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2018年8月14日 (火)

南の少女と仏桑華

Rotterdam_shono

ふと手に取った本は「ロッテルダムの灯」であったが蘭印の話もいくつか含んだ作家庄野英二のエッセイ集であった。小生の知らない作家であるが、弟庄野潤三も作家であり、英二は多くの童話を作っており、父が手塚山学院創立者であったので、晩年は同学長を務めた。
1915年と言う生まれ年は動かしようもなく、1936年、時の流れで華北出征となり、その後も2回目の出征も余儀なくされたが未だ運よく1946年には復員出来た。一度目は小隊長もつとめされ南昌攻略では九死に一生、2度目はすぐジャワ・チラチャップ収容所の監督任務をはじめ各地を渡り歩いている。
何で大陸の奥まで軍靴で踏みにじったか小生は麦の兵隊などで逆の立場を想像しゾットするが、英二のエッセイではその事などには何にも触れず、各地の自然と人の営みを優しく取り上げてそれで随所で、そのやさしさにぐっとくるものがあった。 
メナド出身のインドネシア人家族4人の生活から父親や偶々オランダ国籍であったため連行されパレンバンからバタビア、チマヒ へと後を探したが最後は何千キロも東のフローレスに流されたことを知る。エンジン付き商売用ボートを日本軍に取られた後は風任せ(チャリアンギン)のプラオ(小舟)での商売をヤムなくされた中国人おじさんの善意で家族の中の10歳のキマイは父に会う決意をし数ケ月もかかってフローレスにたどり着いた。中国おじさんとの3日で戻る約束でキャンプで働かされていたオランダ人の中に父はいないかと日本兵に見つからないようブッシュに潜み3日を費やしたが、甲斐なく、最後の手段として落ちていた日本兵のタバコ箱の切れ端にメモを書いて投げいれることを思い立ち、食用で持っていたカナリヤの実の割れ目で指先を刺して血で書いたメモは「ゴゴ ジャラン キマ」と言うのがやっとであった。
ゴゴは父が逮捕される前に生まれれていた弟の名前で赤ちゃんのゴゴは歩けるよというメモで自分の名前の最後のイは書くスペースもなかった。父に買ってもらったハトの笛は、日本兵の耳を気にして吹けなかったが、100mも走り逃げ、動悸が収まってやっと笛に口を付けた。。。。
カナリヤの実とは何だろうか柿、ランブータンはたまた鳥のエサ? 他にも当時少し趣が違うがブンガビリヤはブーゲンビリヤ、仏桑華はハイビスカス、カトレヤは椰子の幹に咲き、他編で出てくるサンパギータ(フイリピンの国花は インドネシアのメラティ茉莉花(マツリカ;ジャスミン)である。 それにしてもキマイは少女として読んでいた。


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