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2017年7月の投稿

2017年7月31日 (月)

ダルル・イスラムのリーダー

南スラウエシのダルル・イスラムの首謀者と似た名前でAbdul Kahar Muzakirはパンチャシラ憲章を署名した9人のリーダーで既に詳細紹介したがAbdul Kahar Muzakkarの方はつい忘れていたようだ。彼はボネ湾のLuwuの学業後Soloに出てきたがここでMuzakirにも会いそれで名前を変えたとも言われる。

ダルルイスラムはイスラムの家の意味であるが、西ジャワ・ガルット中心にイスラム国建国を目標に1942年にカリスマ過激派のカルトスウイルヨ(Sekarmadji Maridjan Kartosoewirjo)により組成されたヒズブラー(表向き日本軍への協力は見せたが)と呼ばれる団体であった。(ずっと後に再興されれ現代のJemaah Islamiyahを生んだと言われている。)
西ジャワはオランダ主導で傀儡政府パスンダン国が設立されていたがこれに反対していたムスリム住民はカルトスウイルヨの指導で1948年のレンヴイル協定に反対し1949年8月7日建国を宣言した。
こうした動きに呼応し南スラウエシでもAbdul Kahar Muzakkarに指導され、またカルトスウイルヨの誘いにのり1953ダルルイスラムに参加、アチェでも1953年イスラムの建国宣言が行われた。
その間、1950年4月Andi Azisのマカッサル反乱があり、その時出動したスハルトがハビビと邂逅している話は有名である。
又1957年ジャカルタでチキニ小学校でスカルノ暗殺未遂の爆破事件を起こしている。
その後指導される民主主義の動きやスマトラ・マナドの革命政府反乱に移って行き、戒厳令で中部ジャワ、南カリマンタンなど各地のダルルイスラムの団体をつぶしながらヤニ大佐の野牛部隊に翻弄され、1960年にムザカールが、1962年にはカルトスウイルヨが銃撃捕獲され、カルトスウイルヨは簡便裁判の後銃殺された。(埋葬地不明のままである)、ムザカールの死体は杳として発見されず生存がうわさされる中実際は最終1965年に射殺され、この時代のダルルイスラムの争乱は終結した。
大分混乱しているようだから此処までとしよう。


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2017年7月27日 (木)

今週のMy Favorite ゴスペルだったカンツリー

https://www.youtube.com/watch?v=WnBZN-FG4OM


スマホも一人でYoutubeで遊んでいるとスマホが寄り添ってくる。僕の好みを何時知ったのか、そういう曲をよく聞くことになりMy Favouriteになるが最初のきっかけは何だったのかは不明のままである。最近ではThe Old Rugged Crossでruggedと言う単語がピンとこず引っかかっていたこともある。今これ自身が語幹の形容詞でごつごつした頑丈なと言う意味で、荒野に立つ硬い粗削りの木の十字架を見て今世の名声を捨て共に居たいという歌のようだ。
1912年聖職者ブラッド・ペイズリーが作曲、その後数えきれない歌手に謳われてきている。(ほんの例でアンマレー、E.アーノルド、カーター、レイプライス、ジムリーブス、プレスリー、J.キャッシュ、G.ジョーンズ、R.リン。。。)筆休み話題でWhat a Friend we have in Jesusがあり、口ずさむと昔は誰でも知っている小学唱歌の“冬の星座”であった。これも古い(1865年ごろ)の讃美歌である。困難な中でも信頼するイエス様と謳うとスッキリする。I’ll fly away言葉通り、天の国の家まで飛びましょうという葬式などでよく歌われるが、ブルーグラス調で又1929年来多くの人が歌っている。上げるとすればAlison Kraus, Alan Jackson、Bince Gill、Jonny Cash。。
こうして上げていくと数限りなくあるが ファイルしている曲から出すとAmazing Graceであるが解説は不要としておこう。

追注:上で”冬の星座”と書いたがこれは誤りで”星の世界”であった。 8月8日のブログで再出させる。

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2017年7月26日 (水)

南マルクの領域

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北マルク州の南は通常南マルク州と謂われそうなものだが北マルク州は元のマルク州から独立したので抜けた後のマルクはマルクのままである。色々な呼び方があるので一つ一つ定義はむつかしいが、まず北マルクはスンダ・アーク・セラム海の北でその南が南マルクになるが、厄介なのは南や東の境界である。しかしこの海域はバンダ海と言われる島々が輪になるようになっており、南はチモールレスタリ国や東はパプア州の近くまでの島々のほとんどを含んでいるのである。そしてその中心(少し北)にバンダナイラがあるがgoogleでも拡大しないと見えてこない。この連環を西から島々を挙げるとブル島、セラム、アンボン、Kai諸島、Trangan(この近くにアルーがあるはずだがGoogleでも出て来ない)、ここから西に回り込んでJendena、Wetar となる。ここまでがマルクである。この先の西のAlorはヌサテンガラであり、ワカトビ・ブトンはスラウエシである。
香料諸島、モルッカ諸島 (Moluccas)、マルク諸島はこの北と南とマルクを合わすのであろうし、又独立抗争をやめたと思われない南マルク国(RMS)はこれらの中の南マルク、それもブル・アンボン・セラムを中心とするのであろう。実効支配がないから詮索しても仕方がない。

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2017年7月25日 (火)

Dhanapala 会館はスリランカ?

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財務省のコンプレックスの中にちょっと由緒ありそうなファーサードの建物があり、名前はGedung Dhanapalaという。Dhanpalaとは何ぞやとネットを引くと殆どがスリランカの外交官*の名前だけが出てくる。まあかろうじてこのサンスクリットの意味が'munificence‘寛大と言うことが解った。もっと深い意味があるようで寛容、不関与、自由というとすれば、少し問題もある。何故ならここでは色んな儀式なども行なわれるが外部には結婚式場として使用されている。自由で喜ぶのは男とすればの話である。財務省のサイトでこの写真のビルの1~2階部分がそうかと思ったがそれは間違いで、これは本省のジュアンダビルI及びIIで、Wahidin通りの角から撮った風景である。

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Genung Danapalaはこうした高層ビルでなくBalai(会館)としてグスドゥルの時代2001年に建てられたこちらの写真の方であった。ここで左に見えるのがジュアンダビルI&II、そして右手に見えるのは予算総局が入っているGedung Sutikno Slamatである。

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住所はSenen Raya No.1故 Wahidinからでなく専用の入り口・出口を持っているようだ。Senen側から撮った写真がこちらである。

*1938年生まれ、スリランカの外交官で、国連職員。2006年現在は軍縮問題担当の事務次長を務めている。2007年からは、パグウォッシュ会議の会長[1

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2017年7月24日 (月)

TosariからBromoへ

先日の「蘭領時代の日本人が撮影して作った絵葉書のコレクション」を読み進んでいた時スラバヤの次にTosariと言う地名にぶつかった。この地名はジャカルタ市内のど真ん中にもあり、不思議だったので2年前に「Tosariの言われとホテル群」でブログした。その時もこのTosariはあのブロモ山登山の入り口であることは解ったのであるが、

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今この本には1930年前後の佐竹氏作成絵葉書があり、その構図は以前知り合いのS女史からもらった写真と同じ構図であることに気が付いた。
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そしてS女史もそうだが佐竹氏も良くも2,329メートルのブロモ山を見下ろす写真が撮れたものだと感心したが写真に添えてあった地名Penandjaan(綴り間違いで正しくはPenanjakan)を調べるうちに、それはブロモを囲む外輪山の一つでこちらが2,770メートルで、こちらがブロモの朝日を見るViewpointであることが解った。Pointそのものは沢山あるので角度は少し違うことはあるが、当時は多分Pasuruanから上ってきてきこTosari(郡?)に来たようだが 小生がカメラも持たず登った時はProbolinggoから上ってブロモに一番近い拠点Cemoro Lawangに泊まり朝方ロバにのり急坂を下りて砂の海を渡りブロモに登っての旭日参拝であったが、それよりもここPenanjakanで拝んだ方がいいようだ。
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S女史はその後ブロモ山に回ったのであろう。現在はJeepがレンタ出来、どこなりと簡単にいけるようだ。


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2017年7月19日 (水)

Kembang Jepunと柳港花街


先日から北スマトラの成立の歴史的背景などを見ていたが 北ボルネオ独立運動から関連なくサンダカンに行き、さらに当時日本の悲惨な娘子軍が蘭領印度の隅々までばらまかれていた歴史に行きついた。そしてたまたま手にした蘭領時代の日本人が撮影して作った絵葉書のコレクションの本の中のKembang Jepunと言う地名に出会ったのである。
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その本では1911年スラバヤで夕方になると日本の女性達が数台の馬車に乗って繁華街を練りまわる風景に出会った旅行者の話が出ていたがここは今でもKembang Jepunと言われる通りである。明治中期から始まったからゆきさんは女衒による強制連行と出稼ぎの為に、まさに日本の男が作り出したもので当時最大の都市スラバヤやメダン(デレ)も大拠点であったようだ。Kembang Jepunは小生も昔スラバヤ一人旅行の時ここをベチャで乗り回し「SurabayaのGerbang」としてブログしたが、スラバヤの観光案内などでは華人の街として記述だけで“日本”の文字も“花魁”の話も出ていないのでほっとする。

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JepunはJapanであり、Kembangは花、特にカンボディアの白い花でバリ女性などが髪飾りにするあれである。しかし花とはやはり日本人がいう花魁や花町(ここは実際には近くのKetapangにあったとか)から日本人が名ずけたもので現地にはその意味はないものと思われる。ただ、欧米などではどうかはしらないが、中国には「柳港花街」という言葉があり、日本の花街とか花柳界は中国からのものであったことを知った。 この花街が閉鎖されたのはオランダ植民政府の1913年閉鎖令であった。以上今頃昔のこのような話をするのは、日本では小生ぐらいだと認識している。

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2017年7月18日 (火)

災害に思う

世界寄附金ランキングというものがある。たまたまいくつか覗いていたら日本は114位と最下位グループにあり、この数字は90位から104位、114位と下がっているようだ トップはアメリカと競い勝ちの、なんとミャンマーであり、インドネシアも第7位である。日本には一般寄附金や政治献金から教育文化福祉の寄付金や特定寄付金と範囲が広く所得控除もあれば税額控除迄あるのだがインドネシアにはザカートの所得控除オンリーのなかである。
ザカートは金で言えば88グラム以上の資産を保有しておればその2.5%の寄付の義務があるが、生活に必要な住宅や、自動車、事務機器などは除かれる。だからインドネシアが上位になるわけでなく多くの富豪がPhilanthoropyに励んでいるからだろう。 日本が低いのは百説あろうが自分に聞くのが一番だ。

話は災害寄附金から防災の話に飛ぶがtwitterについ、以下物申した。
災害報道に提案 :ヘリやドローンを駆使してくまなく状況を流す。 各社同じ場所に集中取材、罹災者のスマホが頼りではいけない
国土を守る国土省に提案 :海に堤防、山にも津波防壁が必要だ 山と海は凸凹ではないのか

環境省も防衛相も問題ありそうだ じっくり観察すれば対策のアイデアは沸くはずだ


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2017年7月17日 (月)

トコティガの200年

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6月30日のブログ「私のToko Tiga」で既にこのトコティガは見つけていると報告したが話の発端はJP誌の古色蒼然たる写真からであり、これの現在をさがしていたものである。何度か動きまわって突き詰めたジャラン・トコ・ティガの謂れはやはりそういう名前の店があったからで最近中国からわたって来た移民の成功物語が出版されていたことが助けになった。
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それは1819年迄さかのぼる。名前はOey Thai Loと言い現代から言えばもう6代~7代も前になるのだろうか。まだ存命のひしゃごに当たる78歳のRobert Wijayaはここには住んでいるわけではないが父の話から断片を聞くだけで、道の名前にもなった経緯とか現在につながる成功の血脈を訪ねて資料を集めたのであろうか 本はAnak Tukang Cukur Miskin dari Fukien Menjadi Taipan di Betawiというものである。
彼自身もPT Tigaraksa Satria tbkを創業した実業家であるが、その血脈は辛抱強さ、寛大さ、粘り強さに集約されている。インドネシアにやって来たLoはタバコ屋を始めたがある日村の子供が遊んでいた凧の紙に数字が書かれた印刷物に気が付いた。彼はそれをオランダ政府発行の債券であることを見抜き子供の家にあるすべてと銅銭に引き換えてこれがさらなる元手でタバコ屋を全ジャワに広げることが出来た。そしてこのパンチョランでも地所を買いタバコ屋をやっていたのが今の名残である。


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その地所もその後6つに分割されたりしたようだがその名残を残しているのが小生のアルバムにもあったLautan Mas(一番右端の家)である。
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目安になるのは前の運河の向こう側のホテルであるが、これとて、いずれなくなるのであろう。
小生にはもっと早く知りたかった話であるが、血脈は変えられない話でもある。
(追)その成功のLoさんは50で亡くなったが遺産を食い散らす子孫もいたような話も別にあった。。
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調査の途中で出てきたあのGrosirの横の建物もあった。


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2017年7月14日 (金)

快適か CipayungのTrivo大和ハウス

大和ハウスが日本の国交省バックのJOINとジャカルタ郊外で都市開発事業をやるニュースが今週初めにあった。大和ハウスが発表した内容はジャカルタ南東で「サウスイーストキャピタルプロジェクト(仮称)」の名前で集合住宅約5,000 戸と商業施設等12haの土の地に整備するため40億円の投資となるようで、現地パートナーはTRIVO社であった。
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これでは何の意味もないので調べて補足すると、場所は高原住宅地のチブブールの北のチパユン区ビナ・マルガ通りである。この名前はここにある大観光地の名前の陰であまり知られてないがこのチパユン区にはあのタマン・ミニと言う大公園があり、
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少し北東にルバン・ブアヤの聖パンチャシラ祈念公園、そしてインドネシア国軍の大本営とその運営になる
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チランカップゴルフ場があるのである。近くには芸術家村やWiladatikaレクレーション公園やチブブールの大公園などもある、緑深い地区である。
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大住宅地でもあるチブブールのおかげでLRTとか交通機関も計画され 既には鉄道ボゴール線や何よりも高速がCinere, Jagorawi, Lingkar Timurと3本も利用できることで最高の場所である。Cipayungの名前を付けCipayungのIconとなり有名にしてほしいものだ。と言うのもこのTrivo社は新進・中堅のデベロッパーで既にCililitan や Cikarangに住宅ブロックを開発しているからである。社長Mr Robert Yapariはまだ若く2004年にCililitanの古い?問題のある商業施設の活性化を担当し多くを学んだことから次がCikarangでターミナルから出発した商業ブロックを販売して、最近では Tangerang City(TanCity 10ha、Cikokol)と言う商業・住宅スーパーブロック(モール、ホテル...)を開発し成功している。
言い忘れたが近くにKISと言う学校があるので、こちらに住む人も多くなるだろう。仲良くしなければと思う。


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2017年7月13日 (木)

ニコライの鐘

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お茶の水のニコライ堂のそばを2~3度通ることがあり、門が開いてるままに入ってお祈りをして来た。ニコライ堂と言えば藤山一郎唄のニコライの鐘が思い出される。小関裕而作曲で昭和26年だったがなぜかよく歌った頃がある。恋に破れた乙女が祈ると言うのであまり時代背景はないが強いて言えば復興したモダーンな生活でも歌ったのであろうか。
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この教会は正式には東京復活大聖堂という。東京の復活でなくこの聖堂の再建の事だろうか、このロシア正教とも言われる教会はロシアからの司祭(後の大主教)が明治24年にコンドル他の設計で建築なったが関東大震災で崩壊したのでその後6年をかけて復興させたというからだ。 

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しかし貰った栞にハリトリス(イエスキリストのギリシャ読み)の復活と言う字が出てきたのでこの意味だと思い返した。古くはBC395年ローマ帝国が東西に分離した時からキリスト教も東西に分離が進み完全に分裂したのは1054年でこの東部のキリスト教を東方教会或いはギリシャ正教と言い各地に信仰が広がって行いった。このキリストから始まる同じ教えを総じて正教会といい、ロシア正教はロシアの正教会であって分派ではないそうだ。従いこの教会は日本正教会になる。 この豪壮な建築はビザンチン様式で1962年に日本の重要文化財になっており、ニコライ司祭も布教を続け1912年に75歳に亡くなり谷中の墓地に埋葬されている。栞にはあと、この聖堂にある聖人や聖書の中の場面が描かれた絵画(イコン)が飾ってありこれを天国の窓と呼んでイコンを通じて神と聖人に祈るということが書かれている。
未曾有の災害に見舞われた朝倉・日田地区にもようやく太陽が注ぐようになった。心からお見舞いをもうしあげたいと思います。

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2017年7月10日 (月)

6月インドネシア投資環境

世銀の外資規制批判にうなずく
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6/6  トラック自動車税50%から80%に引き上げ、ロジスティックコスト上昇懸念。
6/13 グーグル、昨年度の年次申告ベースで納税することで政府と合意と財務相。
6/21 フェイスブック、イ現法設立へ、BKPM承認。
6/21 ユニリーバ、BSDに本店移設、土地面積5万平米、建物3万平米に1,350人が就業。
6/30 モデルン・インターナショナル、セブンイレブン全店閉店に。
ISの拡大も懸念材料
6/6  IS支持の国内JAD戦闘員が比南部マラウィの過激派に合流、38人と国家警察。
6/9  ポルノ違反のイスラム防衛戦線代表を擁護するデモ、イスティクラル・モスクで。
6/20 東ジャカルタ自爆テロ以降、容疑者36人逮捕、過激派組織JADメンバー

記録として
6/8  チラチャップ、バリクパパン、ドゥマイ、バロンガン4製油所の近代化585兆
6/6  金融機関の口座報告義務:国内口座は来年4月、海外口座は同8月に開始と財務相。
6/16 BPJS、JICAの協力で社会保険労務士制度導入へ。
6/1  新しい祝日パンチャシラの日。パンチャシラ指導機関を設置、代表にイスラム
6/9  世界大学ランキング: UIは277位、東大は28位、京大は36位。

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2017年7月 4日 (火)

ジャカルタ仏教寺院の代表

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先日のJP誌が紹介したヒンドゥ寺院に続いて仏教関連では金徳院がクレンテンとして挙げられた他Kuil Hoseijiがあった。この名前は初めて聞く名前であったがそれもそのはず日本のNichiren Shoshuと出ていた。このJP誌は仏教代表として挙げたのではなく、宗教間の寛容を示しているのであろうか。場所はJl. Padang No. 27, RT 05/08, Pasar Manggisとあるがラスナサイドアパートの裏側の込み入った場所で昔一回くらいは通っているがこのKuilはその後の2005年建てられたものである。
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外観はGoogleで見ると寺院の雰囲気はないのでJPから内部の写真も借用しよう。(やっぱりやめた)

日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)は漢字も解らずネットで調べると日蓮宗ではなく今は仲たがいしているらしいが創価学会の出た所であったり、釈迦は日蓮の弟子だとかとんでもないことがヤフー知恵袋には書かれている。ここまでブログを書いてしまったので、仕方なくgoogleから借用写真で閉めておこう。
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この5月の仏陀生誕日ではジャカルタの報道ではgrogolのタマンアングレクの裏側辺りのVihara Ekayanaがお祝いの場所になっていたが、そこは勿論Viharaもあろうが仏教の教育や訓練を行うBuddhis Centerなのである。

創価学会と言えばクマヨランにジャカルタの本部が昔あってブログにもしたが、その後どうなったかはこれもこれと言うニュースも聞かない

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2017年7月 3日 (月)

オバマ エムテック デアスポラ

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オバマ元大統領がインドネシアを懐旧(?)旅行で訪れたらしい。小学校の夏休みなどによく行ったジョクジャでは住まわしてくれた家がミュージアム風になっており、そこを訪れたり、ジョコウイ大統領とはボゴール宮殿でのランチ会談を行い、その後住んでいたジャカルタ・メンテンに行きそしてEddy Kusnadiとも食事した話が分かった。エディ氏は7月1日に開かれる第4回ディアスポラ会議のスポンサーのエラン・マコタ・テクノロギー社(エムテック)オーナーであるが、学友だったのだろうか。オバマが1961年生まれ、エディが1963年生まれで差はあるがエディ氏は何しろ1978年に豪州サウスウエールズ大学でバチェラー、1980年にマスターを取っていることからありうる話だ。(ここでは同級位にとどめておこう)オバマ少年像はメンテンの小学校に立っているが2010年の建立時寄贈者名にはエディの名前はなくウノ副知事のお母さんやパロー氏の息子さんの名前はある。 住んでいた家はマトラマンのメンテン寄りであるがここに行った気配はない。エディ氏は1980年代にコンパック・コンピューターの総代理店 Elang Mahkota Technologi(EMTEK グループ tbk)を設立しており、成功後2005年頃SCTVの株を譲り受けマジョリティを取得、その後Indosiar TVも傘下に収め、今やインドネシアのビリオネアの一人である。Forbesでは2016円 18億ドルで18位である。
Poster4thcongressofindonesiandiaspo

所でデアスポラとはユダヤなどの離散民族をさすが、アフリカ諸民族も華人もデアスポラである。しかし今回のこの会議はインドネシアのデアスポラで海外に居るインドネシア同胞(8百万人)を指しテーマは“Bersinergi Bangun Negeri” or “Together We Build the Nation.”である。 
インドネシアは国民が前向きに取り組んでいる点、本当に感心する。日本には政府による棄民か日本脱出しか考えられてないような気がする。


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