2017年4月18日 (火)

一人西遊記

従軍記者がスラバヤからバタヴィア迄一人で汽車の旅でついた日は朝まで豪遊した話でその豪胆ぶりに感心したが今度はそれより5年ほど前の昭和12年の西アジア遊記という一人旅の本があった。これらの本で小生のほんのパレンバンやマカッサル旅行への一人旅決行にどれだけ後押しを受けたか計り知れない。
00_garuda_senayan_city_kono_tikaku
しかし結局は体調わるく見知らぬ土地では危険と判断せざるをえなかった。彼、宮崎定市氏は歴史ジャーナリストでちょうどその時37歳、計画では国際会議のあったルーマニアからトルコに入り、イラク、シリア、レバノン、パレスチナ、エジプトを汽船や汽車やバス(アンコット風)或いは馬で各国2~3の都市を回りながらアレクサンドリアを船で立つ11月までの2ケ月の長旅である。当時の民心は貧しかったが、外国人を世話する気持ちは自国民を犠牲にするほどであったが,半面、汚れた衣服の眼病持ちのただれた老人から受ける甜瓜も口にせねばならぬし、一方で貧しさからくる執拗な手伝いの押し売りは相当なもので行くところ行く所誰かしらやってきて便所に迄ついてくる。子供たちの最初の可愛さも最後には豹変し心付け(バクシン)を連呼しながら威嚇する。彼は必ず寺院や遺蹟或いは市場(スーク。バザー)を自分の足でめぐる。当時は必ず日本領事に表敬訪問すると食事まで呼ばれたり歓迎をうけ注意事項を教えてくれる。しかし危険地帯のどのくらいかは彼らにはわからず、結局大変な所まで入り組んだ道に迷い込んでしまいどうにか脱出する。危険地帯は最悪はシリアの中のユダヤ人らしい。トルコの統治の大統領はケマールアタチュルクという英傑でに日ロ戦争に勝った日本びいきで改革もおこなったが、このバクシンなどと言うチップ強要を禁止したそうである。しかし所謂暗黒世界の上がりであるシャドウエコノミーでは現在タイ(麻薬か)、ロシア、フイリピン、ブラジル、エストニア、トルコが上位である。日本は良い方から5位、インドネシアは20位程度であった。
そして氏の得た確信は「西アジアの人たちは人間の地位が白人より上である自負がある」と言うことであった。いずこもそれはあると思うが特にインドネシア人も日本人より上に思っている人が多い。それが日本の合理性や迅速性などの美徳のアドバイスに聞いても聞いた振で終わるのである。

バクシンと言う言葉はGoogle 検索で一つくらいしか出てこない言葉だった。

| | コメント (0)

2017年4月10日 (月)

日曜日の巡り

いつだったかブロックMにあるという綺麗なモスクの写真にネットで出会ったことがある。
00mesjid_nur
ブロックM スクウエアーの屋上で清々しくみえた。昨土曜日、ガルーダ店でパレンバンに行くのをあきらめた後の事である。スナヤン・シテーや、ジャカルタの大手のモールはフランスなどの有名ブランドのファッショングッドばかりの店で時間つぶしにもならない、そこでスナヤン・プラザに歩いて移動、やはりここも面白くはない。
00arcadia_2_3

裏にアルカディアと言う大きな2階建て程度のレストラン設備があり、昔、そこで簡単な中華ミー(ラーメン)を食べたことと思いだし行ってみた。
驚いたことに十数年前になろうと思うのだがこの建物の中の店は皆健在である。ロケーションが悪いようだがゆったりして喧騒を離れる感じがいいのだろう。
00arcadia_chuuka
中華の名前は漢字では難しいがDin Than Fung、日本の福天や河岸の一八も、アイリッシュパブやスペイン・バーグリルなど健在で感激、昔行った友人に伝えたい気分だ。新発見はファーミリー🎤もあるようだ、(これ確認要)
そこから本式昼食でも取ろうと思ってBMに移動、BMへは表がMRT工事で大渋滞ゆえ運ちゃんの為を思って(小生は渋滞前で降りれるが運ちゃんが渋滞に置き去りになり可哀そう)裏のパサラヤで降りて歩こうとした時、このモスクを思いだしたのである。
00msjid_nur_2
7階屋上でエレベーター、エスカレーター、階段で行く。警備の人がいたが屋上は広く、場合によりここまで車で上がれるようにもなって、涼風が行き渡る。
00masjid_nuruliman

名前はMasjid Nurul Imanとあり、何かいわれの人の名前なのかノンムスリムには解らないが一体にインドネシアムスリムにとってモスクの名前は有用なのか疑わしいので詮索はやめるがネットではインドネシアだけで9つくらいのNurul Imanの候補が出てきた。
Bm_marufukudoori
丸福ではビール一杯とマス酒だったが、体調悪くだるくなった。やはりパレンバンはいかなくてよかったと思ったことだったが、少しゆっくりさせてもらい回復を待ちそのあと日式パブによったが、ここはおねだりと逆に拒否すると一挙に悪化する態度(サービス拒絶)に頭もほてり怒り狂いながら最後はすごすご引き上げた。他のお客も一言もおしゃべりもなく帰って行ったのはなぜだろうか
アルカディア、丸福、日色パブでこれが日曜の音入れ巡りで昨日からの体調云々は頻尿・硬便であったのである。

| | コメント (0)

2016年10月 7日 (金)

ジャカルタ オクトーバーフェスト

00_oktoberfest


もうジャカルタではオクトーバーフェストをやっているらしい。2014年は通りすがりに撮った写真では9月であったが、今年は10月5日から7日迄、このビアレストランも祭りのイベントをやっている。7日だから今日であるが明日の夜明けまでである。とはいっても予約が居るからむつかしいかもしれない。この店はグランドインドネシアのPaulaner Brauhausであるが、チケット850,000ルピアで食事とドイツビールの飲み放題、歌や踊りで憂さを晴らすがいい。

00_octover_fest
古いアルバムで1枚My Oktobrfestがあったが何年だったか、サファリが流行っていた時代だから相当だ。
東京のオクトーバーフェストをネットで見ると日比谷公園は9月19日で終わっているが、横浜赤レンガ倉庫は今月16日迄やっている。行くなら15日の座間空軍基地がよさそうだが今日東京ではオリンピックのパレードがこれから始まる。

| | コメント (0)

2016年9月 2日 (金)

Honganji


00_meijiza_honngannji_butai_aug16
明治座でHonganjiと言う舞台を見た。1月の初演では連日スタンディング・オーべイションの大盛況の再演リターンである。

Honganji

織田信長と顕如、雑賀衆、怨霊将門が舞台広しと動き回る、その舞台はマッピンギの光と大音響の渦であった。ところで信長がは刃向かった本願寺とは、最初はピンと来なかったが、なんとわが家の宗派 法然聖人から親鸞聖人の浄土真宗、西本願寺であった。1263年親鸞聖人(以下聖人などは略する)がなくなり、末娘の覚信尼さまが大谷廟堂を建てその後覚恵、次が孫の覚如が3代目として、善如が4代目として教えを継いでいった。室町時代の中頃に出られた第8代蓮如は延暦寺により弾圧されていたのを再興しそして民衆に平等を説き門徒たちは一揆を起こすに至った。約十年に及ぶ大阪石山合戦など、指揮したのは第11世顕如で最後顕如は1580年仏法存続を旨として信長と和議を結んだ。

00

長男・教如が跡を継がれたが、実際は三男の准如にあてた譲状があったので、教如は隠退して、籠城を選び、後に家康に接近し、1602年家康から烏丸七条に寺地を寄進され、御堂を建立した。これが大谷派本願寺の起源で、


00_2
この時から本願寺が西と東に分立したのである。写真はたまたまマイアルバムにあった、東京の東西・本願寺

| | コメント (0)

2016年4月18日 (月)

ダメな日は駄文

日曜日は休みの日である。朝は天気も良いようでカメラ日和であった。宿題を片付けて思い出したようにコタ駅に行くことにした。下に降りてみるとヤシの葉が大揺れの風の中雲行きも怪しい。アパートのカーコールのおじさんに「Hujanかな」と聞いて見たが返事がなく出かけを思案中だった所、カーコールのおじさんはこの発音の悪い小生のHujanをUjanとかHujangとか運転手の名前かと勘違いして呼び出している。
00dsc_0231


ポツリと来ていたので又上に上がって一寝入りし、3時頃地面が濡れているのを確認してバスで出かけることにしたがやはり雨は来た。
00bus_perumpuanバスは前の車両が女性専用であるので前から寫眞は取れない。バスの車掌もここは女性であったが権限があり、小生を男性用コンパートメントに案内し若い男をどかせて小生を座らせてくれた。その時は相当混んでおりこの写真はコタからの帰りである。出かけの時間が2時間ほど狂ってしまい用便のCYCLEを逃がしてしまったので途中、何度も下車を考えたが、最後のコタ駅で前の車両の渋滞に15分以上かかり、断末魔の中
00kota_bus_station


バスレーンのコタ駅は円環状のちょっとした土産屋が並びそこに極楽があったので本当に助かった。
00kota_stasiun


混雑した駅を覗いただけで又降りだした雨の中、帰ることにした。駅もバスレーンも機能していることを確認できたが、この雨の中帰りはガラガラである。日曜日は男女や夫婦ズレが多くそれでも、男女では一緒に女性専用車に座れなく皆分かれるか男性専用車に座る。小学生の男もダメである。脚を掛けている男や床に座っている男達は直ぐ車掌に叱られる。乗り降りの際財布や持ち物に手をかけて盗まれないようにと何度も注意している。サリナデパート辺りは大洪水でセダンなどが立ち往生していたがバスはなんともなかった。ガンガン冷房の効いたバスが洪水で立ち往生したひにゃ、こっちも干上がってしまうとこだった。

| | コメント (0)

2016年4月13日 (水)

パデポカン・プリンゴンダニ

00golf_picture


スナヤン・ドライビングレンジが閉鎖され、プロマス・ゴルフ場も閉鎖されたと聞くので、次なる練習場を探しにハリムに出掛けた。そこはハリム飛行場の直前の道にあり、昔感銘を受けたきり何故か利用することがなかったが、頭の中には鮮明に覚えており、運ちゃんも当然知っていると思ったが、彼はハリム・ラマ(I)とかを思ったか、チャワンで高速を降りるのを忘れ、結果ラーマングンまで行かされた。00dsc_0040


このドライビングレンジの名前が覚えきれない程聞き慣れない名前だったのが、間違いの元だったのかもしれない。00dsc_0049


250ヤード、60席ながらブローシュアの通り壮大な作りである。 100球10万ルピアとか料金は練習場に大きな差異はない。オーナーはS氏、1990年代だったと思う。
残念だったのはビールを置いてないことだった。 この一つで経営者の大きさがわかるというものである。

| | コメント (0)

2016年1月27日 (水)

Yellowfinはgoogleで

00dsc_0201


10月17日のブログでスノパティ通りの日系レストランを紹介したが、その時店の名前が分からずxxxWEINとしたが昨日行ってみて解った名前はYELL WFINであった。メニューにもそうなっているので間違いないが 小生は看板が壊れているとしか見なかった。つまり真ん中の空白のOがなくなっているのだ。Yellowfinとは岩波英和にない単語であった。経営グループはOBCOらしい。 住所を聞くとSoenopatiと言ったが車でそこのSoenopati薬局迄来てもここから一方通行が始まるしこの店は右側になり右側のGunawarman通りからドンドン車が流れているのでその店に入れない。ちょうど前に交通警官が見張ってもいるし、道にブロックが置かれていたので不可能だ。ここはむしろGunawarman通りのPojokという方が良いだろう。その上注意すべきはGunawarman通りも一方通行で薬局に出てくるT字路で将にT字型の大きなブロッグがあるのでGunawarmanの左側を通って出てくるとSisingamangarajaの方向に誘導されて又店に入れない。GunawarmanからSuryo方面に曲がる右側のPojokなのだ。
00dsc_0206


店内は広く外側のテラス風やVIP用個室などもある。メニュウは可成り高い値段が着いており和牛が348,000ルピアである。メニュウもいろいろ工夫を凝らして創作メニューのつもりだが単なる組み合わせで気を衒うものが多い。例えばとんかつラーメンとかビールと酒のカクテルSake Bombとかである。Kawaianという可愛いダジャレもある。Yaki TacoというのはTakoyakiかと思ったがイイダコの串焼きであった。日本語も時々書いているがFryは揚げでOKだが Bakarだったか焼き料理の部は 戦いと書かれていた。友人がこれは 暖かい から来ているのだと分析してみせた。この大きな高級レストランは日本人相手にせず現地客100%でやっている点感心するが 日本人を拒絶するものではないのでゆっくりと利用するのもいい。午後からずっと開いている。小生にとっては鳥元に代わる店の一つになる。が後で聞いた話ではリノベや移転の話などもある。

| | コメント (0)

2015年12月29日 (火)

今は昔か カルティカプラザ

ジャカルタの重要幹線タムリン通りはモナスの南端からスディルマン通り迄であるがそれがどこかはちょっと不明。 手持ちの地図(Mastara社)ではHI ラウンドアバウトのところからスディルマンと記入されている。しかしいつだったかスデルマン通りの入り口を現す如くそこにスディルマンの像が建立され、また殆どの日本人が知らないそこの駅名がドゥクウ・アタスがスディルマンに変わっているから間違いはない。
00dsc08264


HIからそこへは鉄路を超えることもあり陸橋的に上り道なっており、そこに立つビルがないこともそこがまだタムリンであることを意識させることがないからである。登っていく一番端は今はUOBの高いビルが発っており、その住所はタムリンNO.10 であるので陸橋のどこかの部分からスディルマンになるのである。
4776319ksrtika_landmark


そのことを確かめるため昔そこにあったホテル カルティカプラザがあったことを思い出し探してみると なんと今も営業しているKartika Plaza Hotel、Jl. Thamrin No.10が出てきたのである。そして示された地図にはMentengもCikiniもTeuk Umarもある。縮小するとそこは南タンゲランであったが、そこにはビンタロの地名があるのでジャカルタでごまかしているようだ。昔カルティカプラザホテルでは日本人が裏にあったプールでスキューバダイビング教室をやっていた。小生にはUOBよりカルティカだ。 
1997年迄あったそうだがSkyscraperから借用した写真はもう多くのビルが林立している。

| | コメント (0)

2015年12月21日 (月)

まだ続くジャカルタ・ビエンナーレ

2年に1度の現代アートの祭典「2015」が行われているというのででかけたのは良いが、その日は統一地方選挙で閉館していた。
場所はパンチョランの塔から近くではあるが小生はスマンギの方から来たのでパンチョランで右折のパッサールミング方面に向かい最初の少し大きめ道Pancoran Timurで左折し300メートル程度でマタ左折する道にある。そこはパンチョランティムール2であるがサリーナと言っても通じる。
00jakarta_biennale


そこに大きな倉庫群があるからで多分サーリーナデパートが持っているものであろう。チャワンの方からハルヨノ通りを登ってきて塔の近くで左折する手もあるのであろうが、保証はしない。そういうことで中に入ることも出来ず正門も行き過ぎたので書くこともないが、ビエンナーレというのはもともとベネチアで行われてきたビエンナーレにあやかったものでビエンナーレに2年毎の展示会の意味がある。日本でも10数ケ所でやっており国際的には無数にあるのであろう。00turbiennalerurukids_01id_2


但しインドネシア人の芸術性は一目置けるので見に行く価値はある
来年1月14日までというのでまだ日数はある。同イベントは1974年に第1回目を開催以来、休止期間を経て今回が16回目というから大したものだ。土・日はエベントもあり楽しいかもしれない。寫眞は寂しいのでサイトから1枚借用した。

| | コメント (0)

2015年3月13日 (金)

火事場めぐり

00thamrin_09mar15_10_2


夕方時間を見つけ先日来の火事場を見に行っって見たが、ひとつはタムリン通りのKosgoroであるがビルの16階から上が黒焦げになり、死んだように建っていた。タバコの火之後始末が悪かった上にスプリンクラーも機能しなかったとの報道だけでGolkarの内紛などと引っ掛けた報道にはお目に掛からなかった。左隣はシナールマス、右はバンクブコピンである。00toko_tiga_tambora_09mar15_34


その後コタに入りピントゥクチールから金徳院を狙ったがあるかないといけないので、運河の向こう側のタンボーラカラ回り込み右折左折しながらやっと金徳院の前に来たが この入り口から覗くと手前の方は健在である。多分本堂のろうそくでもうもうたる祈祷所当たりが燃えたのであろう。 本堂の建て替えは必要だが又建築許可で揉めるのであろうか。
00toko_tiga_tambora_09mar15_38


その裏手当たりに中国建物のキリスト教会(ファティマ教会)や00toko_tiga_tambora_09mar15_42


中国人の高等学園 RICCI学園も何ら被害にはあってなかったので胸を下ろしたのであるが、本当に此処だったのかと疑問が湧く。こんな消防車も入りないごみごみした所でよく鎮火したものだ。この3つのHertageはそれぞれ過去にブログにしたが、今の状況を早くお知らせするために又ブログにした。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧