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2018年5月の投稿

2018年5月30日 (水)

Ancol Water Front City はOcean City

アンチョールはPT.Pembangunan Jaya Ancolが経営しているが最近活況がなくなっているような気がする。 一昨日のブログでの中国寺院Da Bo Gongに行った際、アンチョールのこの辺りは広大な土地が余っており、このアンチョールの一番東の端の出口はどうなっているのか探って見た。

クマヨランのゴルフ場とつながる高速の出口あたりからのPasir Putih I通りが東のアンチョール公園の出入り口であるが、出てすぐ左手が昨日の中国寺院に行くPasir Putih Raya通りである。


この道より簡単なのは運河添いの外側のマルタディナタ通りの方が解りやすいが同様に東に向かうのである。中国寺院迄は1㎞あったが更に東に800mほど行けばこの運河を左に渉る橋があり
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それを渡り海岸に向かう道がアンチョールの敷地の最東端である。

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塀が囲みアンチョール公園への出入口もあったが閉まっており誰もいない。
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公園の中は既にBeach City とか大きな設備もあり、

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又広大な駐車場でもグラウンドでも大集会にでも使えそうな整備された広場がある。所でPembangunan Jaya Ancol の最新のニュースでは豪州のCrown Groupと、ここアンチョールでWater Front City を開発する話があった。4.7 haの土地に3,000戸規模の住宅や高層タワー・商業施設或いはヨットハーバーを付した港湾リゾートでインドネシアを捨てたディアスポラに戻ってくることを願っているそうだ。

小生はてっきりこの空き地だろうと踏んだのであるが、報道ではBarat( 西)という。西にはもう開いている土地はないはずだが、現在デザインコンテスト中のようで何とか探した設計画からも場所は特定できなかった。

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今日も画像は全面googoleに依存した。この端まで行くにはGoogle様さまである。

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2018年5月29日 (火)

BSDの広さと将来

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日本のJOINが参加する三菱商事等4社との複合都市開発のBSDであるが、ここはもう35年も現地のシナールマスが開発を行ってきた広大な地域である。6,000haと言うことだがhaもkmもイメージがわかない。先に言ってしまえば、60km2故JKT(740m2)の1/10弱、或いは東京(622km2)で最大の大田区(60km)と同じ、そして東京ドームの1,300個分である。6000(ha)=60(km2)=縦10㎞x横6kmである。更に言えばパリ(105km2)の半分より広いのだ。
よくそんな広さの土地があったものだと又驚き更にいじりたくなるが、それは止めておこう。
Joinがやるのはその6,000haの中の19haだから0.3%或いは300分の1ということになる。

ここはジャカルタの隣の県の南タンゲラン市でジャカルタ中心部から南西約25kmになるが、JOINが本来貢献できるとせば、首都への通勤を含めた都市交通網であろうがどうであろうか。


ここへの自動車のアクセスは南はジャカルタ・ポンドクインダーから、及び北はジャカルタ・プリインダーからの二つの高速があり、更に二つの計画も動いている。その二つはスカルノ・ハッタ飛行場との間とティガ・ラクサ(或いはバララジャ30km)との間の高速である。同じ広さの大田区内には3高速道路であるがインターは30ケ所はあろう。BSDは新線が未だであるのでこれが出来ても全体でインターは10程度であろう。 

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また北の高速道路(タンゲラン・メラック行)はBSD内でなく少し外れたアラームスートラである。(Balaraja高速はイオンの所からタンゲランの西のBalarajaに向かうもので既にシナールマスやアストラが建築中)

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鉄道は Jakarta Tanah Abangからやってきて更に西のRangkasbitungの方に行く線の駅が一つだけある。そこはBSDの南端でそこから市内各地には距離はありあまり意味もない感じである。大田区には4鉄道線が走っており、面倒だから駅まで数えてないし、おっと更に地下鉄までは忘れていた。

BSDは副都心を超え又ニュータウンどころでもない凄いものだとこの間認識は新たにしたものの、より関心が高い東にはMeikartaも進んでいる。さてどうなるか。

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2018年5月28日 (月)

Ancolのクレンテン DaBoGong

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アンチョールにある中国寺院に行ったのは何時だったか、ブログでは2008年であるが、実際はもっと昔1990年の頃で、その後2度程再訪しようと思ったが、発見できず、それは進展した開発の所為にしていたが先般例のサッカージャカルタチームのグラウンドとも関連するインターナショナルスタデイアムの敷地をgoogleで探しているとき、この中国寺院はアンチョール公園内の、これもブログにしたオランダ人戦争墓地http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/ereveldancol-78.htmlの近くにあることを知り、なぜ行けなかったのかと不思議に思ったが、今またGoogleで確認するとやっぱりこれはアンチョールの外側で難しい位置にあることが解った。簡単に言えばクマヨラン側のアンチョール公園の入り口の方から住宅地のチェックを受けPasir Putih Rayaを奥に進み


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最後右左に分かれる直前で左のPasir Putih IXに曲がり更にまた左に曲がった所にある。大分端ながら住宅地、それも高級住宅地の中にあった。昔行った時は荒涼たる浜辺で左手に大きなジャングルもあったが、今はスッキリしている。

この寺院は1650年以来何度か建て直されながらここにある。現在のは18世紀の遺蹟がいくらか残っているのかも知れない。Fu de Zheng Shenを祀っている道教らしい。或いはDa Bo Gongという土地の豊饒の神かもしれない。建設はSampo Soei Soe(Sam Po Sailer)ともいうが、伝えられる謂れはあの鄭和(Cheng Ho)が1400年代に来航しこの地に上陸したが、その時村人は大歓迎で宴を催し美人の踊りにも興じさせた。鄭和の親しい友人で料理長のNg WuはこのSiti Watiという美人の踊り子にほれ込み言葉も難しい中求婚、7回の鄭和の出航の幾たびか後マレー語も習得したNg Wuはここに戻ってきて二人は結婚、幸せな生活を送ったそうだ。ただ彼女は豚は口に出来ず彼はあのプテ(Jengkol)の臭さには手が出なかったそうだ。その後二人は子供も恵まれないまま世を去りここに葬られたがある時そこから煙が昇り、香りもたち、村人は祭壇を備え、お寺ともなったとか。 


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この神は航海の安全を守る水神でもあるようでシンガポールにもDa Bo Gong (大伯公)のお寺はあり、マレーシアではTuā-peh-kongとも言われSibuの7層の仏塔は有名である。それぞれに纏わる話は違うようだが、アンチョールのDaboGongにもこの7層のタワーが見える。


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2018年5月26日 (土)

Hang JebatのPPSDM

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マイブログでおしゃれなHang Tuahというのを書いたが隣の地区がHang Lekirでその南がHang Jabatである。この辺りからミスティックに行く通りに少し目立つ建物がある。そこを紹介する前にここに行くにはプルタミナ病院の手前を右折れしていくことも出来る。
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こちらにも右折れして直ぐ目立つ建物がある。 目立つ建物の正面の壁には大きくBadan Pemgembangan dan Pemberdayaan SDM Kementrian Kesehatanと書かれている。とにかく保健省の職員人材教育機関である。しかしよく見るとここにはこの建物の裏側やプルタミナ敷地内にPoliteknik Kesehatan 医療専門大学Jakarta IIという建物があった。
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このBPP SDMの横にもこじんまりした Wisma PKBIなる建物もあるがどうも関連迎賓館か宿泊施設であろう。そして最初に戻った建物はこれらに背中合わせのキャンパスであったのだ。入口にはBadan Pemgembangan dan Pemberdayaan SDM Kementrian Kesehatan と同じ名前が彫られていたが地図にはKampas Hang Jabat BBPKとかBalai Besar Pelatihan Kesehatan Jakartaとかいう文字が現れる。いずれも保健省関連の教育機関各施設であるので我々外国人には関係ある所ではなかった。

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2018年5月24日 (木)

スカブミのオーガスタ

パングランゴ(Pangrango)山のふもとに大昔ゴルフ場があることを思いだした。地図でAugustaの文字を見つけたのだ。
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インドネシアの地図でこの文字列を見てもオーガスタとはすぐには読めないが、それはAugusta Sukabumi Hotelであった。ボゴールからLidoを越えてパングランゴ山(正しい発音はジャワ語風のはず)の麓にあるようだ。
ここを色々調べてみたが隣にラフレシアというレストラン兼ホテルもあるのでこれも記憶にあり、ゴルフができるのは

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ここではなく、更に一番奥にあるSalabintana Hotelの方だと考えなおしそちらに向かった。こちらはその当時でも既にゴルフは止めており家族用クレーションの場所として利用されていた。

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最初はオーガスタホテルの名前を見てこれが整備して再デビューしたのかと思った訳だが此方でもサイトを見ると確かにそれらしいフイールドはあるが、残念ながらゴルフを営業していることは確認はできなかった。 本物のオーガスタは魔の13番ホールなど美しく、写真をアップしようかと思ったが神秘的で少しひくものがあった。代わりにこのホテルを宣伝しながら写真を借用した。 スカブミ途中のAugusta Hotel(Lidoから30㎞)ここからSalabintara Hotelまでは更に15kmほどもあるようだ。Conference Resortという名前の別棟(?)もあるようだがSalabintana Hotelは1900年頃オランダ人が建設した歴史を有しているようだ。

写真はgoogle やWEBSITEから。

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2018年5月23日 (水)

麻布のヒュースケン

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先日は東京幕末観光をやってみた。ジャカルタと関係付けるとすればオランダとなるが、幕末ハリスの通訳官として活躍したのはオランダ人のヒュースケンであるが彼は最後理不尽な薩摩人に襲われ非常なる最後を遂げたものである。1853年黒船来航、54年和親条約締結の後、領事館開設と通商条約締結の為に日本にやって来たハリスはヒュースケンを連れて55年本国を出発、途中多国との要件を済ませ1856/8/21に日本に到着、領事館開設・通商条約までには2年から3年という長い期間無為な生活を強いられた。その間にも徐々には日本生活に慣れ馬上散歩なども楽しんでいた。初めての嫌なものには忌諱する気持ちも沸くが、日本人の生活にやさしさと敬意をもって付き合ってきたのではないか。友好と礼節と歓迎の日本人に愛しさをもって綴っている。台風や火災など災害にも負けず明るく復興に働いている日本人に感心する風景は東日本地震を思い出す。 西洋の文化を吸収する姿に、ひよっとして日本の良さを破壊することになるのではとよぎったこともあった。彼の滞在日記には歴史的価値も高いものであった。

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少し遅れの英国やプロシアの活動にも協力を惜しまなかった1861年1月15日は、赤羽橋外国接遇所で会議会食のあと馬で麻布の公使館に帰る途中、
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そこからすぐの中の橋で数名の攘夷テロに襲われ、警護の幕府兵は蹴散らされたが、馬丁などに雨戸に寝せられ届けられたが傷口は深く大変な苦痛のなか死に付いた。享年29歳であった。このころ外交関係で各国からの外国人も多く一人一人が日本日記を残しているがこの死に立ち会った一人の描写には慟哭を呼ぶ。それがこの日彼が埋葬された麻布の光林寺に向かうきっかけになったものだ。広尾メトロから歩き出したがすぐタクシーにし500円台で行けたと思う。地図の表示や標識もないが行ってみると明治通りに面して大きな駐車場があり奥に山門が見えすぐわかった。
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大きな禅寺で右奥に墓場が広がる鬱蒼たる丘陵地でその最右端にお墓はあった。
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どなたかもお詣りしたのであろう 花もまだ新しい。そこから接遇所があった現在の飯倉公園にも立ち寄ったが、うずもれた幕末の一つの訪問であった。詳しくは同好の士のブログをどうぞ。http://spottedseal.at.webry.info/201009/article_3.html
お世話になったGoogleからの本堂はサクラの季節、この写真の右端を奥に奥に入っていく。四つ目の右折れ通路の際右端にある。カラスに見られながらやっと探り当てた。


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2018年5月22日 (火)

ボゴールのチャイナタウン

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ボゴールで一番古いKlentengはHok Tek Bio 或いは別の名前はvihara Dhanagunである。
古いと言っても1867年だそうだからいわば維新の頃である。ここはボゴール植物園の正門(Utama)の前でJuanda通りとOtto Iskandar通りの接点となる所に南からJalan Surya Kencana通りがT字でぶつかるその右すそにそのお寺はあるようだ。
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このTの縦棒の道の入り口に中国の大門があり地図ではLawang Seketengと名前がついている。
このJalan Surya Kencana通りが昔Handelstraatと呼ばれていたそうでボゴールで一番古く商業の中心であろうか。 このHok Tek Bioの横が大きな現地のデパートRamayanaである。時々、或いは建物も右端からみると別の現地のデパートのJogyaの名前も出てくる不思議があるが小生推定ではJogyaがRamayanaに買収されたのではないかと思われる。 それはこのLawangの存在も消えることがありGoogleでは新旧二つの写真が混合されているのではないだろうか。つまりこの大門もそれほど古いものではないことになる。 
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raihanlubisさんのブログによるとこのSurya Kencana通りはダーンデルス縦断道路の一部をなしていたそうで、この辺りがPasar Bogor、華人のプラナカン上層は市の南部に住んでいたそうである。オランダ人は北になるのかな。
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この道に来るには高速を降りて右に取り、すぐのTugu Kejangで、そこから植物園を沿って左に折れればあの門に出てくる。Surya Kencana通りはすっと南に3㎞も続く南向きの一方通行で途中Siriwangiと名前を変えて最後にLippoの大きなPlaza Ekalokasariのある国道に出てくる。地図を見てると行きたいところが沢山出てくる。

今日は全て、Google様のマップからの写真を借用した。

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2018年5月21日 (月)

再々アンペラの頃

パレンバンは小生が行きたくて調べてもみた旅行先の一つであったが、昨日の読んだ本にはコラムニスト高山正之氏の応援寄稿「パレンバン あの時代の景色を想う」というのがあり、このパレンバンの大河ムシ河にかかるアンペラ橋に関わる現地人の理解の仕方に驚くことがあった。
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アンペラ橋はなるほど日本の賠償により1966年に完成したものであったが、氏が訪問した時の通訳現地人の説明はまず 「アンペラAmperaはAmanat Penderitaan Rakyatの頭文字からでこの意味は「虐げられた人々への償い」であり、更なる問い詰めに通訳氏は「日本軍が戦争中にインドネシア国民を虐待し資源を収奪したことを詫びて償いにこの橋を作った」と説明し、氏の憤懣を買ったのであったが、小生もその様な意味で理解していたことがなかったので、現地人にはこのような理解のものもいるのかとゾットするものがあった。
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小生のブログにはこのアンペラについては3回ほども登場したが、ジャカルタでのアンペラはこの名前のレストランがあり、そのレストランの案内掲示に当時の状況を説明しており、それによると終身大統領に上り詰めたスカルノの末期に国民は困窮の中、吹き荒れる共産党の活動で反スカルノの学生たちが立ち上がり、その活動を応援するために飯屋を開いたような事があった。その飯屋の名前となった背景は、スカルノがそのように独裁化に登っていく1960年頃、頻発し長期化した地方反乱やイリヤンをめぐるオランダとの対決、長い戒厳令下、組閣する勇気有能な政治家もいなくなり已む無くスカルノ自身が組閣した内閣にスカルノはアンペラ「人民受難の声」を聴くのだとの構想が生まれていたが、
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その後9・30事件後のスカルノ最後の1966年などにもアンペラ内閣と言われた歴史があり、小生のブログでは
アンペラの意味  http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-8dc6.と本当のアンペラの意味で2回書いている。
スカルノを陥れるのも不本意ながら機会があれば現地人に問い直してみよう。


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2018年5月19日 (土)

パレンバンの落下傘

もう過ぎて3ケ月もなるが2月14日はバレンタイン・デーであるがこれはパレンバン・デーとして祈念しているご家族の話を読んで、語り継ぐべき話だと感心した。パレンバン油田を攻略するために緒戦に日本軍が行った落下傘部隊の隊長の著作である。著者は降下部隊240人の中の1小隊(60人)の隊長であった奥本實大尉(降下時21歳中尉)とご子息の奥本康大氏(S25年生、元出光)で心打たれたいくつかの点を挙げると当時でも落下傘部隊は敵のど真ん中に降りていく作戦で高射砲の中に飛んで火に入る夏の虫で成功率は非常に低いものであった。
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歌や絵では「藍より蒼い大空の真白き薔薇の 花模様」とはやされたが将に空の神兵であった。この絵は有名な宮本画伯の空の神兵である。 少尉はすべてに幸運の人で先立つ大陸での戦いで鉄兜を銃弾で打ち抜かれたが命拾いしたことから始まり、この落下傘攻略の第一陣の第1連隊は挺進基地に行くまでに輸送船沈没する事故でそれで中尉の第2連隊が飛ぶチャンスが回ってきたこと、挺進基地はプノンペン近郊でまだシンガポールは未だ落ちず戦火の中、そこからパレンバンまで550㎞で当時の飛行機では1回の往復の1,200kmしか航続できない中、加藤隼連隊長が命を懸けて1時間も上空擁護に当たってくれた事、接近は地上300mで飛び出し50秒弱で着地、銃火器は別の落下傘で落とすのですぐには見つけられないまま身につけた拳銃と手榴弾のみで、何とかそろった5人で偶々遭遇した敵トラック4台、兵150人を爆破成功、敵は右往左往で目指す空港も別動隊の油田施設も敵は投げ出し状態だったようだ。最後に降下した小隊は占領済み飛行場滑走路に悠々降下したような状況。奥本小隊長には特にその活躍で後に天皇拝謁迄賜っている。書ききれない幸運が貫いていた。そして氏は90歳の天寿を全うしているが、隊長として部下に靖国で会おうと別れの杯を交わしたその時の心情を90歳まで持ち続けた男はかくならんと気持ちを近づけてみた。

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2018年5月18日 (金)

見違えるジャカルタ交通事情

日本に戻っている間にジャカルタが驚く程変わっているようだ。カラワン方面への第2チカンペック等、頬をつねらねばならないが、今日は建設会社の一つAdih Karyaのニュースだけをちょっとだけ集めてみよう。

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先ずは現在彼らが鉄道を敷いているLRTであるがジャカルタとボゴール デポック ブカシをT字形でつなぐJABODEBEK線であるがこの中でジャカルタ・チャワンが中心となるがそのCawanとCibubur が完成率59%、Cawan-Bekasiが33%、Cawan-Dukuh Atas(ジャカルタ)が21%で2019年には開通の見込みらしい。このLRT線に沿った駅舎を中心に所謂TOD(+Hotel)を開発していくがこのための子会社を設立した。この構想はとりあえず12ケ所のTODがデザインされ、総投資55兆ルピアで11年計画があるが更にこの内4ケ所(Sentul,Ciracas、Bekasi Timur、Jati Cempaka)を今年着工するそうだ。
この他首都圏では環状高架線を検討している。(Kereta Layang Loop Line)これにはWijaya KaryaとJaya Konst.の国営3社のコンソーシアムが考えられ10兆ルピアで3年計画である。運営はKAIが担当する。
今日のNNAニュースによるとラトゥ・プラブという別の会社が首都圏でLRTを計画している。中韓7社が関心を持っているそうだが、第1期は飛行場線と コタ・スデイルマン線であるのでここは重複することになる。
いずれにしても運輸大臣はこれらLRTやMRT、他にKommuterや BRT(Bus Rapid Transit)で2023年にはジャカルタは渋滞から解放されると宣言したそうだ。

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2018年5月16日 (水)

Gedung Swarhaは保存建物か

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カリブサールのPT. Skahaで名前が似ているとして挙げたバンドンのGedung SwarhaはなんとTokyoと関係していることが解った。この建物は一寸惹かれる点もあり、ずいぶん前にバンドンに行った時バンドン駅からホテル・サボイに向かう際に見掛け写真を撮っていたので記憶にあったものだ。

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そこはサボイホテルからアジアアフリカ通りを西に向かって数分強歩くと大きなモスクの二つの塔のあるアルンアルンに出るがその北詰めにある。その昔、ホテルであった時代アジアアフリカ会議の指定ホテルとして使われたが、今や1回だけが商店になっている程度のようだ。Tokyoと言うのは日本占領前のオランダ時代なのか、Mooibandoeng.comが掲げた古写真で正面の大きな店である。
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説明ではこの写真は1923年のウイルへルミナ女王の25年周記念祭の時で、衣料品や食料品を売っている店であるが1914年に建てられたが1940年代、多分バンドン火の海事件でなくなったのだろうとしている。その後独立後に多分アラブ出身の人がその名前を付けて建てたとしている。この広場の西の部分はアラブ人の居住が多かったそうだ。設計は有名なオランダ人のWolff Schoemakerという話もあるがMooebnungさんは否定的で小生もその名前は発見できてない。

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2018年5月15日 (火)

ヘダ物語の清涼感

昨日読んだ幕末期の外国人の見た日本という本を又取り出した。150年も前の時代だが、日本人は変わったのだろうか。当時日本の開国を求め忍耐つよい外交を進めたアメリカやロシア、イギリスの人たち全ての印象記では日本は「喜望峰以東で一番偉大な民族。。」、皆日本人の礼節、清潔、親切、陽気、明晰、友好、寛容、文化度、天性、知識欲と共有、魅力的女性、美しき自然、桃源郷に驚いている。当時の欧米人の純粋さにも驚くが、印象に残ったのはプチャーチンである。1853年ペリーに遅れて来航、長崎で待たされ余りの長期に一旦情報収集や修理で出たものの未だ交渉は続き函館、大阪、下田など引き廻され、挙句に54年12月安政の地震に見舞われ船は破損、修理廻航中に座礁、放棄せざるを得ず、已む無く日本人の協力を得て戸田村で新しくスクーナー帆船を築造、ヘダ号と名付け一旦はそれで60人が乗り帰国、翌年又やってきてヘダ号を日本に返し、更に外交を続け1855年4月やっと和親条約にこぎつけ更に56年追加条約、58年修好条約迄完成させた。座礁した船の砲56門も幕府に寄付、最後ロシアでは元帥に叙せられた。 遺言の戸田村への資産の寄付の為娘さんが来イしてもいる。明治政府はこの友好を謝し勲一等で遇している。今でも戸田村では記念行事が続いているそうだ。ヘダとは沼津市戸田のことである。ロシアもアメリカも本当は友好な国民であることを認識させられる。その後軍国に走った日本は他民族の友好を信じなくなった。
この頃彼らの軍事力では歯もたたなかった日本が今ある、一つは幕末時代の日本の一人一人のおかげなのだ。 民度が最大の国防の力である。

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2018年5月14日 (月)

見つけたイスラム青年運動根城 GPI=FSI=FPI

SonyのExperiaで取った写真で分類しそこなって取った場所が不明なものがあった。写真を拡大し場所を表す文字を探したり周りの風景で探したりした結果探し当てたのがMenten Rayaのここを取った写真であった。
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手前に大きくMasjid Al Fataa YAKPIとあったがこれでは不明、奥にGPIIとかあったがこれも不明、結局フラワボードに書かれた言葉「Pelantikan GPII Se-Jakrta Raya」とその日付でその関連ニュースをあぶり出し偶々ニュースに場所が書かれていたので次はGoogle Mapで場所を確認し、
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最後はマイアルバムで同じ場所を2007年に撮っていた写真を発見することが出来たのである。2007年では何でもない所だったのであるが、この問題の写真を撮った2017年4月10日は丁度ジャカルタ都知事選挙の前で現職華人のアホック知事の失言からイスラム冒瀆をあおっていた時代であるが、ここで選挙キャンペーンの行事を行ったのであろう、それがフラワーボードの言葉であった。この隣はイスラム過激派で有名なFPIの施設である。GPIIはクリスチャンの組織に似たものがあるがこれはGerakan Pemuda Islamでイスラム青年運動である。どうも独立戦争時代からのものであるが、あの知事候補組は宗教を使って現職を追い込んでいったきらいがあった。
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Googleで隣の写真の横断幕を判読すると これはFPIでなく更に過激と思われるFSIであった。この横断幕をちゃんと読む気もないしアラビア語は解らないので解る単語を書き出すと Kami siap matiいつでも死んでやる tetes keingat dan darah mujahid sebagai benten akhirat 不滅の砦となる我が血と汗 tembak dan tenggelamkan 撃ちて溺死へ mengangkut orang cina 支那人を送れ となる。GPIが正当なるものであればそれを隠れ蓑にしたのか。。GPIは独立戦争のときは意味はあったであろうが。。
このブログは不明な写真の正体が分かった喜びが首題である。 分類失敗と言ったがこのExperiaでは問題があり何とかパソコンに移動できるSDファイルで撮っているのであるが、それでもカメラが勝手にSDとCに振り分け、そしてどちらも写真の一枚1枚が勝手に個別フォルダに入れられこれを1枚1枚開けないとなんであったか解らないので1枚1枚名前を付けて保存しなおしその後やっと地区別分類に正式保存できる。問題の写真は日時表示はあるが時間順でもなく出てくるのでそれでも直前を探すとディポネゴロの近くの写真で離れすぎであった。
それが放置の理由であった。

昨日はスラバヤの悲劇、お祈りをささげる。
人はなぜ生きるか :生きて学ぶ 学び生きる 生きることを学ぶ 考えさせられる毎日だ

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2018年5月12日 (土)

BMWはPersijaの為JISに

ウノさんがジャカルタ国際スタディウム(JIS)の建設には4.7兆(東京のそれの1/10見当)掛かるが州予算からだすつもりはなく民間でやれるはずでそれはPPP(public-private partnership)のコンセプトだと議会で説明したそうだ。
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地方政府の方で計画は民間の考えを入れて作り、土地を提供しているので期間を定めたBOT的協業体制だろうか。アイデアには現代的テーマを入れて結婚、インスタグラム、スポーツ、ツーリズム、健康、Culinary (cuisine )、モスクがあり地域住民に益するものであらねばならないとした。

ここはアルタガディンの方から北上して来た高速がWaduk Sunterを過ぎてアンチョール前の運河と並行する所である。 高速から見るとゴミ捨て見たいに荒れている。アンチョール側も鬱蒼たる森地で近くに4Dの施設やTNIのHidro-Oceanografi施設があったと記憶する。
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この話題にはBMWスタディアムの名前も出ていたので何だろうかと思ったがそれは現在Taman Bersih Manusiawi Wibawa (BMW)と名前が付いているこの広場の事であった。アニス市長は別途、今年の大統領杯インドネシア・スパックボーラにジャカルタチームが優勝したらスタディアムを作ってあげようと約束していたらしいが、いろいろなアイデアを全てうまく合わせることができるのだろうか。 
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ジャカルタのサッカーチームPersijaは昔(10年も前か)、町のど真ん中メンテンにあったがこれを市民公園(Taman Menten)にしたので追い出されていたがその時建てたオバマ像も追い出された。その後このチームはまずLebak Bulusに移りその後 Bung Karnoになっていたようだが、ジャカルタを代表する市民の誇りとしてクマヨランのトラ(Macan Kemayoran)と呼ばれていたようだ。 (以上報道3つで推定構成した)
最初は北側のアンチョールがあの緑地と勘違いしていた。 その上地図を見るとその北1km程度に既にInternational Stadium(Mata Elang)と言うものがあるのは何であろうか。

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2018年5月11日 (金)

企業買収劇に自虐感想


武田薬品が記録的巨額でアイリッシュ企業を買収したニュースには驚いた。7兆円弱というからアイルランド国の国民総生産の25%にもあたる。そのように大きな企業があったことの無知を恥じるが(以下も無知の驚きシリーズである)、その企業ですら世界製薬ランクで21位であり、武田は19位という。更にこの買収金額を比喩するとアイルランドの年間輸入額と同額、或いは日本がアイルランドから輸入する金額の100年分である。これがその価値があればいいのであろうがなければこの巨額の円が日本からアイルランドに移動することになる。そのような英断は日本人にはできないはずだが、今の武田の社長はいつの間にか外国人になっており、だから短絡的になるほどと思う。しかし世界業界も武田も、買収を繰り返しており、売上高世界ランキングでは12位~19位(2017年)、日本企業の中の時価総額ランキングでは6位~18位(2015年)で浮沈の中である。 
外国の企業を買収して失敗した例は多く、最近では東芝だ。本体迄危殆したが大損をこいたのは日本郵政やキリンもあるそうだ。買収劇の成功を切に祈っている。

逆に日本企業が買収されるケースは買収後外国経営により成功させたケースも多い。こちらは売って損した形だ。代表が日産だと思う。今日同じ日スマホに以下のニュースが入っていた。「日本が誇る日産GT…」、売った後もまだ自分のものだと思っている。日本の技術者が成し遂げているのであろうが、あの時代どうしてそれを思わなかったのか。不思議である。
一般に売って儲かるのはいいことだ。インドネシアでは企業を売却あるいは上場しただけで10億ドルプレーヤーになる人は多いが、日本ではそれはあまり聞かないのはどうしてなのだろうか。 又撤退し損をミニマイズすることも戦略である。 しかしインドネシアで撤退して去ったあと購入した現地企業が成功している歴史もあったことを思いだす。買っては損し、売っても損する様では国は亡ぶ。諸事情諸説あるのであろうが素人・傍観者の愛国の思いである。

遅れている日本はあちこちある。自慢話をする暇があればそこを認識し改革することだ。 万年敗者の野党の弱者戦略も簡単だ。 遅れている点、つまり改革すべき点が見えているからだ。 国民が改革・変化を求めている点は多くそれを立法化していくことだ。 改革立法に反対するものが浮き上がってくるはずだ。 (これらの責任の一端は官僚にもあるのではないかと最近ひしひしと思う)

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2018年5月10日 (木)

4月の投資環境:何となく不安定な社会


4/23 ルピア安続く、13,975ルピア、舵取り微妙
4/4  豪鉱区開発めぐる汚職疑惑で女性のプルタミナ元社長が容疑者に断定される。
4/10 学童教育水準72ヶ国中 65位など。外国人講師増強など。
4/18 首都と西ジャワで3月末から密造酒飲酒で死者102人まで増えた。
4/23 首都メイン通りの奇数・偶数による通行規制、朝6時からに。
4/23 配車タクシー利用の女性客が凶悪事件2件、主犯格を射殺
4/24 電子KTP調達めぐる汚職容疑の前国会議長に禁固15年判決。
4/25 東アチェで油井火災、違法に採掘された現場のもよう、22人死亡(26日現在)。
4/25 西スマトラのニャンニャン島にサーフィンのデンマーク人女性が性的暴行
4/26 覚せい剤密輸の台湾人8人に死刑判決。
4/3  スカルノ三女がイスラム侮辱容疑で警察に告発される騒ぎ、自作の詩の内容が原因
4/11 来年の大統領選に向けてプラボウォ党首がグリンドラ公認候補に決定。
4/17 トゥバンでソロ橋崩落2人死亡、北スラウェシでも橋桁崩落2人行方不明など続発
一寸記録
4/12 ウィジャヤ・カルヤ、ナイジェリア大統領宮殿改修工事を受注、8千万ドル。
4/18 マツオカコーポ、ファーストリテイリング、東レグループとスバンに合弁設立。
4/23 いすゞ・アストラ、軽量トラック「トラガ」発表。   応援したい。
4/23 スズキ・インドモービル、二輪「ネックス」フルモデルチェンジ発表。
4/26 ユニチカ、MM2100で現法工場建設、投資約60億円、ナイロンフィルム増産へ。
4/4  在日インドネシア経営者協会が発足、初代理事代表はAPPジャパン会長。
4/4  インダストリー4.0発表:2030年10大国入り目指す
4/8  生産年齢人口のパラサイト率1971年の86.8%から2017年は48.1%まで改善:BPS。
4/13 海事調整相訪中でインフラ投資案件5件MoU、投資額計233億ドル。
4/13 ムーディーズがイ国債格付け引き上げBaa3→Baa2。
4/23 プルバリンガ空港着工、年間収容能力30万人、来年完工めざす。


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2018年5月 9日 (水)

キャッシュレス化の道

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インドネシアではもう(?)全国統合銀行決済システムが始まるらしい。実はそれをイメージできないまま日本の何に当たるのかネットで調べるとまず、この言葉自体が日本にはないことが解った。
小生は銀行ごとにCAカードを持ち銀行と紐ついたクレジットカードを数枚持ってい居るようなザマであるがこれが1枚で超安全なら便利だと思うが、どうだろうか。NNAのニュースではこのインドネシアシステムは全国決済ゲートウエー(NPG)といい加盟銀行(現在98行)が、それ用のデビットカードを発行したそうでそれで、すべてのATMやEDCを利用できるそうだが、それだとどのATMでも利用できるということだからキャッシュカードとしては十分である。日本ではどの銀行のキャッシュカードでもどのATMでもというより、より便利なコンビニにあるATMで基本的にキャッシュを下すことは可能であるようなので日本の方がいいというか同格であろうか
小生レベルの問題点は現在のVISAとかMasterは独占的でフイーも高いので気が小さい小生は小さい店でのカード使用は気の毒になり、それが日本の現金使用の生活から抜け出せない原因だと認識している。日本は世界のキャッシュレス世界に乗り遅れ一人なんとかコインなどに入り込んでいる。生活よりも投機を進めているのであろうか。

NNAのニュースではデビットカードであるのでクレジット(借金苦になる)ではなく、フイーも小さくなるだろうから、いい着想である。ただ未だお店では使えないだろうからこの段階ではやはり最先進国の中国の「QRコード+スマホアプリ」が次のステップとなろうか。これは送金サービスのアカウントさえ作っておればアプリをダウンロードしてキャッシュ的に使用でき、且つ決済をする側も受ける側も、無料に近いコストで導入できるので今や完全普及となっているようだ。インドネシアはデビットカードであるので専用アプリと普及だけが次のステップである。 とにかく日本の財務省などは国会で見るようなザマである事は世界に露呈した。 (以上は実際決済実務のない者の推定である)

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2018年5月 8日 (火)

女性地下鉄運転手


Detiknewsに一寸気になるインドネシア語があったので読んで見た。Cerita Masinis Perempuan MRT Mulai Berjuang di Profesi Tak SeksiというものでまずはMasinisであるが、これをマシニストでネットを引くとこれは昔の洋画のタイトルであったことが解る。それは2004年、米西合作のサスペンス・スリラー映画だったと言うことで、1年間眠っていない男が体験する悪夢のような世界を描き、少し不気味な展開で思わずストーリーに聞き入ってしまった。しかしこのタイトルも英語ではMachinist でありインドネシア語のMasinisも頭から読むとmasinだから機械を操縦する人となろうか。映画では幻覚中の主人公が工場勤務中に操作する機械で同僚の手を巻き込ませるが、インドネシア語のこの文では地下鉄(MRT)運転手のことである。愈々6月には試験運転なども始まる日本建設の地下鉄では運転手の採用も始まり今回41名採用した中で女性が6人もいたという事でSeksでなく職場Seksi で差別しない専門職で女性の勝利を勝ち取ったと言うことでインタビューをしていたが、就職の前に彼らは男女差のない運転手高等専門学校(STTD)を卒業していたことを知った。

ちなみに日本ではどうかというと、いることはいるが車掌をやった後の例外的な感があった。バスの運転手はもう十年以上も前からジャカルタではあったので驚いて写真を撮ったことがある。
今日はこの話題のおかげで 映画のネタバレのサイトhm-hm-netを見つけた。ふむふむ当分遊べそうだ。
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2018年5月 7日 (月)

政治の世界はコンカリコン 

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先日のニュースでこれだと思ったのは“Kongkalikong Gatot Nurmantyo dan Tommy Winata, Bikin Konflik di Gerindra dan PKS”というものでKongkalikongだけでなく、固有名詞の全部が何だろうと関心を呼び込んでくる。実はこの言葉はバリゲート事件のニュースで出て来たもので一言で言えば結託である。意味はイ/イ辞典で形容詞としてはtidak jujurとかtidak terang-teranganとかsembunyi-sembunyiが出てくる。隠れたところもありはっきりしない状況で、tahu sama tahuと言えば普通良からぬことで、内部だけの阿吽の秘密でsekongkolとか ber·kong·ka·li·kong、bersekongkol 共謀すると言えば全部説明したことになろうか。BaliのNewsではKongkalingkongだった。英語からはKonspirasi 陰謀かな
Nurmantyoはジョコ政権で国軍司令官であったが何か物議をかもしたこともあったようで退役前で引退させられたが、彼自身は政治のトップの野望があるようで政党の福祉正義党PKSに呼ばれている所をゲリンドラ党のプラボヲの親友である富豪の政商のウイナタが誘っている図ではないだろうか。
何時も政治をフォローしているわけではないので想像である。ゲリンドラの本部はジャカルタ南ラグナンの方でgoogleで見るとみすぼらしいが貧乏人の為に炊き出しはしているようだった。何時かその辺で撮った前回選挙用のバナーの写真でも飾っておこう。


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2018年5月 5日 (土)

ハーリー王子と鹿島のFairmont

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5月19日英国王室のヘンリー王子と米女優メーガン・マークル嬢のロイヤルウエディングが行われる。これに合わせジャカルタでは「 Fairmont Jakarta Celebrates the Royal Wedding」というニュースが流れていた。5月18日から20日迄Fairmont Hotelで“Royal Wedding of Prince Harry & actress Meghan Markle”のライブ映像や記念ファッションショーもろもろのイベントが行われるようだ。最初Harryというから誰の事かと思ったがこれがHenryのニックネームで普通に呼ばれた居ることを知らないのは日本人だけなのかもしれない。


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しかしこのFairmontが営業している地所・開発は日本の鹿島なのである。デベロッパーは鹿島の関係会社PT. Senayan Trikarya Sempana でその物件にまずSentral SenayanにI,II,IIIのオフイスやアパートがあり、Other PropertiesとしてPlaza Senayan, Arcadia Fairmontなどの記載がある。
Fairmontはカナダの古いホテルオペレーターで最初は1885年バーミューだの王子がオープンしたことになっている名門風で世界80ケ所にあるもののなぜか日本は避けられている。SSIは1997年、SSIIが2007年、SSIIIが2010年鹿島が建設であることと、Harry=Henryなるは事実であるがそれ以外は断定的記載がなく詮索してもわかることではない。 下はホームペイジより。


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2018年5月 4日 (金)

企業を隠れ蓑にする者 

シリーズで続いてきた移転価格税制の税務調査の対応と共に、これはインドマルコ社 「インドネシア企業経営」 4月号の目玉です。この月ではPMAの投資手続き・投資便宜・15年ルールは見逃せません。その他当月キャッチした会計、税務、労務、貿易、金融、産業、経済、企業、政治等のインドネシアで経営する企業が関わる全ての分野の重要法令など満載しています。
この購読の他、これらの法令ニュースなどをE-mailでお届けするサービスもあるので、是非ご連絡ください。 他に会社運営に必要な会計記帳・経理指導、税務計算申告代行、投資関連許認可・変更事項の法務セクレタリ-なども個別フイーにて提供しております。どうぞご利用ください。
詳しくはウエブサイトwww.indonesialink.net/indomalco/或いはメールアドレスrisa@indomalco.com又は   kitamura@indomalco.comに照会下さい。

1. 今月の経営情報・事例研究 枚 頁
  1 ) インドネシアの 今月の税務法令アップデート 4 2
  2 ) インドネシアの 今月の経済法令アップデート   6 6
  3 ) インドネシアの 「会計原則 226~資産の減損 1」 4 12
  4 ) インドネシアの 受益的事業所有者の認識原則 6 16
  5 ) インドネシアの 外国人労働者雇用手続きの簡素化 4 22
  6 ) インドネシアの プラスチック原料の輸入規制 3 26
  7 ) インドネシアの 移転価格問題と税務調査対応について  2 29
  8 ) インドネシアの 通関サービス利用者の関税総局登録アップデート 3 31
  9 ) インドネシアの 冷却システム関連製品の輸入規制 2 34
  10 ) インドネシアの アセアン多様性からの世界   4 36
  11 ) インドネシアの 新投資手続き規定~駐在員事務所 3 40
  12 ) インドネシアの カラー複合機・コピー機・プリンターの輸入規制 4 43
  13 ) インドネシアの 5年スパンで変動する世界のビリオネア 2018年 5 47
  14 ) インドネシアの 商業活動の監督 4 52
  15 ) インドネシアの 今月の労働関連トピックス 2 56
  16 ) インドネシアの 新投資手続き規定~支店 1 58
   
2. 今月の政治・経済情報      
  1 ) 2018年3月度 下旬 政治・経済トピックス メール配信 2 59
  2 ) 2018年4月度 上・中旬 政治・経済トピックス メール配信 4 61
  3 ) 物価・貿易2018年4月発表 メール配信 1 65
   
3. 暮らしの随筆・その他  
  1 ) 「明日の街角147~よき出会いにユーモア―を」  橋本政彦 2 66
  2 ) 「両国橋と下総国」 広沢 勉 3 68
  3 ) 「ジャカルタ・モスク 北のいにしえ十選」 西見恭平 6 71
   
4.今月の金融・経済関連データ  
  1 ) 今月の月次経済指標 2017-2018トレンド メール配信 2 77
  2 ) 今月の会計・税務用換算レート メール配信 1 79
  3 ) 今月の為替株式金利の動き メール配信 1 80
      ニュース性のものについてはご希望の方にメール配信もしています。    
表紙写真:インドネシア民族運動の先駆者カルティニのミュージアム、生まれ故郷の中部ジャワ州ジュパラの中心部に設けられている。オランダ統治下の1879年貴族の家に生まれ、西洋人向けの学校で学んだカルティニは、女子教育を通じて、慣習に縛られていた女性の自立を促そうとした。産褥熱のため、1904年に25歳の若さで死去。スカルノ初代大統領の時代の1964年に国家英雄に定められる。誕生日の4月21日は「カルティニの日」とされ、毎年、全国で記念行事が行われる。

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2018年5月 3日 (木)

カリブサールのPT Skaha

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カリブサールに行くときまずは中銀博物館の横のバンク通りから出て来て最初に右手(東側)にあるのがすすけた古いたてもののPT. Skahaである。
名前が解っていたが何か特別な謂れなどもないので今まで記事に漏れていたが、全体のコタトゥア整備保存・観光地化に伴い少しはきれいになったようだ。


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1870年頃のオランダ時代に建てられ色々な商館や事務所などに使用されてきたが今の保有者PT.SkahaがリノベしたそうだがSkahaが何人かはまた解らない。 
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カリブサールの建物は趣味の研究家たちにより3D図とか小模型デザインなどに作られている。3D図に見ると角地に建つ窓の多い2階建てで2階が道路に張り出して下の軒先通りを形成している工夫がみられる。

バンドンには似た名前のGedung Swarhaというのがあるが。。

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2018年5月 2日 (水)

タナアバンは未だ変われるか

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3日ほど前のジャカルタ新聞にタナアバン駅とブロックGをつなぐ高架歩道橋を作る話が出ていたが、その道はJati Baru Rayaと言い小生は良く通ったのでその距離感は解るし、スラムに近い渋滞混沌地区なので一寸不思議であったが、TOD Dukuh Atasの上海のモデルの高架環状歩道橋を知って、なるほどと高架歩道橋の意味が正しく理解された。従いこの距離350メートルも繋ぐことはできる。
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繋がれるショッピングセンターブロックGも老朽放置建物なので魅力は何もないが、紙面によると、ここも立て替えられそうだし、この歩道橋も広いのか現在住み着いてる屋台商店も収容するらしいので物理的には近代化されそうだ。この道Jati Baru RayaはBlok Gの前の道Kb. Jatiの端から始まり駅に向かって北上し大橋の所からKebon SirihのMillenniumホテルの所まで右に大きく曲がりながらつながり且つこの大橋を通る大通り自体も同じ名前で橋を渡って西の方のSlip I通り迄をいうのでひらがなの“て”の形をしている。


右(東)端はCidengとA. Muisから降りてくるFachrudin通りがある。そこに街の中心Thamrin通りから入ってくるWahid通りがブロックAにぶつかってくる。このブロックAなどの裏側に多くJati Baruなる道路名が巡っている。 従いここはタナアバンと言うよりもジャティバルの方が正しいのかも知れない。タナアバン通りはここよりずっと北の墓地公園・中央ジャカルタ区役所の方にあるからである。 確かにここの駅やPasarはTanah Bangの名前が付いているがこの地区の南のスデイルマンのミッドプラザやスナヤンもカバーする大きな区の名前なのである。
なおブロックGにはLRTの新駅をつくる構想もあるが、それはLRTスデルマン駅からチリウン河を沿ってGの方に北上してつながるのであろうか 元の計画では スディルマンからスナヤン・パルメラー・グロゴルと川向うを北上する。小生ならワヒッドからつなぐ方がいいと思うもののいくつかの計画があるのだろう。そうなるとここもTODの資格がでてこようが、我々から見ればここは露天商や何やかやの吹き溜まりの街で彼らが主たる住民である以上難しさがある。タナアバン改革は数代のジャカルタ市長が涙と冷汗を掻いてきた大変な事業なのだ。 今の市長コンビは客が来ないGから外に逃げ出した露天商の為このJatibaru通りを開放したためこの道は当分車では通れない。

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