2017年10月26日 (木)

戻らないスナヤン・ファミリーレクレーション

90年代のノスタルジャーの一つのTaman Ria Senayanには何度も行ったことがあるが その昔は80年代だったような気もする程遥か彼方である。小生のお気に入りだった所なので連れて行った知り合い友達一人一人の思い出がある。最初に行った頃は、ここの大きな湖で多くの人が釣りに来ていたし、そこは緑の丘陵であったので市民の散策地の時代であった。

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その後Kafeやレストランが林立するようになり、半分中途半端な感じがある中、湖上に浮かぶ船上レストラン、
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オランダ人?経営のガーデンパブ、ビリヤード酒場、或いはアメリカのステ-キハウスなど立派なものも多かった。それはスナヤン競技場のあるゲルバン・プムダ通りの入り口側で、
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ガットットスブロト側からの入り口からは今も経営しているプラウ・ドゥアという広いガーデンの中のシーフード中華レストラン棟が並び或いは韓国料理の店等大きなレストラン数軒が湖上に張り出すように並んでいた。そしてこの二つのレストラン地区の間は大きな観覧車、ジェットコースター、3D劇場などの大人の有料遊園地であった。
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これだけの施設があったのであるが、記憶では徐々に寂れた気もするし一夜にして無くなってしまった記憶もある。一時DPR/MPR の拡張のため使われるとニュースがあり、観念したが長い長い囲いの目隠しの中ですべてが破壊された後また放置されたたままである。最新ではやはりDPRの議員宿舎を建てるのが本命になっているようだ。
元々この地はスカルノ時代にアジアンゲームの前後に政府の物になった後、いくつかの第三者に賃貸されたがゴルカールやスハルトファミリーとも絡んでいたようだ。2010年頃Ariobimoグループと言うDeveloperがLippoをオペレーターにしたMall建設する話だったようだが、緑の都市を標榜するジャカルタの緑地保護のため商業用地には認めない方針をバックに政治が勝ったのであろうか。 


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2017年10月21日 (土)

テンダ・ビルーの続き

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昨日のブログに自分が撮った数少ない写真をアップしておこう。タイトルから、この写真にしたがスナヤンのTVRI前だったと思う。
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そこからカサブランカのモールアンバサダーの横(今はとっくにモールIIが建ちもう十数年たつのだが
此処も一夜にして即席レストラン街となった。あの頃ビールは売ってないなどと言う怠慢な店はなかった。

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そして最後がSCBDの日本の居酒屋屋の2階である。ここには十数人のウエートレスが働いていたが、あの頃その日の1日で全員の名前を憶えていい気になっていたが ここの営業も長くはなく日本人の経営者はブロックMの自分の店を新たに開店し全員を引き取った。そういう塩梅だった。


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2017年10月20日 (金)

ジャカルタ・ノスタルジー テンダ・ビルー

4つの90年代のジャカルタのノスタルジーと言う記事と出会った。Taman Ria Senayan とTanda Semanggiあとスナヤンの駐車場やアンチョールのTeater Mobilである。
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ほろ苦いのがテンダ・スマンギだろうか 丁度テンダ・ビルというデウィ・ラトナサリのポップが流れていた時代だ。ここは町の中心ながら大規模開発待ちの土地であったが詳細は不明ながらこちらも一夜にバラック風ながら2階建てのレストランが思い思いに建設される中、ちゃんと碁盤風の路地も張りめぐらされた町になり、寿司や居酒屋など日本の店も2つ三つあった。ブルブラするだけで時間つぶしが出来結構な賑わいを見せていた。 ところでこのような即席カフェ 屋台街はジャカルタの彼方此方で出現、少し金持ちであった人たちが自宅前にしつらえた物とかもあったがこういうところはいつも元気があり、苦しい時代を笑い飛ばしていた。

しかし今もこの土地にはこれらが集約され四つほどのブロックの商業施設が営業している。その一つは大きな複合施設で中にThe foundry NO.8という若人向きのクラブがあるが
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一階はクーリエゾーンとブランドファッションゾーン、2階はパーティやコンサートのコンパートメント、サイレントディスコなどニューコンセプトの作りである。ナイトクラブ、韓国料理、インドネシアレストランなどなどもコネクトしている。
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この土地の一番奥のUの字の底にはBeer Garden SCBD(Sudirman Central Business District)もある。

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Beer Gardenと言えば南のガンダリアやラジオダラームにもある。ところが小生はこの地区の道一つ隔てたゴルフ練習場には良く行ったが此方はあの638メートルのオフイスタワー建設とかで追い出され閉鎖されて閉まって歯ぎしりするだけで、こちらのビアガーデンなど利用することも序に打ち捨てていたのだ。今考えるともったいないことだ。今度ジャカルタに行くときは忙しくなる。


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2017年10月10日 (火)

Raffles Squareにもっと期待

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ジュアンダから近くのJalan Posを通り過ぎるときクラシカルな作りの建物を遠くにキャッチした。見当を付けて他のアルバムからこれは昔ラッフルズスクエアーとして建設前に色々想像していた建物である。
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この土地はジュアンダ・ラヤ通りから左のパサールバルへ入る地点、或いは国営鉄道会社KAIのジュアンダ駅舎だったところである。
その当時の建物を見ると大きな屋根構造の高い2階建てでカフェなどもあり、憩うにはもってこいに見え、このまま残ってしかるべき建物だったが、
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いつの間にか取り壊され建設予定にRaffles Squareの看板が出てこれも長く放置されていた時代がある。そして今である。

Google Mapでも見るとPT. Haji La Tunrung A.M.Cというマネーチェンジャーの看板だけがある。この両替屋は古い歴史を有しており多くの支店網もあるようだから或いはここが開発しているのかもしれないが、本来はKAIがやるべきものであろう。 スクウエアーとあるので、ショッピング・エンターテンメント・スクエアーを期待していたのであるが作りから見ると1階はRukoのようで上はアパートであろうか。ここからはウエルトフレーデンの全域を見渡すことが出来そうだ。

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2017年8月31日 (木)

PT スターツ starts

Startsさんには本当に申し訳ない。こちらばボンヤリしているからかもしれないが近所の建設屋さんかと思っていたらいつの間にか第一部上場の大企業になっていたし、
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いつの間にかPTでジャカルタに進出しており、今何となくキャッチした物件は昔、誰がやっているのかとブログしたことのあるダルマワンサの高層マンションであった。そのブログは「Essence ダルマワンサ Buntu」というものであるが、施工主かデベロッパーが解らずたどり着いたPT Prakarsa Semesta AlamとかSALIGADING BERSAMAの名前は上げたがStarts の広告を見るとここはdarumawannsa X 通りで30階建てのアパートは2009年に立ちエリアはパクボノ・ガンダリアとあった。このサイトを今日又開くとエリアはクニンガンとなっており、バクブオノが開発業者を示すものでなく場所を示すもののようだと失望した。 しかし場所ならガンダリヤよりクマンヴィレッジの方が近い。
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Startsはこのアパートのいくつかの投資家の賃貸希望物件を斡旋しているようだ。そういえばカラワンのKIIC・Sedana Golfのそばにも今や二つのホテルがあるがあと一つサービスアパートがありこちらも賃貸物件を出していた。二つのホテルとはPuri KIIC Golf View HotelとDelonix Hotel Karawangで賃貸物件の方はTree Park サービスアパートという。
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スターツは日本ではよく見る建設業者で今さっきその写真を取りに行ってきた。小生のアパートの出口の目の前に邸宅アパートを丁度建設中であった。本当は大きな物件を見たかったのであるが出口一歩で出会ったこの物件には負けるしかない。


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2017年8月22日 (火)

ジャカルタ湾の海上レストラン

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北ジャカルタ・ムアラアンケ漁港に海上レストランを作るという着工式があった。レストランは2階建てで、広さは4458平方メートル、店舗29が最大で客500人を収容可能という。魚料理が心配なら町中で食べてることを思えばより新鮮だろうし何よりジャカルタベイの夕日などを拝みながら瞑想するのもいいだろう。
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昔、海の写真を取りに行ったFresh Market辺りかなとかKapuk Indah Golfとの位置関係を調べたいと地図でMuara Angkeを探しに出かけた。
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ムアラ・アンケはアンケ運河の河口だから少し上流で西洪水運河が合流するがその河口は又三つ程に分かれ右側に日系が納めたと思われる火力発電がある。大きく言えばプルイット地区で今は、あまり土地勘はないがプルイットの中心に多きなMall(Pluit Village)の前の道がPluit Indah Rayaでその北にPluit Utara Raya通りがありずっと海側に開拓で突き出した岬に密集するマリーナ別荘地Pantai Mutiaraがありその岬の根っこがこの火力発電である。この前の道Pluit Utara Rayaを西にとって行くと Bay Walk MallとかPasar Ikan Muara Angkeなどがある。この沖には多くの漁船などが係留しておりこの辺りかなと思われる。
このPUR通りを西進むと川とマンゴローブで消えるがPIR通りはどんどん西に進むとPIU通りとなり更にMarina Indahに入り左手にDamai Indah Golf(Kapuk)を見て
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ちょっと進むと中国仏教のTzu Chi 伽藍に突き当たる。ここから右手海岸にでるとここが昔海を拝みに来たFresh
 Marketである。驚いたことにここの沖には既に島が現出しており陸側もせっせとマングローブ林が陸地化しつつある。そのずっと向こうに昔冒険で見たみすてられた


サッカー場がある。Tzu Chiで右に取らず左に取ると湾岸高速のKamarエクスチェンジであった。
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この冒険は約5時間であったがこの辺りは小生が一番好きなロケーションである。

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2017年6月 5日 (月)

イフタールはここで


元大統領のグスドゥルの奥様Sinta Nuriyah が計画していた断食明けのインター宗教集会が例の過激派イスラムFPIの横やりで延期させられていたがやっと3回目の場所が決まった。今までは場所が教会だったりしたので反対されていたものだ。今回はスマランの村の行政ホールとしたので納得したようだ。このニュースはよく読んでいると昨年のものであることが解った。この時は宗教間の和解を願う団体やスマランの名士も含め425名が集まったようでNUの若者団体Banserが警護などに当たったようだ。奥様は毎年イベントをやっておられるそうだが今年もやられたのであろう。
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ブカプアサの食事は集まって食べるのが慣例でこれをアラビア語でIftarイフタールと
言うらしい。長く居た小生だが、うかつにも今初めて知った言葉で、自分の頭の構造にあきれるとともにインドネシアではアラビア語を使いたがる風潮が出てきたのだろうとあきらめた。多分そのニュースはジャカルタのイフタール用レストラン紹介番組の番外編の読み物だったかもしれないが、こちらの方もなかなか高級感のあるレストランが紹介されていてちょっと足がすくむような気がした。インドネシアがどんどん進んでいる気がしたのであるが、いずれ誰か行くこともあろうとその番組の紹介レストランを記録しておこう。
Kaum Jakarta:Jl. Dr. Kusuma Atmaja No. 77-79
Plataran Menteng:Jl. H. O. S Cokroaminoto No. 42
Seribu Rasa: Jl. H. Agus Salim, No. 128
Tesate Menteng Jl. Sam Ratulangi, No. 39
Lara Djonggrang: Jl. Teuku Cik Ditiro, No. 4
番組はメンテン地区だけの紹介であったが、小生の知っていたのはロロジョグラン(写真)だけであった

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2017年6月 2日 (金)

やっていけない マリオボロ ホテル

昔ブログでホテル・デスインデスとかネーデルダンデンとかを挙げたことがある。その時ホテル・ガジャマダと言う名前に遭った話を書いたが、googleで検索してもそういう名前のホテルはどこにもなくMapにはかろうじて、Gajah Madaの頭文字のGAMAホテルと言う名前があったがホテルではなく茅屋である。
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しかしこのGajah Mada通りのAlaydrus通りとの角にはMalioの名前が見えた。この2軒ほど先にMalioboroがあったが今はその看板はなく代わりにMalio Hotelの看板が小さく出ている。Anies次期知事もジャカルタクリーンアップに息巻いていたが、既にここは閉鎖されたのであろう。Malioグループはあのアルタグラハの創師の息子がやっているようだが、3年前にはStadionも閉鎖させられている。これだけ豪華の設備がフイになったのであるから大損だろう。Malioと言えばジョクジャカルタであるが、ジョクジャカルタにも多くのホテルができたが、agodaなどで見ると5割~8割引きである。これではやっていけないだろう。


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2017年5月 1日 (月)

Pejampongan通りにつながるPenjernihan通りからPetamburan通りに

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こんなところに入り込む日本人もないもんだ。残念ながら落選したアホック知事ならまだしもここはPintu Air Karetと言い西洪水運河(Kanal Banjir Barat)へ流れる水門である。
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上流はボゴール山地からのKrukut河とマンガライからのKali Malang運河が合流するところである。KBBはオランダ時代から建設され大元は1922年に完成している。


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現在は両岸とも高いコンクリート壁で洪水を防いでいる。
Pejampongan通りにつながるPenjernihan通りからPetamburan通りに抜けるところにある。プタンブランは春秋の供養祭が行われる日本人墓地があるから名前は知られている。

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この水門の上流に浄水施設があるようだ。PDAMとか発音しずらい浄水会社は各州・県市にあるがジャカルタはPAM JAYAといいここに大きな施設がいくつかもあるが本当にAir Bersihを作っているとは知らなかった。
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学校みたいな施設の写真が手元になったがこれは2009年のものでこれがまだあり、これがその施設の一つなのかは自信がない。


追(5月3日)河川の専門家竹林さまからコメントあり、要点は以下3点
➀ 上流はデポックのすぐ南側
② このカレット堰の目的は、西放水路の水を堰上げてプジョンポガン浄水場に引き入れるためであったこと。

③確か2013年1月洪水(Duku Atas駅付近の西放水路右岸堤が切れてUOB地下駐車場で運転手溺死)のあと、
当堰右岸側に樋門を1門追加したことがある。

なおこの堰を北において Bendungan Hiril通りがSudirman通りまで走っているが、この道とS.Parman通りの間(正確には地図で確認されたく)の地区はBenhilと言う地区になる。そこでBendungan Hirilだが地区の場所を表すと同時にそれはこの堰の名前であり堰の名前が地区の名前となったのではないだろうか つまりHirilとは数あるBendunganの内下流のこの堰のことをさすのかな?

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2017年4月18日 (火)

一人西遊記

従軍記者がスラバヤからバタヴィア迄一人で汽車の旅でついた日は朝まで豪遊した話でその豪胆ぶりに感心したが今度はそれより5年ほど前の昭和12年の西アジア遊記という一人旅の本があった。これらの本で小生のほんのパレンバンやマカッサル旅行への一人旅決行にどれだけ後押しを受けたか計り知れない。
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しかし結局は体調わるく見知らぬ土地では危険と判断せざるをえなかった。彼、宮崎市定氏は歴史ジャーナリストでちょうどその時37歳、計画では国際会議のあったルーマニアからトルコに入り、イラク、シリア、レバノン、パレスチナ、エジプトを汽船や汽車やバス(アンコット風)或いは馬で各国2~3の都市を回りながらアレクサンドリアを船で立つ11月までの2ケ月の長旅である。当時の民心は貧しかったが、外国人を世話する気持ちは自国民を犠牲にするほどであったが,半面、汚れた衣服の眼病持ちのただれた老人から受ける甜瓜も口にせねばならぬし、一方で貧しさからくる執拗な手伝いの押し売りは相当なもので行くところ行く所誰かしらやってきて便所に迄ついてくる。子供たちの最初の可愛さも最後には豹変し心付け(バクシーシ)を連呼しながら威嚇する。彼は必ず寺院や遺蹟或いは市場(スーク。バザー)を自分の足でめぐる。当時は必ず日本領事に表敬訪問すると食事まで呼ばれたり歓迎をうけ注意事項を教えてくれる。しかし危険地帯のどのくらいかは彼らにはわからず、結局大変な所まで入り組んだ道に迷い込んでしまいどうにか脱出する。危険地帯は最悪はシリアの中のユダヤ人らしい。トルコの統治の大統領はケマールアタチュルクという英傑でに日ロ戦争に勝った日本びいきで改革もおこなったが、このバクシンなどと言うチップ強要を禁止したそうである。しかし所謂暗黒世界の上がりであるシャドウエコノミーでは現在タイ(麻薬か)、ロシア、フイリピン、ブラジル、エストニア、トルコが上位である。日本は良い方から5位、インドネシアは20位程度であった。
そして氏の得た確信は「西アジアの人たちは人間の地位が白人より上である自負がある」と言うことであった。いずこもそれはあると思うが特にインドネシア人も日本人より上に思っている人が多い。それが日本の合理性や迅速性などの美徳のアドバイスに聞いても聞いた振で終わるのである。


バクシンと言う言葉はGoogle 検索で一つくらいしか出てこない言葉だった。

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