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2017年9月15日 (金)

二つのタナ・アバン

18世紀にオランダ人のVinckにより開発されたタナ・アバンは実際はどこだったのだろうか。はっきりと道路名でTanah Abangがついているところは
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Taman Prasasti(或いは中央区役所)に行く道がT-A No.1 で、」そこからAbdul Muis通りを下るとT-A No2, T-A No.3、No.4 、No.5とある。そこにVinckeが開発した道路Kebon Sirih通りがPasar Senen方面から入ってくるがその辺りだったのであろうか。そこからAbdul Muis通りがFachrudin通りに変わりまた街の中心から入ってくるWahid Hasyim通りとの地点がパッサールタナ・アバンとなり、やはりここが最初市場として江開発された場所には違いない。

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現在大きなショッピングモールがあり、ここはその昔は同じモールでAブロックとBブロックと言われた所であるがここは1970年代2度にわたる火災が起こった地点である。そこの南側に道を2階でつながったブロックCのモールがあり、
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その道をずっと運河の方に行くとブルックGがある。運河を渡ればKS Tubun通りとなる。 Tanah Abangの説明はこれで終わりでなくこの名前は郡の名前であり南はSenayan City、西はブタンブラン墓地、西はタムリン通り/Sudirman通りで北はなんと先ほど挙げたTanah Abang通り 1~ 5 は含まれず、そこはTanah Abang地区でなくPetojo地区(Petojo Selatan/Gambir郡)になるのであった。

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