独立宣言の発表の放送
伝説のモー・ディアとしたのはあの独立宣言のラジオ放送であるが、あれは諸説があるようだからである。アダムマリクの回想録には“私は宣言文のカードコピーを横領しアンタラ通信の若い記者アサ・バファギーにこれをパンフルー・ルービスに届け同盟のモールス信号機で打電するようにと命令した。。。17日10時。。1時間遅れで打電することに成功した。”とある。 しかしついdetiknewsは以下の様に解説している。「歴史家A.GonggongはBM Diahは記者の仕事をしている仲間と一緒に宣言文を広める役割を果たしたと語っているがDM Diahはそれ以上に確かに前田提督の邸宅で宣言文の原稿化を目撃した数少ない人物の一人で、彼はジャーナリストとして、その後Bung Hattaの直接の命令でインドネシアの独立のニュースを広めることに関わっているのである。宣言文の原稿は最後にBung Hattaが口述しBung Karnoが手書きしたあとBung Sajuti Melikがタイプし、そのあとゴミ箱に捨てられた。 そして. “私の夫はその草稿を取り上げ、そのしわを伸ばし、持ち歩いていたノートに差し込みました”と、BM Diahの妻、Siti Herawatiは思い出を語ってくれた。私の夫はしかし宣言文の読み上げには残念ながら立ち会えず、その時間、当初予定されたイカダ広場にいたからです。1945年9月までインドネシアにはまだ多くの日本軍が存在していたので、BM Diahと他の青少年指導者たちは武器を取り、Djawa Shinbeon Sja(追)が発行した”Asia Raja”(日刊現地新聞)の印刷機を接収することに成功し1945年10月上旬に、メルデカ新聞を発行する事になったのです。と言うことでモールス信号に使われたのはカーボンコピーであり、新聞の種になったのはオリジナルの手書き原稿であったのだろうと言うこととしたい。肝心のラジオ放送はJusuf Ronodipoeroがまだ憲兵隊が支配していた危機のなか17日夕刻行われたことは既にブログにしていた。(2012年10月31日 (水)もうひとつの独立宣言ラジオ放送)のでこのブログは追補になる。
追記:ジャワ新聞社と言うのは日刊の現地紙Asia Rayaと日本語新聞 Jawa Shimbunを発行していた新聞社である。月刊のDjawa Baroeと言う雑誌も発行した陸軍第16軍の官製新聞社で朝日新聞社が担当した。
| 固定リンク
「インドネシア・ジャカルタ歴史今昔」カテゴリの記事
- 同盟から共同の棲家・日比谷市政会館 (2019.04.02)
- 同盟からAntara通信社の頃(2019.04.01)
- 独立宣言の発表の放送(2019.03.22)
- 伝説のモー・ディア(2019.03.18)
- 私の北の観光バス路線(2019.03.15)
コメント