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2019年4月 1日 (月)

同盟からAntara通信社の頃

インドネシア独立宣言時代のインドネシアの通信・報道は日本が牛耳っていたことになろうがそれは多分同盟通信がニュース配信の通信を、新聞報道はジャワ新聞や昭南新聞社が行っていた。ジャカルタのそれらの施設は今でいえばRRIラジオ・リパブリックやアンタラ通信社(パッサールバルー)或いはジャワ新聞はハヤム・ウルックのGajah Tunggal社がある所にあったのであろう。ここの住所はHayam Wuruk No.8で当時のジャワ新聞社の住所を復刻版などで見るとMohlenvliet Ost No.8 であるので道路名だけが変ったと踏んだうえである。RRIの場所はオランダ時代のNirom社があった所だろう。バルーにあったアンタラ通信(Antara News Agency国営)はその後現在はムルデカバラットのエネルギー鉱物資源省の隣にある。

 

アンタラは当時オランダのAtena社のローカルニュースカバーの穴を埋める意味からもアダムマリックなどが1937年に設立し、日本時代は同盟が引き継ぎそして国営として接収したものである。

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2017年業容は売上2,865億、総資産1,801億ルピア、従業員603名++で1,000強か、配信先70ケ所、国内支局34、海外は3ケ所である。

同盟はその後敗戦により解体され現在の共同通信社と時事通信社に分かれた。比較も出来まいが共同は売上407億円、従業員1,668人、国内支局47局、海外52ケ所、あとは続きとしよう。

 

 

追記: 今日はいじっていたら写真アップに成功、又手順をわすれたが。。   少し前に戻って修正してみよう。=>OYO Suryaホテル

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