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2018年6月12日 (火)

英雄のヨハネス兄弟

保存文書にWilhelmus Zakaria Johannesの名前があった。Johannesと言えば確か貨幣の彫像になった事、それは小文にまとめたことを思いだし引用してみる。
Matauang100baru

「新コインのRp100の画像に選ばれたのがHerman Johaness (28 May 1912 – 17 October 1992),である。報道の紹介には元公共事業相(1950年~1951年)とのみ紹介されている。1950年とは独立戦後のハーグ円卓会議で成立したインドネシア連邦を経て50年8月には統一共和国憲法が出来ているので、これは初代のナッシール内閣である。野党となった国民党との亀裂から短期倒閣となった。その後古巣の学業に戻りUGMの教授・Rektorなど勤め66年から1979年までは高等教育調整官(Koperti)と同時に1968年から1978年迄最高諮問会議のメンバーでもあった。
古巣と書いたがこの時代は独立戦争の真っただ中であり、学生共々戦地に立っており、1946年最初の命令は爆薬ラボの責任者から始まり、1948年のスハルトのジョクジャの6時間占領劇には要地の橋梁爆破作戦に従事し、後にゲリラ勲章を受勲している。 彼は1912年にNTTで生まれELS、MULO、AMSを経て1934年THSで化学分野を専攻し、練炭原料の代替物としてバイオマスの研究に従事していたことが軍部やその後の学問に参加したバックグラウンドであろう。2009年に遅ればせながら国家英雄に叙された。 以上であるが一言で表わすのに短期内閣の公共事業大臣のみはないと思うし。。。。」 
Z_johanes

そしてZakariaの方のWikipediaを見るとこの方は上のJohannesの従兄弟で共にインドネシアの国家英雄になっていたことを知った。彼は1895年NTTのRote島生まれでUGMの放射線学の教授を務めたが1952年にオランダで病没し1968年国家英雄に叙せられている。インドネシアで最初のレントゲンを導入したことが知られてNTTのクパンの病院の名前となり銅像も建っている。
Roteと言えばクックの探検記にも出てくるが当時でもオランダ人領事官が仕切っていたようではあり、それにしてもインドネシアの辺鄙な東ヌサトウンガラの離島出身の人が活躍していた歴史にも感心する。

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