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2019年3月18日 (月)

伝説のモー・ディア

ヤーコブ・ウタマの前の代のジャーナリスト大物はモー・ディーアであろうか。正式にはBurhanuddin Mohammad Diahでスカルノ末期から第1期スハルト時代に通信大臣を務めている。1917年父が働くアチェ生まれで、生まれて1週間で父が亡くなり母も8歳の時に亡くなり伯母に育てられた。17歳でジャカルタに出てダウエスデッカーに私淑した。その後記者や出版に携わりながら日本占領時には軍のラジオ放送局につとめた。
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独立宣言の後Joesoef Isak や Rosihan Anwarらと共に日本のアジアラヤ印刷の機械を押収したが日本軍はなすに任せた。彼は独立宣言文起草時には呼ばれて目撃証人となりラジオ放送にも関係している。そして1945年10月1日には日刊紙Harian Merdeka発行にこぎつけた。 1952年の10月17日事件以降、彼の新スカルノ国民主義、反軍主義で軍ににらまれ、場所を転々とすることになるが、最後は副社長Isakのスカルノイズムが災いしオルデバル政府に発行禁止にされ編集者(redaktur)のAnwarは別にPedoman誌を発行することとなった。一方彼の妻Herawatiと共に英字紙Indonesian Obserberを発行していたがこれは1966年ピーターゴンタが購入することとなる。
彼は1959年以降チェッコを振り出しにハンガリー、英国、タイの大使を歴任することとなりスカルノ退陣後はDPR議員から更にDPAの顧問団となった。
1996年に没したが78年にはスハルトから大勲章 Bintang Mahaputra Utamaを与えられているが。英雄叙勲は未だのようだ。


尚現在のHotel Aryaduta Jakartaとなったホテルは妻の実家の土地に夫婦が始めたPT Hotel Prapatan-Jakarta事業(最初はアンバサダーホテル)からであった。
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