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2018年5月21日 (月)

再々アンペラの頃

パレンバンは小生が行きたくて調べてもみた旅行先の一つであったが、昨日の読んだ本にはコラムニスト高山正之氏の応援寄稿「パレンバン あの時代の景色を想う」というのがあり、このパレンバンの大河ムシ河にかかるアンペラ橋に関わる現地人の理解の仕方に驚くことがあった。
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アンペラ橋はなるほど日本の賠償により1966年に完成したものであったが、氏が訪問した時の通訳現地人の説明はまず 「アンペラAmperaはAmanat Penderitaan Rakyatの頭文字からでこの意味は「虐げられた人々への償い」であり、更なる問い詰めに通訳氏は「日本軍が戦争中にインドネシア国民を虐待し資源を収奪したことを詫びて償いにこの橋を作った」と説明し、氏の憤懣を買ったのであったが、小生もその様な意味で理解していたことがなかったので、現地人にはこのような理解のものもいるのかとゾットするものがあった。
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小生のブログにはこのアンペラについては3回ほども登場したが、ジャカルタでのアンペラはこの名前のレストランがあり、そのレストランの案内掲示に当時の状況を説明しており、それによると終身大統領に上り詰めたスカルノの末期に国民は困窮の中、吹き荒れる共産党の活動で反スカルノの学生たちが立ち上がり、その活動を応援するために飯屋を開いたような事があった。その飯屋の名前となった背景は、スカルノがそのように独裁化に登っていく1960年頃、頻発し長期化した地方反乱やイリヤンをめぐるオランダとの対決、長い戒厳令下、組閣する勇気有能な政治家もいなくなり已む無くスカルノ自身が組閣した内閣にスカルノはアンペラ「人民受難の声」を聴くのだとの構想が生まれていたが、
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その後9・30事件後のスカルノ最後の1966年などにもアンペラ内閣と言われた歴史があり、小生のブログでは
アンペラの意味  http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-8dc6.と本当のアンペラの意味で2回書いている。
スカルノを陥れるのも不本意ながら機会があれば現地人に問い直してみよう。


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