2019年3月27日 (水)

Jalan Layang と妙典橋

 

 

 

筆の 勢いで隣町の妙典橋の完工には20年も要していると書いたがちょっと調べたので10年に訂正したい。それにしても長い年数である。又ジャカルタの橋の工事は半年としたがそれもやはり1年半くらいにはかかるだろう。偶々、実は妙典橋は今日開通式があった。ちょっと見に行ったが地味なものであった。ジャカルタではチリウン河が思ったより小さいからか橋の話はあまり聞かない。それで高架陸橋となるのであるがジャカルタの2019年の計画では3つが計画されている。日系のコンドミなどが建つ予定の南部のTanjung Baratとイオンが進出したCakun地区および日系自動車の最初の進出した本拠地のSunter地区である。 これらJalan Layang(陸橋)の平均の規模は長さ500メートルで予算は8億円程度である。妙典橋は622メートルで 92億円である。比較ではないが日イ二つの情報を絡ませただけである。やはりオリンピック競技場はべらぼうだ。

 

 昔の妙典橋ブログはこちら、2016年であるX<p><span>jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/3-0e39.html</span></p>xxxxxx

 

 

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行徳物語 3 妙典橋: ジャカルタ新旧あれこれ



jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/3-0e39.html

 

 

 

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2019年1月15日 (火)

ふるさと伝承館


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近くにふるさと博物館的なものが出来たと言うのでブラブラ探しに行った。あの行徳街道の行徳駅の近くの押切で聞いたが住民らしき人は知らないという、そのままその街道をかなり下って常夜灯のある本行得迄来ると左手にらしい建物を見つけた。正面からの写真を撮り忘れたので記念館になる前の昔の写真を掲げておこう。


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正式には行徳ふれあい伝承館というもので彫刻師、浅子周慶が室町時代1333年だったか神輿造りを始めたというもので代々受け継いで来たものである。
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母屋の前の道を渡る正面にあるのが工場で、今は甘いもの等供するお休みどころとなっている。
行徳街道は狭いので危ないが自動車は少ないのですぐ渡れる。行徳は塩の街と共に神輿の街でこの浅子家とあと現在も続けている中台製作所が有名である。
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町では3年一度の大祭で5ケ町衆が神輿の競演をやっている。昨年もやったそうだから小生が見たのは6年前の方であったのであろう。念の為アルバムを見ると2014年であって記憶違いなのか 


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そして2004年には隣町の浦安の祭りの神輿を見ると豊受神社の名前とデザインの共通性があったが、追いかけ廻しはここまでとする。

日本の海外からの観光を支えているのはこうした国民の一人一人の力なのである。


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2019年1月 4日 (金)

徳願寺の仁王様

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正月は近くの寺社に初詣に回ったがここ行徳は33寺社巡りが出来るほど寺社が隣接しており、その一番札の徳願寺の後、小1時間で豊受神社、春日神社も廻って見た。

2019年でジャカルタを立ってからいつの間にか足掛け3年になってしまい、ことほど左様に月日の経つのは早く、この年月の日常に流され人生の課題を先送りした反省をしつつの参拝であった。いつもは行き過ぎる山門にたつ仁王様の像は殊に感じ入りました。
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しかしふと考えると仁王様については知る所が少ないが、仏様としては菩薩の下の明王の下の天部の一つと言う4ランク目の仏様らしい。金剛力士とも言われ例の阿吽の形相の一対の像で写真は右手の吽形の像である。
今年一年、仁王様の叱咤をうけて過ごしたいと思ってます。

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2019年1月 1日 (火)

平成最後の年賀状

「2019.doc」をダウンロード

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2018年6月 8日 (金)

心落ち着く善福寺とハリス


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先日のオランダ人通詞 ヒュースケンさんが会議会食の後戻ろうとしたアメリカ公使館があった所は麻布十番の善福寺である。南北線地上に出ると麻布明神がすぐにあり、又通りの向こうが十番になるが一度駅の裏手に回って遠回りして行こうと思ったが麻布図書館の裏手辺りは急坂(潮見坂)があり、面倒なのでタクシーにした。
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歩けば500メートルの所善福寺を大きくぐるりと回っても450円の距離で懸念したお寺の階段坂はなく緩やかに上がる道でホンの100メートルもなく入り口からハリス公使館跡などの案内を見ながら登っていける。


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境内にも記念碑はあったが、ここには親鸞聖人像や樹齢750年の巨大な銀杏や有名人のお墓などいろいろ由緒・歴史もあるが、
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ネットを見ればすぐ解ることだからここでは書かない。ハリス氏についても坂田精一氏の著作が詳しいので書くこともないが、日本人が初めて畏敬し信頼したアメリカ人であったことは確かである。


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2018年5月23日 (水)

麻布のヒュースケン

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先日は東京幕末観光をやってみた。ジャカルタと関係付けるとすればオランダとなるが、幕末ハリスの通訳官として活躍したのはオランダ人のヒュースケンであるが彼は最後理不尽な薩摩人に襲われ非常なる最後を遂げたものである。1853年黒船来航、54年和親条約締結の後、領事館開設と通商条約締結の為に日本にやって来たハリスはヒュースケンを連れて55年本国を出発、途中多国との要件を済ませ1856/8/21に日本に到着、領事館開設・通商条約までには2年から3年という長い期間無為な生活を強いられた。その間にも徐々には日本生活に慣れ馬上散歩なども楽しんでいた。初めての嫌なものには忌諱する気持ちも沸くが、日本人の生活にやさしさと敬意をもって付き合ってきたのではないか。友好と礼節と歓迎の日本人に愛しさをもって綴っている。台風や火災など災害にも負けず明るく復興に働いている日本人に感心する風景は東日本地震を思い出す。 西洋の文化を吸収する姿に、ひよっとして日本の良さを破壊することになるのではとよぎったこともあった。彼の滞在日記には歴史的価値も高いものであった。

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少し遅れの英国やプロシアの活動にも協力を惜しまなかった1861年1月15日は、赤羽橋外国接遇所で会議会食のあと馬で麻布の公使館に帰る途中、
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そこからすぐの中の橋で数名の攘夷テロに襲われ、警護の幕府兵は蹴散らされたが、馬丁などに雨戸に寝せられ届けられたが傷口は深く大変な苦痛のなか死に付いた。享年29歳であった。このころ外交関係で各国からの外国人も多く一人一人が日本日記を残しているがこの死に立ち会った一人の描写には慟哭を呼ぶ。それがこの日彼が埋葬された麻布の光林寺に向かうきっかけになったものだ。広尾メトロから歩き出したがすぐタクシーにし500円台で行けたと思う。地図の表示や標識もないが行ってみると明治通りに面して大きな駐車場があり奥に山門が見えすぐわかった。
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大きな禅寺で右奥に墓場が広がる鬱蒼たる丘陵地でその最右端にお墓はあった。
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どなたかもお詣りしたのであろう 花もまだ新しい。そこから接遇所があった現在の飯倉公園にも立ち寄ったが、うずもれた幕末の一つの訪問であった。詳しくは同好の士のブログをどうぞ。http://spottedseal.at.webry.info/201009/article_3.html
お世話になったGoogleからの本堂はサクラの季節、この写真の右端を奥に奥に入っていく。四つ目の右折れ通路の際右端にある。カラスに見られながらやっと探り当てた。


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2018年1月 1日 (月)

明けましておめでとうございます。

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皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申しあげます。

“去年今年 パソコン・スマホ 有り難う”  
本年もよろしくお願い致します。201801011508

元旦は近くの神社に初詣、徳願寺、豊受神社、春日神社と ほとんど距離500メートル範囲で回ってみた。
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お屠蘇を頂き甘酒もふるまわれ、今年一番の日本晴れの下、新春を寿いだ。今年1年また強運を祈りたい。
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2017年9月 4日 (月)

クラフト・ビールの世界

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ギネスビールの他にクラフトビールも三つ程買ってきた。ラベルのデザイン中心に選んだが、この世界の奥の深さに驚いた。
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専門デストリビューターのヤッホー・ブルーイング社が発行している季刊誌「Japan Beer」を見ての感想である。昔インドネシアでProstやEl Diabloビールを飲んでそして、「Smirnoff Ice Beer」というブログでアルコール禁止のインドネシアの方が進んでいると書いたが認識不足であった。


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日本では地酒ビールがブームであった時代には300種類の地酒があって現在でも200種はあるそうだ。この雑誌には日本各地のクラフトビールの紹介やアメリカやベルギーなどのフェステイバルの案内なども入っている日英併記の文化度がたかいものであった。


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2017年9月 1日 (金)

アイリッシュ・ウイスキーとビール

残念ながら近所のイオン・リキュールが店じまいとなったのでウイスキーなどを買ってきた。
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丁度最近アイルランドに傾注していたのでアイルランドウイスキーを探したらJamson(ジェムソン)だけがあった。アイリッシュウイスキーはアイリッシュコーヒーに入れたりするのでそちらの方が有名だがこのブランドの蒸留所は既に閉鎖されてのミドルトンが出しているそうだ。最古はブッシュミルズである。 少し甘みがあり飲みやすいウイスキーであった。もうほとんど売りつくしていたのでついでに更に近所の酒類スーパーでギネス・ビールの仕入れたがギネスもアイルランドが故郷でパブと共にアイルランドの文化である。ギネス以外ではDraughtのKilkennyが有名だ。
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ジャカルタはラスナ通りのGran Melia HotelにはこのKeltのバーがあって行ったことがあったが今やどうなっていることか。食事や散歩に良く使ったものだが、今はそういう気も薄くなり、不安になる自分に 全てが変わって行くものだと自答する。最大の変化は自分である。

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2017年7月13日 (木)

ニコライの鐘

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お茶の水のニコライ堂のそばを2~3度通ることがあり、門が開いてるままに入ってお祈りをして来た。ニコライ堂と言えば藤山一郎唄のニコライの鐘が思い出される。小関裕而作曲で昭和26年だったがなぜかよく歌った頃がある。恋に破れた乙女が祈ると言うのであまり時代背景はないが強いて言えば復興したモダーンな生活でも歌ったのであろうか。
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この教会は正式には東京復活大聖堂という。東京の復活でなくこの聖堂の再建の事だろうか、このロシア正教とも言われる教会はロシアからの司祭(後の大主教)が明治24年にコンドル他の設計で建築なったが関東大震災で崩壊したのでその後6年をかけて復興させたというからだ。 

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しかし貰った栞にハリトリス(イエスキリストのギリシャ読み)の復活と言う字が出てきたのでこの意味だと思い返した。古くはBC395年ローマ帝国が東西に分離した時からキリスト教も東西に分離が進み完全に分裂したのは1054年でこの東部のキリスト教を東方教会或いはギリシャ正教と言い各地に信仰が広がって行いった。このキリストから始まる同じ教えを総じて正教会といい、ロシア正教はロシアの正教会であって分派ではないそうだ。従いこの教会は日本正教会になる。 この豪壮な建築はビザンチン様式で1962年に日本の重要文化財になっており、ニコライ司祭も布教を続け1912年に75歳に亡くなり谷中の墓地に埋葬されている。栞にはあと、この聖堂にある聖人や聖書の中の場面が描かれた絵画(イコン)が飾ってありこれを天国の窓と呼んでイコンを通じて神と聖人に祈るということが書かれている。
未曾有の災害に見舞われた朝倉・日田地区にもようやく太陽が注ぐようになった。心からお見舞いをもうしあげたいと思います。

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