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2018年6月の投稿

2018年6月21日 (木)

Jakarta City Hallでもオープンハウス

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今日 レバラン、Jakarta City Hallでもオープンハウスで、誰でも歓迎している。コタの方ではなくモナスの方である。ちょっと前は土日にはCity Hall Tourを行っていた。いつも通り過ぎるだけでジャカルタに住んでいてもあまり要がないので何があるか知らないが時間つぶしにはなろう。BKPMでなく市の投資調整局の方が楽だと言うのでここでSIUPを取ったことくらいしか思い出せない。

しかしここの歴史についてはこのブログに書いたこともあるがJakata Postの切り抜き写真があったのでそれで補充してみよう。
May_09_batavia_198写真は2009年


正面から覗くと大きな噴水池の向こう側にオランダ時代からの建物があり、ここにCity Hallと関係する歴史が始まるのだが、1995年発行の市の紹介文書ではここはここ(Merdeka Selatan No.8)にはかって西ジャワ州のガバナーの住所であり、市役所自体はその住宅の隣にあったとあるが、他の文書では Burgemeester/or Mayorの住所且つ事務所であったとある。City Hallと言えばコタのファタヒラー広場が有名だがそちらは1913年頃までその機能があったそうで1913年に一旦Abdul Muisに移った後すぐ1919年にこちら(Konigsplein)に移ってきた。独立後3代目の市長のSudiroは隣にあった建物(1850年代建築)も事務所として使用した。現在残っているのは多分その邸宅の正面テラスだけだと思うが後ろ側はアリ・サディキン時代の1968年頃から取り交わし現在の24階建てのビルを建設した。それは現地人だけで成し遂げたが一人だけ外人が居てそれは日本人のコンサルタントだったという。
    要領は得ないがtourに参加するしかない。


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2018年6月20日 (水)

スマランのKota Lama

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マイアルバムに古きオランダ時代の建物がある。記憶ではスマランに行った時運河を渡り切る際に振り返った時に慌ててシャッターを押したもので、今見るとPTPN XVと言うものであった。PTPNとは難しそうでだが何のことはない、PT.Plantation Nusantaraというものでオランダ時代のジャワでのサトウキビからの製糖業の会社を独立後接収しこのような番号を付けて監理したその一つであったが、当然その前のオランダ時代もありその当時までさかのぼればNV CULTUUR MAATSCHAPIPIJ DER VORSTENLANDENとなるが意味では同じ業種である。 時代は1888年で強制栽培が終わった1870年の残り香の時代である。そして現代でもPTPNのその名前の通り国営農園として残っており、スマランにあるのはPTPN IXでこのXVとの関係までは調べるのは止した。設計家の名前もKarsternかと探ったがデータはなかった。住所もJl. Empu Tantular No.5 – Kota Lama Semarangとなっていたが、Jl. Sendowoで橋の名前はBerokでKota Lamaから青年の塔に向かうときのことであったことが思い出された。

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Google Mapを見ると、この並びには綺麗にリノベされたオランダ建築がずらりとあるお伽の国のようだ。世界遺産の価値がある。勿論治安は保証できる。


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2018年6月19日 (火)

ジャカルタベイシティは何故必要

6月初めアニス市長がジャカルタ湾開発(人工島建設)のプロジェクトを停止させたニュースがあって又かと嫌悪感が走ったが、

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既に建設された932件の店舗など建築物に差し押さえシールを貼った彼自身もその後、思いなおしてプロジェクトの継続を認めることとしたことを知り胸を撫でおろした。この案件はジョコウイ時代から前アホック知事時代に推進してきたもので、選挙戦ではこの中止を公約し、アホックは種々はめられたこともあり敗退していた。確かに大規模な港湾埋め立てで自然破壊から住民の生活環境破壊に及びこともあるのは事実でそれを無視してやって来たわけではないのだが、これも選挙の時のポピュラリズムか自大主義に陥ったのだろう直感したものだった。

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問題となったのはカプックインダーから陸橋でつないだC及びD 島でAgung Sedayuが開発している。小生もインドネシア国民の立場でもっと事実を堀さげて考えたこともなく単なる一人の外国人として面白可笑しく見ているだけであるが、日本だったらどうだろうかと反省することもあろう。とにかく、もう変革も進歩も不要だと感じる年代であり、あの地震・台風の地滑りなど大災害を防ぐ手立て以外に港湾埋め立ては受け入れないだろう。ところでこの埋め立てとは何なのか、動き出した以上少しずつでも全体を把握したいと思う。まずは:

ジャカルタは既に海水の上昇が年間数センチと進んでおり半世紀でジャカルタは海の下になると予想されており、この防止策としてオランダの専門家を動員した巨大防波堤を作ることになったのが発端である。と言うことは小生が言う大災害と同じことでインドネシアの大災害に向かう果敢さを賞賛すべきとなる。
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この防波堤はインドネシアの象徴であるガルーダの形状をした島で、全体図を見るとジャカルタ湾は東はブカシ市のブカシ河の支流運河Cikeasが流れ込む小半島と西はタンゲラン、飛行場の北のコサンビ区をつなぐ幅約55kに、真ん中若干西寄りにこのガルーダ島を置き、東よりはタンジュンプリオク港の沖合にも人工島を配しこの55㎞に高速道路でつなぐ。形成するSeawallは高さ24mで長さ40kmである。この灘の内側に17個の人口島を建設する形だ。それはインドネシアとオランダの両政府のバックアップで7年間にわたるF/Sの結果のデザインである。小生が最初に見たのは2014年だったが、小生の年賀状に使わせてもらったことがある。それ以降陸側の人工島はCD島とG島(A.Podomoroが開発)が進展し、
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又漁夫たちの反対運動もあり、ガルーダ像は無くなり楕円形のオパールとなっている。名称もJakarta Jaya: the Green Manhattanとなり昨年ベルリンでのコンテストで大賞を得ている。 今日はここまでとしておこう。


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2018年6月14日 (木)

このBala KeselamatanもPAUD

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マンガブサール・ラヤのカトリック教会については先日記述したがその手前にBala Keselamatanと表示された建物がある。そのような名前の建物は一度ブログhttp://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/bala_keselamata_93d5.htmlインドネシアのBala Keselamatan救世軍に書いているがそれは、ここではなく、マトラマン・ラヤ通りである。ここもこの名前が正面のペディメントに輝いている。Balaは軍隊の意味でKeselamatanは安寧と言うような意味で日本語では救世軍である。
救世軍とは1865年ロンドンの William Boothと妻のキャサリンが創始し、現在は、世界111の国と地域で伝道事業(=宗教活動)、社会福祉事業、教育事業、医療事業を推進するキリスト教(プロテスタント)の教派団体である。
インドネシアでは1894年オランダ人がはじめ全国15州に活動拠点がありバンドンが本営である。
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バンドンではBragaの 北にBank Indonesiaに向かい合うSanto Petrus教会があり

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その又東300mにこの救世軍の本部がある。
マンガブサールのBala Keselamatanは幼児教育PAUD Pendidikan anak Usia diniを行っている。その中でもプレイグループ(KB: Kelompok Bermain)と幼稚園(TK:Taman Kana2)である。

注:バンドンのオランダ時代の建築物についてはいくつも小論文を作成しているがBalai Keselamatanについてはこのブログが初めてなので設計家を紹介しておくと; 1920年 Brinkman & Voorhave設計である。

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2018年6月12日 (火)

英雄のヨハネス兄弟

保存文書にWilhelmus Zakaria Johannesの名前があった。Johannesと言えば確か貨幣の彫像になった事、それは小文にまとめたことを思いだし引用してみる。
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「新コインのRp100の画像に選ばれたのがHerman Johaness (28 May 1912 – 17 October 1992),である。報道の紹介には元公共事業相(1950年~1951年)とのみ紹介されている。1950年とは独立戦後のハーグ円卓会議で成立したインドネシア連邦を経て50年8月には統一共和国憲法が出来ているので、これは初代のナッシール内閣である。野党となった国民党との亀裂から短期倒閣となった。その後古巣の学業に戻りUGMの教授・Rektorなど勤め66年から1979年までは高等教育調整官(Koperti)と同時に1968年から1978年迄最高諮問会議のメンバーでもあった。
古巣と書いたがこの時代は独立戦争の真っただ中であり、学生共々戦地に立っており、1946年最初の命令は爆薬ラボの責任者から始まり、1948年のスハルトのジョクジャの6時間占領劇には要地の橋梁爆破作戦に従事し、後にゲリラ勲章を受勲している。 彼は1912年にNTTで生まれELS、MULO、AMSを経て1934年THSで化学分野を専攻し、練炭原料の代替物としてバイオマスの研究に従事していたことが軍部やその後の学問に参加したバックグラウンドであろう。2009年に遅ればせながら国家英雄に叙された。 以上であるが一言で表わすのに短期内閣の公共事業大臣のみはないと思うし。。。。」 
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そしてZakariaの方のWikipediaを見るとこの方は上のJohannesの従兄弟で共にインドネシアの国家英雄になっていたことを知った。彼は1895年NTTのRote島生まれでUGMの放射線学の教授を務めたが1952年にオランダで病没し1968年国家英雄に叙せられている。インドネシアで最初のレントゲンを導入したことが知られてNTTのクパンの病院の名前となり銅像も建っている。
Roteと言えばクックの探検記にも出てくるが当時でもオランダ人領事官が仕切っていたようではあり、それにしてもインドネシアの辺鄙な東ヌサトウンガラの離島出身の人が活躍していた歴史にも感心する。

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2018年6月11日 (月)

2階建てJapek高速道路

ジャカルタで一番渋滞がひどいJAPEK(ジャカルターチカンペック)高速道路が2階建てで建築急ピッチなることを知り驚いたが、ジャカルタにいる現地人もあまり感じてない風で又驚いた。ジャカルタから日本に戻って4ケ月目だとか数えている内に、いつの間にか1年にもなろうとしているのはそうだが、それにしてもこの1年の間に思いもしなかった建設が始まり且つ殆ど姿を現しているのをネットなどで見て何度も頬をつねってみた。


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それはBeca Kayu高速でもそうだった。10数年前に放棄されていた高速の遺骨が立ち上がったBeca Kayuだったが、今回のは渋滞の為小生が1年前にはいつも路肩を走っていたあのJAPEK高速が全くの2階建てになろうとしているのである。
この構想は土地スペースがない場合は誰でも思い付くが日本人は知らないのではないだろうか。しかしそういえばジャカルタでは既に一般道路の2階建てはAntasariとCasablanca或いはPangeranの3ケ所(他にもあろうが。。)では建設され運行されていたことを思いだしたが、使って見た時の感想は降りるときの余りの渋滞で2度と使うまいと思ったことも思い出した。


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今回のJAPEK 2階建て(Elevated或いはLayang凧を使う)は降りるところは渋滞が軽くなる地点或いは補助道路を伸ばして渋滞を回避しているのだろうか。また2階建ての始まりはJORR(外環道路:タンジュンプリオクと繋がる)が合流し渋滞に輪をかけるところ(Cikunir)から始まりがこれにより渋滞を防止する効果があり歓迎される。
現在の高速の道路幅は広げることができるので2階建ての足の部分の幅を得ることが出来、そして現代では橋桁を回転させたりSteel Box Girdersの出来合いを釣り上げて作っていく工法を上手く行っているように見受けられる。
この高速道路沿いではLayangが始まる地点(Cikunir:Bekasi)から終わる地点(Karawang)迄に日系工場が多い工場団地MM2100、Jababeka、LIPPO、現代、GIIC、KIIC、Surya Cipta、Indotaiseiと目白押しとなる。この工場団地それぞれ全てにアクセスする現在の高速出口におろすとするとそのインターチェインジは最大9ケ所も必要になるが当たった報道ではどれもそうなってない。Cikunirで乗ればKarawangで降り、Karawangで乗ればCikunirで降りることになるのではないか。Trans Jawaの一環としてジャワ東部への遠距離車用とすれば各駅停車は不要と考えることも出来る。

この高速に沿って先に出したBeca Kayu高速が走っており隣は中国がやっている新幹線(HST)や通勤電車LRTも工事している中での工事である。国営製鉄クラカタウのSteel Box Gindersを使用し国営建設ワスキタとアストラのAcsetが施工しているが既に3割進捗で来年春先には完成と読んでいる。以上推定もいれて書いているが、わかりずらい理由が分かったがこの道路公団Jasa Margaは同時に同じような名前の高速Tol Jakarta – Cikampek II (sisi) Selatanをやっていたのである。(続き)

感想:カサブランカ高架では途中通り過ぎるアンバサダーに行く人が多かった。
タンジュンプリオクから来る渋滞の元凶でもあるコンテナーなどは2階は通れない

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2018年6月 8日 (金)

心落ち着く善福寺とハリス

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先日のオランダ人通詞 ヒュースケンさんが会議会食の後戻ろうとしたアメリカ公使館があった所は麻布十番の善福寺である。南北線地上に出ると麻布明神がすぐにあり、又通りの向こうが十番になるが一度駅の裏手に回って遠回りして行こうと思ったが麻布図書館の裏手辺りは急坂(潮見坂)があり、面倒なのでタクシーにした。
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歩けば500メートルの所善福寺を大きくぐるりと回っても450円の距離で懸念したお寺の階段坂はなく緩やかに上がる道でホンの100メートルもなく入り口からハリス公使館跡などの案内を見ながら登っていける。
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境内にも記念碑はあったが、ここには親鸞聖人像や樹齢750年の巨大な銀杏や有名人のお墓などいろいろ由緒・歴史もあるが、
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ネットを見ればすぐ解ることだからここでは書かない。ハリス氏についても坂田精一氏の著作が詳しいので書くこともないが、日本人が初めて畏敬し信頼したアメリカ人であったことは確かである。

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2018年6月 7日 (木)

5月投資環境:過激派蠢動 続発テロで血塗られ

5月連休も終わってからインドネシアは何故かテロの嵐が吹き荒れた。ラマダン・レバランに入る前になるがニュースを並べると以下の様になる。

5/8  警察機動隊本部拘置所で過激派メンバー156人が暴徒化、警官5人+1死亡。
5/10 刃物や銃弾所持のイスラム過激派メンバー4人をブカシで逮捕
5/13 早朝スラバヤ3カ所の教会でテロ一家が分散連続爆弾テロ、少なくとも14人死亡
5/13 警察署近くのシドアルジョの公営住宅でも自爆テロあった、3人死亡。
5/13 チアンジュールで銃器不法所持の4人、抵抗され全員射殺。スカブミで軍事訓練か。 
5/14 スラバヤでまた5人の一家による自爆テロ、警察署入り口で二輪車に仕掛け
5/15 スラバヤの住宅地で銃撃戦、容疑者は死亡。またマランでは、指導者を逮捕
5/16 リアウ州警本部で、過激派5人が襲撃、警官1人死亡。5人のうち4人は射殺
5/22 今度はジャンビの警察署が襲撃される騒ぎ、警官2人けが。
5/25 テロ法改正案、国会で可決。大統領の発動命令で国軍がテロ対策に参加可能に。
5/27 IS関与の疑いの女子学生ら8人シリアから送還される。
未だレバランの休暇が終わるまでは半月以上もある。なんともコメントもしようがないが短絡的に言えばイスラムと石油になる。

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2018年6月 5日 (火)

マンガブサールのカトリック

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Bataviaの中国人のカトリックの普及をそれほど古くはないようでA. Heuken SJさんの著作では1889年にバンカから Kortnshorst St.がおいでになってからで1903年に100人ほどの信者になった。その頃はToko Tigaがその中心であったが 中国人の中学校もPrinsenlaan (Mangga Besar)通りに開校され、1950年頃Mangga Besarの(Kali Tangkilio沿い)に移って来た。この中学は現在のSMA Budi Muliaである。
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1956年にTorsebioと1967年にRajawali支部に分かれた。Mannga Besarに現在あるカトリックの教会はGereja St. Petrus & Paulusと言う名前であのロカサリ・ショッピング・モールに行く手前にある。それより手前にBala Keselamatan救世軍があり、向かい側にこの間、ブログにした阿弥陀如来の像のある仏教ビルAvalokitesvaraがある。
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google Mapではここも二つが交差しており、一つは建設中、一つは完成後の風景である。多分Googleのカメラマンがこの通りを昇って行った時と、下って来た時の時点が違うのであろう。

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どちらもMangga Besar添いにあるが昔は奥にあったに違いない。古い教会は1970年頃のようであるが、それほど立派ではない。


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2018年6月 2日 (土)

ワルテッグ インドマルコ インドネシア企業経営より

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中部ジャワ州テガルの大モスク。最初の建設は、対オランダ抵抗運動の指導者ディポヌゴロがジャワ戦争を闘っていたころの1825~30年ごろと言われている。その後、何度かの改装を見て、今の姿がある。テガルは、1920代にインドネシア共産党の拠点の一つになった地とも言われるが、20世紀半ばまでは砂糖産業が栄え、現在はテーボトルをはじめとした茶のブランドが集まっている。名物は子ヤギの串焼き料理。テガル出身者による飯屋台「ワルン・テガル」、略して「ワルテッグ」は全国に広がっている。
同紙5月号の表紙(ホームペイジ:https://www.indonesialink.net/indomalco/より借用しました。同誌には移転価格の税務調査戦略が続いてます。

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2018年6月 1日 (金)

Googleでボゴール駅に行く。

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ボゴール駅は1881年オープンのインドネシアでは古い駅舎であり、小生も昔尋ねたことがある。ボゴールの市内の位置関係が不明であったので調べて見た。地図では宮殿・植物園を囲む道のDjuanda 通りから東に抜けるRaya Dramaga通りを少し行った右手にある。 前回のDaBoGongの所からこのDjuanda通りが始まり植物園の端のZoology 博物館に来たら右に曲がってずっと北上し宮殿が正面に見える所、園外側にMPもある所までのこの植物園・宮殿を半周する道がDjuandaなのであるが、その真ん中辺りにKathedralがある所から宮殿を離れ東に向かう道がRaya Dramagaである。
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そこを東に進むと右手に鉄線の塀に囲まれた一角があり大きくStasiun Bogorの玄関表示があるが塀で行けないのでこの一角をぐるりと回ることにした。この一角のDramaga通りの辺の長さは150mもあるがそれが切れると北(右)に曲がりこの一辺(Mayor Oking通り)の長さが600m弱もある長い長方形である。
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その中ほどにボゴール大駅の表示の入り口があり、これが乗客が出入りできる駅舎であるが、昔の趣がない。そこで反対側に行くことにしそこから長方形の端をぐるりと回り反対側の長い塀の道(Nyi Raja Permas通り)に入って来た。
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この移動の道々は商人が店を張り出しごった替えしている。Raja Permas通りにの右手は長い長い倉庫長屋が続くが途中でGoogleはあきらめており、結局小生はあの昔の駅舎をあきらめざるを得なくなった。
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只この最後の倉庫の端から向こうにかすかに見える建物が昔の駅舎風であり、Googleでクリックすると駅舎の内部である。 この内部には人も見られるが今は閉鎖されているようだ。
この600x100メートル四方の駅舎に入るのには西側のStasiun Besarだけかもしれない。下り(降車)や登り(乗車)のプラットフォームは例の通り鉄路を跨いで歩いて移ることになろう。
ここにはジャカルタ方面からの列車やスカブミ行やジョクジャ行もあり、8線が乗り場を持つ。この駅舎は1881築であるが線路が敷かれたのは1872年(明治5年)である。
昔のブログはこちら。http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_d262.html
この1881年の駅舎の写真は昔撮ったもので今は中々ない中、価値があるのではないだろうか その他は又Googlのお世話になった。


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