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2017年9月19日 (火)

Villa Nova 最終回

何度も何度も訪問したり書いてみたりしたがその現場に立つのは出来なかった。しかし前回のインドネシアの方のブログで現代でも関心を持つ人がいることを知って安心し、その方のブログの写真は前回借用しアップした。
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それに例のJP誌の切り抜きから補充すべきものを補充して最終回としよう。ここの地名は昔Tandjong Ost東岬と言われたが少なくともチリウン河がうねってその西にTanjung BaratがあるPasar Rebo地区で南3㎞で多くの日本企業が70年代進出したCiracas地区である。Groenveld(Green Field)のGroenは最初の土地所有者van den Veldeの妻の名前からもとっているそうな。彼は1740年の華人虐殺事件で逃げてきたキャプテンなどから購入した。1756年に建築、59年にVeldeは亡くなりあとはA.Jubbels からバタヴィア・アーツ&科学ソサエティのJ.J. Craanに渡り総督の子息のW. Vincent.H. van Riemsjdjikへ、Vincentは貢物などで最大の金持ちになったがあまり手入れはしなかった。代わりに妻のカタリーナとの間に14人の子供、6人のサーバントから12人の子供をもうけた。1830年代その一人Danielは6,000頭の牛乳を育て有名なミルクを生産した。平和な時代が過ぎ日本軍時代は日本軍は倉庫として使用していたがスカルノが率いたBarisan Pelaporの本部となりアングラ活動に使われたが最終は1962年に警察のものとなった。というところで切り抜きは終わっていた。
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道理で先日のブログの写真ではいまだ警察が使用しており、隣の警察寮の洗濯物などが見えていたのだ。
場所はこの辺かな
注:ここではBarisan Pelaporの所でagainst Japaneseと書かれているが、この組織は日本軍が組織したジャワ奉公会の下部青年組織の推進隊である。むしろ活動したのは、独立戦の時代で反オランダ活動であり活躍した青年団体の一つとなった。


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