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2017年9月14日 (木)

行ってみたいMau ke Villa Nova

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何人もいるノファと言う友達の名前に惹かれダウンロードしていた記事の要点を書いて見よう。その記事はブログBlog Adi Nugrahaの今年4月のタイトルはVilla Nova: Dari Tempat Peristirahatan hingga Kisah Perlawanan(別荘ノファ;休息の地がから反抗の話)というものである。
「我々ジャカルタっ子或いはデポック住民で通勤列車と利用する者にはタンジュンバラット(西岬)と言う地区は知っている。しかしタンジュンチムール(東岬)を知っているものは多くはいないことも事実だ。何故ならその名前は遠く昔から使われなくなったからである。オンライン・タクシーなど使う現代ではむしろGedong地区或いはCondetの方をより使う。そこは東ジャカルタのチョンデット地区にあり多くのブタウイ人が住んでいたジャカルタで最も古い場所である。
そこには、Villa Novaと言われた緑の草原に立つ美しい建物の話と植民地主義と戦った住民の話が残っている。
Villa Novaは昔、緑の草原の意味でGroeneveldと呼ばれた地区のアイコンであった。建物とその広大な地区の最初のオーナーの名前はPeter Van Der VeldeでそしてDaniel Cornelius Helvetius van Riemsdijkの経営の後.農業や牧畜を営む金持ちの全盛時代を経験した。
その頃オランダが法律を作り税金を払わぬ住民に課した財産没収で罰したlことである。4年の間に何百人の農民が逮捕され、最後はTabaという住民が保有する資産の差し押さえの時であった。民衆の同情と怒りに押されオランダに抗して立ち上がったEntong Gendutは、ある夜と何十人かの部下と共にお祭りをやっていたVillaにやって祭りをやめさせようとした。
それはあるじの怒りを呼び大喧嘩となった。あるじはGendutを逮捕することであったが大騒動の最後、Gendutは殺されてしまった。
この事件の後、この別荘ははかなくも1985年に火災にあい、その後復興を見ることはなくその崩壊は1972年以降も市条例により保護史跡としてそのまま保存されることが決まりこの地域は国民の資産となり歴史の資産となったのである。

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