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2017年11月 8日 (水)

ジャカルタ アンバサダー・ホテル

嘗てのジャカルタ トップのアルヤドゥタ ホテルについては少し混乱したが今は落ち着いてプラパタンとスマンギ及びリッポー・カラワティにAryadutaの名前で雄姿を見せている。
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あのリッポーが買収したのであろうが何か古臭い名前を継続したのは由緒があるからだろう。混乱したというのは一時Hyattやアストンの名前も使っていたような記憶があるからだ。AryadutaとはAmbassadorの意味なので由緒があるのであるが、なんとこのホテルがオープンした1974年の最初の名前がまさに由緒あるアンバサダーであったからでもある。時はスハルトが着々基盤を強化している時代でジャカルタを起爆に経済を軌道に乗せるため、時のありサディキンジャカルタ市長は色々と整備しその一つがホテルやコンベンションホールであった。ここに独立宣言時代からの盟友 大ジャーナリスト B.M.Diah(ムルデカ誌やIndonesian Observer誌)夫妻に事業をおこさせたのである。
現在はこのPrapatan通りは変わってJl. Prajurit KKO Usman & Harun 44-48となったことは先日も何かで触れた通りであるが、あの農夫の英雄の出征の像(Tugu Hero)がある所である。
アンバサダーの名前は1976年迄でその後は Hyatt Aryaduta そして 1990年にAryaduta Jakartaと変更した。 それは1986年に115増の325室に拡張し5-Starのレーティングを得た後である。
Hyattとは現在も継続しているような表現も見当たるが、これは見えなくなったのはGrand Hyattが出来た頃だったであろうか。しかし90年代もここが気に入ってここを使った時代があるがそれはここに当時、どこにも代えられない焼肉レストラン島があったからであり、ここのゴールデンルームでパーティも開かれるし、バーも良かった。 


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混乱の一つアストンと言うのはここではなくAryaduta Semanggiの事である。ここは最初アパートとして建設されていたのをホテルに変えたが3LDKが普通のホテル料金で泊まれたので、特別料金先に指定してもらって、友人にも紹介したものだ。イタリア料理店も名門だったし、確か日本のカラオケもあったが、その他の多くのショップ・レストランとも少し時代が早すぎたようで、足も遠のいていたことを思いだす。

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