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2018年8月13日 (月)

Ereveld Menteng Puloは連邦墓地CWGC

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ここはオランダの戦没英霊を祀る墓地で、Ereveld Menteng Puloと呼ばれている。ジャカルタのメンテンダラームの広い墓地の一角である。ものの本によると、第二次世界大戦時に日本軍の捕虜となり倒れたオランダ人700人と、その後1945年から1949年までの間に倒れたオランダ人4,300人を埋葬したもので、今も白き十字架がびっしり並んでいる。
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奥の方の一角はイギリス連邦の犠牲者の墓地でオランダの教会の裏側辺りである。ここに行くにはPark Laneホテルの手前のアパートPuri Casablancaの手前に現地人の墓地の入り口があるのでそこから入って行く方がちかいだろう。あと一つはジャラン・サハルジョの方から左手に取るMenteng Pulo Rayaから入っていくものでこの道は先ほどのCasablancaから入っていく道と繋がってぐるっと回っている。
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こちらも入って少しでメンテン・プロ・ラヤのパサールがありその先に現地の墓地がある。どちらから行っても現地人の墓地を通ることになる。しかしCasalancaから入って現地墓地を抜けるととんがり屋根の建物2棟があり、多分Menteng Puro墓地の事務所など施設であろう。


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ここから右にとってSMA 79がありすぐが蘭英墓地の入り口であるが通常は閉まっているようだ。小生の写真はかなり昔のもので監視が厳しくない時代であったのであろう。
英国の墓地の方には北側に記念館ビルがあり、スタッフが詰めているようだ。ここにはスラバヤの戦いで倒れたマラビー准将(Brigadier Mallaby)の墓碑がある。英国側の全体は英国人が715人、インド人他が304人もいるそうで、ほとんどが1946年10月までのものだそうだ。パレンバン、ジャワ海戦等々の戦死者の他POWの間の犠牲者も多いのだろう。
ここは連邦を意味するCommonwelth War Graves Commission Cemetryと言われ土地は寛大なインドネシアが贈ったものだそうだ。

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