恭平から八重へ 幕末明治の気骨
先週末の大庭恭平を検索しているときに出て来たのだと思うが「八重の桜」というNHK大河ドラマがあり、そのテーマの一つが会津おんなで、或る場面で登場するのが会津藩武士のこの人である。八重の桜では大庭恭平は「京で攘夷派に密偵として潜り込んでいたが、彼らに感化され、足利三代木像梟首事件の実行犯となる。」とあり、又紹介した足利三代木像梟首事件 - 故郷の幕末史ブログでも「松平容保も前で大庭恭平が関与している事を認め、容保が激怒するシーンがあった。。。。この後は容保は浪士取締りを強化し、壬生浪士(新選組)が登場することとなる。」と触れられて、作者船山馨の扱いとちょっと違うのかもしれない。その後はとにかく会津藩の名誉回復などにも動いたそうだからいずれフォローしたい。
八重の桜に行きついたところでそういえば小生の本棚に読み晒した「小説新島八重 新島襄とその妻」があるのを思い出し急遽読み通すことを思い立ったが大活字本に慣れた小生には読み通せるか、少し気骨が折れるようだ。 新島襄は明治23年、八重との14年の夫婦生活で病没することであ然としたが多分最後の名言グッドバイ またいつか会おうと言い残したシーンに胸を打たれた。同志社大学に残した言葉「・・・苟も姑息の計を為すが如き軟骨漢には決してならぬこと・・・」に出会うのが遅かった気がした。八重や捨松など女性にしても、或いは又取り巻く明治男女の全ての生きる意気というか自己への強情さをひしひしと感じた夜だった。
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