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2017年10月18日 (水)

アルーのドボはどこにあるか


何かの拍子にパソコンが indoplace.comのペイジを開いていた。建物の写真と文章があり、これは使えるとして試しにkejaksana Agungを引くとあまり関係ないpem.Kab. Keplauan Aruが出てきた。
20171018_2_2
あのイリアン開放時にアルー海戦でマルタディナタ提督が戦死したことで有名であるが、その島の都市はDoboと言うのがあり、日本人でも知る人は知る所である。島の位置は昔、「南マルクの領域」で示した通り パプア島に一番近い大きな島Tragan島の一つの岬みたいにくっついた豆粒の島であった。
今から100年前1910年前後ここには700人の日本人の男たちと300人の女性が生きた時代があったそうでそれは青木澄夫氏の「日本人が見た100年前のインドネシア」という日本人写真師の絵葉書コレクションブックに紹介がある。ここは当時真珠貝の採取地でアラビア人などが経営していたが腕のいい日本人が好まれ短期で高級賃金に惹かれ多くの和歌山県人などが働いていたそうである。海が荒れる季節はこの男たちは陸に上がりこのドボーで高級賃金を飲酒女色に浪費したそうである。シンガポールなどからもからゆきさんたちも集まって不夜城であった。 
Dobo1
このgoogleの地図では不思議とDoboの町は今でも賑やかそうで北の海岸線にはびっしり住宅と舟が見える。しかしずっとその島の南に目を移すと鬱蒼たるジャングルみたいである。
Dobo2
 ここはTragen島の北西の湾に引っ付くようにある南北9kmの豆粒島である。なんとなく、ここに行けたらどうなるだろうかなど想像していたらなぜかパソコンが又動かなくなった。

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