゥングマラミス側と言えるし主要な建物の名前を確認したのはGoogleもWikiなども若干混乱があったからである。(googleではこの建物を含めニックネームの名前なく 唯一あるMaramisは場所が違うかな) 

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2017年6月 5日 (月)

イフタールはここで


元大統領のグスドゥルの奥様Sinta Nuriyah が計画していた断食明けのインター宗教集会が例の過激派イスラムFPIの横やりで延期させられていたがやっと3回目の場所が決まった。今までは場所が教会だったりしたので反対されていたものだ。今回はスマランの村の行政ホールとしたので納得したようだ。このニュースはよく読んでいると昨年のものであることが解った。この時は宗教間の和解を願う団体やスマランの名士も含め425名が集まったようでNUの若者団体Banserが警護などに当たったようだ。奥様は毎年イベントをやっておられるそうだが今年もやられたのであろう。
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ブカプアサの食事は集まって食べるのが慣例でこれをアラビア語でIftarイフタールと
言うらしい。長く居た小生だが、うかつにも今初めて知った言葉で、自分の頭の構造にあきれるとともにインドネシアではアラビア語を使いたがる風潮が出てきたのだろうとあきらめた。多分そのニュースはジャカルタのイフタール用レストラン紹介番組の番外編の読み物だったかもしれないが、こちらの方もなかなか高級感のあるレストランが紹介されていてちょっと足がすくむような気がした。インドネシアがどんどん進んでいる気がしたのであるが、いずれ誰か行くこともあろうとその番組の紹介レストランを記録しておこう。
Kaum Jakarta:Jl. Dr. Kusuma Atmaja No. 77-79
Plataran Menteng:Jl. H. O. S Cokroaminoto No. 42
Seribu Rasa: Jl. H. Agus Salim, No. 128
Tesate Menteng Jl. Sam Ratulangi, No. 39
Lara Djonggrang: Jl. Teuku Cik Ditiro, No. 4
番組はメンテン地区だけの紹介であったが、小生の知っていたのはロロジョグラン(写真)だけであった

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2017年6月 2日 (金)

やっていけない マリオボロ ホテル

昔ブログでホテル・デスインデスとかネーデルダンデンとかを挙げたことがある。その時ホテル・ガジャマダと言う名前に遭った話を書いたが、googleで検索してもそういう名前のホテルはどこにもなくMapにはかろうじて、Gajah Madaの頭文字のGAMAホテルと言う名前があったがホテルではなく茅屋である。
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しかしこのGajah Mada通りのAlaydrus通りとの角にはMalioの名前が見えた。この2軒ほど先にMalioboroがあったが今はその看板はなく代わりにMalio Hotelの看板が小さく出ている。Anies次期知事もジャカルタクリーンアップに息巻いていたが、既にここは閉鎖されたのであろう。Malioグループはあのアルタグラハの創師の息子がやっているようだが、3年前にはStadionも閉鎖させられている。これだけ豪華の設備がフイになったのであるから大損だろう。Malioと言えばジョクジャカルタであるが、ジョクジャカルタにも多くのホテルができたが、agodaなどで見ると5割~8割引きである。これではやっていけないだろう。


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2017年6月 1日 (木)

ワヒディン裏通り散策


財務省辺りをめぐっていた時、思いだして旧財務省 Gedung Maramisの裏にある道を通ってみた。新財務省のGedung Juandaの入り口の前の道Wahidin Raya通りがグヌング・サハリ通りに出る20メートル前と数メートル前で左に曲がる道が突き当りのブディウトモ通りに出る迄の道でここは手前がWahidin 2で数メートルの方がWahidin1通りである。
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記憶にあったのはこの数メートルの幅の間にオランダ時代の小さな住居用建物があったのであるが行った時には消えていた。
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代わりにこの道の最後の部分にTaman Wahidinと言う縦型の公園があった。Wahidinの像が二つ立って伝記を40字程度で紹介していた。刈り込んだ樹木からの木漏れ陽が心地よさそうだが、この道は最初から最後まで軍の施設がずらりとつながっているので行動には気をつけなければならない。
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どちらかと言えばGest House やMessであるが陸軍参謀本部財務局Mabes AD、第2師団Kodam II SriwijayaやKODAM IVデポネゴロ師団とそうそうたるものである。亡くなったと思ったオランダの建物は後で見るとWahidin 2の方にあったが、こちらは狭い道の両サイドに屋台風食堂が並ぶ道でその隙間から今にも倒れそうで見えた。小生の10数年前の写真でもこの通りである。この建物はDu Busの名前がついているがこの名前はデ・ビュス・デ・ヒシニース総督の名前であるが総督との関係は解らない。小生のブログでは既に建物の紹介は「こんなところにもオランダの建物」でそして「Wahidinとブディ・ウトモ」でSTOVIAのワヒディンを紹介している。

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