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2017年7月19日 (水)

Kembang Jepunと柳港花街


先日から北スマトラの成立の歴史的背景などを見ていたが 北ボルネオ独立運動から関連なくサンダカンに行き、さらに当時日本の悲惨な娘子軍が蘭領印度の隅々までばらまかれていた歴史に行きついた。そしてたまたま手にした蘭領時代の日本人が撮影して作った絵葉書のコレクションの本の中のKembang Jepunと言う地名に出会ったのである。
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その本では1911年スラバヤで夕方になると日本の女性達が数台の馬車に乗って繁華街を練りまわる風景に出会った旅行者の話が出ていたがここは今でもKembang Jepunと言われる通りである。明治中期から始まったからゆきさんは女衒による強制連行と出稼ぎの為に、まさに日本の男が作り出したもので当時最大の都市スラバヤやメダン(デレ)も大拠点であったようだ。Kembang Jepunは小生も昔スラバヤ一人旅行の時ここをベチャで乗り回し「SurabayaのGerbang」としてブログしたが、スラバヤの観光案内などでは華人の街として記述だけで“日本”の文字も“花魁”の話も出ていないのでほっとする。

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JepunはJapanであり、Kembangは花、特にカンボディアの白い花でバリ女性などが髪飾りにするあれである。しかし花とはやはり日本人がいう花魁や花町(ここは実際には近くのKetapangにあったとか)から日本人が名ずけたもので現地にはその意味はないものと思われる。ただ、欧米などではどうかはしらないが、中国には「柳港花街」という言葉があり、日本の花街とか花柳界は中国からのものであったことを知った。 この花街が閉鎖されたのはオランダ植民政府の1913年閉鎖令であった。以上今頃昔のこのような話をするのは、日本では小生ぐらいだと認識している。

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