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2018年9月 5日 (水)

本田とイモーラ・グループ

Imoraと接点のある日本人は多いと思うが、小生もHonda CRVに乗っていたこともあるしCentexやEasterntex等合弁の知人もいたが奇妙に本体とは、すれ違っている。先ずはネットで見ようとしてもImoraだけではイタリア関連ばかりでGoogle 5頁目になって初めてGloombergのImora Motorが出でくる。
20180904_2
Imora Motorで引くとPT. Imora Motorが(Honda Jakarta Center)とセットで出てくる。Google検索文の中にProspect Motorがあったのでそれで再度当たるとP.T. Honda Prospect Motor(以下HPM)が出てくる。昔クラマユダ三菱で鞍馬を当たった時と同じような頑固さとロープロな愛国者のイメージが思い出された。
それならと、グループのImora Groupで引いたGoogleの要点を手っとり早くピックアップすると;
*Imora Groupの芽生えは華僑のHadi Budimanが1952年に設立したSoei Hin公司という商業の会社からで最初は商社の兼松が協力ししその後も伊藤忠や丸紅、岩井産業が協力している。
*1960年迄Soei Hinは日本からの繊維の輸入に頼ってきたが政治情勢を含めた不利益から多くの繊維輸入業者は業種変更にせばまれSoei Hinも1963年に自動車輸入を始め乗用ホールデンで成功翌年にはスクーターVestaでこれも大成功を納めた。

* Hondaとの関係は当初彼は1960年にPT Matahariと言う会社を買収しIstana Mobil Raya
(自動車大宮殿)からImoraと改名しこれがのちにHondaから独占総代理販売店に任命され、その事務所はPanagerang Jayakarta Rayaにあり販売:補修サービスをやっている。
* 1970年イモラは国策的ISC社にアセンブリング用部品輸入を行ったが当初は赤字でライフ360の変遷を経て1975年Civic車を発売、1978年Accordを投入し2、000とか3,000台の販売に成功している。1975年にジャカルタ・スンターにアセンブリング会社としてPT.Prospct Motorを設立した。後にエンジン会社(HOPE)も設立したが1997年HOPEもPT ImoraもPT. Honda Prospect Motor. として合併した。 
Lowongan_kerja_pt_honda_prospect_mo

該社はインドネシア側がマジョリティで社長にHadiが就任してスタートしたが 2014年カラワンのmitra工業団地に第2工場を建設しJazz 等を生産し現在本田が51%で本田から社長が派遣されている。
* 現在イモラグループは、Hadi Budimanの息子Dharmadi Budiman と Kusnadi Budimanにより繊維の他、製紙、リゾート事業に多角化している。現在のグループ会社は以下の通り
1. Honda Prospect Motor, PT (HPM:car assembling industry)

2. Honda Precision Parts Manufacture, PT (HPPM:car components industry))

Index_key


3. Century Textile Tbk, PT, CENTEX (textile industry) PT. Budiman Kencana Lestasi (12%), PT. Prospect Motor (12%) 、Easterntex (10%) +東レ24%  jakart株式市場発足の初期より上場、ボゴール街道の、帝人Caterinaの近くのCiracasだったと思う。

4. Easterntex, PT (textile industry) 東レ69%

5. Nikawa Tex, PT (textile industry))

6. Parisindo Pratama, PT (paper industry)

7. Budiman Kencana Lestari, PT (investment holding)

8. Gung geulis Countyr Club (golf curse dan resort) :兼松と合弁

小生がホンダ車を購入した時はここに来た覚えがあるしここにHonda Jakarta Centerがある。 Imora Motorの文字看板はここにはない。冒頭に書いたネットでの検索困難はここに隠されているのであろう。日本の本田技研もHPM社を中心に事業を展開しHPPMのtransmission工場など本田グループの重要な生産を担っている。ImoraグループもHPMを中心あるいはProspect Motor或いはBudiman Kencanaを通じたグループ形成のようだ。

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コメント

ブログを拝誦
非常に懐かしく読ませてもらいました。
私は、1962年から1995年までの33年の間、Hadi Budimanと接していました。
私たちは、彼を“Angさん”と華僑名で呼んでいました。
ただ、私自身は、Honda もCentexも担当していなかったので、ビジネスの付き合いはありません。
また、“Angさん”は、元々は、繊維の輸入が本職でしたので、投資法制定以前の1962年頃は、
繊維の担当者が、“Angさん”のビジネス・パートナーでした。
私が、付き合ったのは、麻雀とゴルフです。
“Angさん”は、麻雀が好きで、兼松のジェンガラ寮に入り浸っていました。
その後、1980年代から90年代になると、ゴルフをたしなむようになり、兼松のゴルフ・コンペには、常に参加していました。
この頃は、麻雀は禁じられていました。初めの頃のコンペは、アンチョールでしたが、やがてGunung Geulisになりました。
Honda や東レの駐在員も参加していましたし、息子も参加していました。
麻雀とゴルフ以外には、“Angさん”が奥さん同伴で、来日した時、奥さんのアテンドをしたことがあります。

投稿: 広沢 勉 | 2018年9月 5日 (水) 20時49分

コメント深謝いたします。
(別途 メールで返してましたが。。ここにアップ)
広沢さんとご懇意とは知らず本文中敬称略で失礼してしまいました。
此方もジェンガラやグヌングリス懐かしく思い出しました。
トリッキーなコースでしたね 温泉も日本風でしたっけ

このころの成功した華人の多くは日本好きのいい人が多かったですね
今もそうだと思いますが。
西見

投稿: 西見 | 2018年9月10日 (月) 08時10分

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