2018年7月14日 (土)

カザン、ノヴゴロドのこと

ボクにとってのロシアワールドカップはもう終わった。日本が合宿地にしたカザンと言う都市は一度も聞いた記憶のない都市であったし報道もそのような余裕もなく又記憶から消えていく。
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しかしこの都市はロシア第三の都と言うタイトルを得た世界観光都市であり、カザン・クレムリン、カザン大学、世界全宗教寺院は有名でクレムリンは世界遺産で市内には多くのモスクと正教会、仏教寺院等が点在している。

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世界全宗教寺院は世界の16の宗教の要素を取り入れた世界平和を希求しているがその美しさに圧倒される。このような都市イメージはエカテリーナ2世女王の時代に出来たのであるが、この都市の歴史は11世紀迄さかのぼるし、その歴史の中で中心になるのはタタール人であろうか。今はロシア連邦の自治国ではあるが、ロシアによる攻略・残虐・追放・反乱の時代歴史をへている。
モスクワから東へ800キロ、その中間にこれまた最古の都市ノヴゴロドがあった。ここもサッカーの会場になった事で、昔、映画音楽に ノヴゴロドの乙女 というのが思い出されたが探しても探しても果たせなかった。 何が記憶間違いか知らないが、その途中に出てくるのは ナターシャのワルツ や ララのテーマであった。
しかし考えて見るとロシア音楽は我ら青春の全てであった時もあり、その寂しさ・悲しさ・貧しさを奏でる美しいメロデーは日本人に通じるものがある。それらを聞いていると、4島の一つ二つは返してくれるものと信じたくなる。


スペインのトーレスの鳥栖サガンの移籍も先週聞いた。故郷の隣町故応援しよう。


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2018年3月 8日 (木)

世界のサクラ

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サクラの花も待ち遠しく感じられるこの頃だがインドネシアの新聞にワシントン大統領の樹齢227年にもなる木が強風で倒れたことを報じていた。ついこの間河津サクラの問題で寿命が60年で土手の整備もあり、移植するような話もあったので先ずは227年に疑問があった。


又ワシントンの桜の木の関係は確かに子供のまちがって倒した桜をお父さんに正直に言った話は有名であるが今それを考えるとそんな昔に桜があったとはとこちらも疑問であった。ワシントン市のポトマック湖畔の桜は有名で日本からの贈与であったが、こちらは90年と100年とか後日本に里帰りしたという話が昔あったのでこのあたりもしっくりくるものがない。
しかし解っている事実は事実を全部上げてそれをつなげて理解するほかない。全部と言うわけにもいかないのでポイントを挙げると:
*まずジョージワシントンの木の話は後で作られたもののごとしで、それに近いことがあったとしてもそれはサクラではないだろう。
*この日本の誇りの美しい花をアメリカに咲かせたいと言うことを思い立ちこぎつけた人は横浜に住んでいたアメリカの女史たちであった。
*アメリカに咲かせる夢を実現に動き出した最初の日本側の有名な人はタカジェスターゼのノーベル賞クラスの化学者高峰譲吉博士であった。
*そしてその最初の桜苗木の送付は1909年であったが、これは現地で病気で育たず、2回目の送付が行われた。それは個人ではなく東京市として行うとしたもので時の市長は尾崎行雄氏であった。その時の苗は3020本、見事に咲き、戦後何度かその分木苗木が里帰りしている。里帰りの花は東京は品川や横浜市とか金沢市などもある。両市の多くの人々の何度かの努力があった事との証左である。
*樹木の寿命は太い木であれば相当ながく生きられるが、環境や病虫や土壌とうとうの要因がある。今咲き誇っているサクラはソメイヨシノのクローンでそれはやはり押しなべれば60年らしい。種で繁殖は難しく接木によるらしい。
*長寿の木々は杉、楠などある。桜も同じく2,000年とか言われるものもあるがどう証明できているのか不明。銀杏は日本に入って1000年らしいので次のホープとなろうか

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ワシントン市への桜の送付の時は同規模3,,000本の桜をニューヨークに送りこちらも今もハドソン川に咲き誇り桜祭りがにぎやかだ。
日本の桜の米国での話をインドネシアの新聞が結びつけたことに縁を感じる。ニュースソースはDetik 木の名前はカナダのHemrockであった。 従いここには日本の名前はなかった。
写真も全部借用です。


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2017年12月15日 (金)

北京城と地下鉄

150年前の北京訪問記を読むことがあったが、それを北京街区の全体像で要約すると北京は皇帝の街、韃靼人の街、漢人の街の三つの町に区分されており、この三つの街は巨大な塔と城門を備えた高い城壁で互いに隔てられその全体を全長52kmの城壁が取り囲んでいる。

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というもので城壁をあまり認識してなかったので現在の城壁はどうなっているのかが気になった。まずは北京城であるが真ん中に紫禁城があり、これには4つの城門があり、それを取り囲むのが皇城でここの城壁には8つの門があり更にその外側を問題の内城が囲むが其処に9門あり、更にその南接する外城にも7つある。従いこの北京城全体は内城、外城合計16問が囲むことになる。
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ここを現在は地下鉄2号線が走って環状線を構成している。内外の接した線は地下鉄1号線の東西線?でここは内城の門を外城に2門が挟む(交差)する形で並ぶことになる。この地下鉄は1950年代にソ連の力を借りたりで着手したので、この時北京城の全ての城壁、城門、城塞は紫禁城を除き全て取り壊され、
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残っているのは環状線南中央の正陽門(前門とも)及び北西の徳勝門だけ及び北京駅近くの角楼(写真はnama.booより無断借用)だけらしい。地下鉄の駅名としては11個程残されているが、失政のお詫びのようだ。 1号線の真ん中あたりにある天安門は内部の皇城門の正面入り口であったものである。 古い1990年の絵葉書があったが使うと断捨離と思われ突き返されるリスクがあるので2枚ほどスキャン市後捨てたが、この地図には駅が三つ程あるものの今の路線図とは乖離している。今の路線図は19路線、400駅、1日利用客12百万人というから驚異的である。 よく見ると3号線は未だなく調べると建設中時代だったのかも知れない。(東京は13路線285駅、銀座線が1927年) 1号線の内城東西にある復興門、建国門は1939年侵略の日本軍が交通の為城壁に穴をあけて作ったものだと言う。こういう歴史の残し方は賢明である。わざわざ作ることはない。
ここで言う韃靼人とは漢人と対比するとモンゴールの一部満州人=女真人(=清の支配民族)だろうか しかしこの北京城自体は明の時代モンゴールの侵略の為作られたものである。清が作ったものではないのでトランプを案内したものである。


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2017年9月29日 (金)

アイリッシュ 沖の島

当たり前の事、だれでも知っている事だと確信はあったが文字にする機会がなかったのがカントリーの故郷はアイルランドではなかったのではないかということだ。そう思ってからずっと立つがその間、アイリッシュが付く文化の多さと魅力に惹かれこのブログでもアイリッシュコーヒー、アイリッシュ・ビール、アイリッシュ・ウイスキー、アイリッシュ・ダンスには近づいたがカントリーについては接点が不明でそのままである。
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そうこうしていると昨日テレビのクイズにアイルランドの一つの世界遺産が登場した。スケリッグ・マイケル岩というものでアイルランド語ではシケリグ・ヴィヒールというから覚えられない。保存したこの名前の文書を忘れて何だろうと都合3回も開けてみたのでブログにすることにした。
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アイルランド南端から立った16㎞の海に立つ急峻な岩(218m)の孤島で6世紀ごろから修道院として使われた時代はあるが12世紀以降打ち捨てられ巡礼のみが姿を現わす程度になっていたようで1996年世界遺産以降は、スターウオーズの撮影もあり、観光客も多く、渡島は制限されているそうだ。

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2016年4月25日 (月)

戻りのANA便とThe Revenant

『レヴェナント:蘇えりし者』という映画を、戻りのANA便で見ることが出来た。3行程度の紹介文では引き入れるものはなかったが、実際見てみるとその突き付けるような激しい暴虐・残虐シーンに目を伏せた。初期の西部開拓時代、アメリカ北部の雪原地帯を舞台に輸出用毛皮取りの狩猟軍団を襲う土着の蛮族との壮絶な戦いとその恐怖の中で起こる一人息子を仲間の一人に殺された猟師の復讐への一途さを描いている。Revenantとは亡霊を意味する、死地からのサバイバルであるが、それは最大級アメリカ熊に30分にも渉るかと思われた、襲われた死地からの再生だったのか、その仲間に生きたまま埋葬された死地からの再生シーンもある。猟師グラスを演ずる主役のディカプリオは2015年アカデミー主演男優賞を獲得したが5度目のノミネートの後やっと取れた名演技であった。
戻りのANAの座席はチケット購入時を一度はこれで我慢したH33であったが、24時間前の変更手続きを忘れ空港でその手続きをやったが係の女性は通路側で真ん中が空席の座席はないと言う、途中で助けに入った男の係はG35 にあると言ったが、そこではこの係り二人で揉めていたので変更を諦めたが、搭乗して見ると、将にG35だけが通路側で横が空席の小生の条件に合う最後の一つであった。CAにそちらに移らせてもらったがそこに居た老齢のイ女性には他の席(満席状態)にグループの人も居たので何か事情があっての3席取りだったのかもしれない。帰りにお礼を言ったが恨んではいなかったので安心した。
最近は本当に搭乗率が満席状態であるので、今回の行きー帰り便の幸運はこれが最後であろう。

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2016年4月 9日 (土)

ANAの座席の取り方

今回のANAは料金60,400円であった。料金表を見ると日程によっては大分違うのでこの点からは十分余裕を見て予約が必要である。他の航空会社あるいはANAを使い出す3年ほど前は1ケ月以上とか事前の予約は割引があったので早めにチケットを手配したが、ANAは1年ものだろうと全て同一の安い料金適用なのである。又最近徐々に腰がおもくなったか、予約取るのが遅くなり、今回は9日前になってしまった。予約と書いたが今は同時購入である。
座席も指定しようと思ったが全席不可能である。購入できたが座席がないのである。
ANAに電話すると色々事情を聞かれたあげくそれでもダメで当日のチェックインカウンターでと諦めていたが、前日の24時間前以降のオンラインチェックインがあったのを思い出し今回初めてやってみた所、一番好みの座席を確保出来た。安心と拍子抜けとちょっとの怒りの感じである。 今までオンラインチェックインはやらなかったのは荷物も多いので同じことだと思っていたのである。今回は荷物も少なく機内持ち込みだけの筈であったが、その機内持ち込みの小型バックを処分予定の中型バックに入れて持ってきたので、結局その手続きが必要であった。それはチェックインカウンターの隣に荷物預けカウンターがあり、そこで手続きしたので、結局同じことである。そしてオンラインチェックの際出力印刷したボーディングカードは取り上げられ通常のカードが渡された。荷物がない場合は出力したカードだけでいいはずだと思うが多分ダメであろう。チェックインカウンターも乗客は少なく、あるいは荷物預けカウンターも2組待ちであったので、時間的にも有利かどうかは不明である。オンラインチェックインで後1,000引きとかしてくれれば有利さはでるが。。

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2016年1月22日 (金)

雪からテロへ

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多分、冬の寒期の隙を付いたのであろうが昨日ジャカルタにやってきた。なんでこんなテロー騒ぎの時にとは思うものの購入済のチケットはどうしようもない。念の為延期出来るかANAに問い合わせるも、そのような対応は致しておりませんとのことである。
冬の早朝の空気は澄みわたりくっきりと雪化粧の富士も見え、その向こうのアルプスまでも見えるのではないだ00dsc_00000126


ろうかと思うほどである。
羽田は早くチェックインしてもすることがない。値段もお高く、気取った西欧の店ばかりで、その点成田はいい。h羽田にはない小物土産、缶ビール、明太子などもあり、軒を連ねている。こちらは店そのものが所々僅かにであり従い、どこも支払いで並んでいる。そこまでいくには遠すぎて動く歩道もないので、いつもこの電動カートにお世話になっている。話しかけて少し顔をこちらに向けるシャッターチャンスを狙っていたが、何のことはない、サイドミラーに写っていた。観光のアンケートのおじさんが居たのでこの動く歩道は要望しておいた。ジャカルタの着いても誰もテロの話をする人もなくいつもの通りの平常が戻っていた

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2015年12月15日 (火)

帰国便のANAとインターネット

ジャカルタ往復の都度、飛行便のことを書いているが、もう新しい事は何も起こらないだろうと思うと豈図らんや何かは起こるものだ。今回は満席事件とでも名付けよう。今回少し早めに出発時間より2時間45前にチェックインしその時まだ誰も並んでいない状態であったが、いざ座席を取ろうとすると前から後ろまで全席通路側はないとの通告、驚き、信じられず、なんとかゴールド待機組なることなどで陳情したら、なんとか一番前のゆったり出来る一番いい席をもらえた。そして全員乗り込んでドアもしまった時点までこの一番前の席は小生が一人で占める状態であった。申し訳ないなと思っていたところ二人組で別々に座っていた者がこの席に目を付け、二人で移動して来、一人席があっという間に3人がけに、そして彼らがいた2つの3人がけが二人がけに逆転する珍風景が発生したのである。この二人は韓国籍の大きな若者であったが、まぁ肘や膝を張ることもなかったので許すことにしたのであった。我々3人組は前がゆっくり出来る分、後ろにリクライニングするのは遠慮する模範的乗客になったのである。
寒い冬ま只中、背広一つで家路に向かったが、その京急線は冷房して居ることに怒りが高まり日本橋で抗議したが、職員も驚いていた。ひどいマニュアル勤務だ。
掲題のインターネットとは2週間未使用だったからか家でインターネット接続が出来ず翌日持ち越しとなり今日auショップに出かけたが、担当も、そこで電話した技術の担当も全然知識がないことにがっかり、そこで友人に電話して状況を説明したら適確なワンポイント助言で、あっという間に成功した。Auの人間には教えたくはないのだがパソコンもコンバーター(ルーター?)も人間も再スタートすることが重要なのだ。

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2015年11月27日 (金)

並走する飛行機

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今回のジャカルタ行きフライトは25分遅れの到着となった。驚く無かれその理由は一人の日本人の不幸な事故であった。さらなる詳細な理由は分からないが要するにチェックインした後搭乗を取りやめ、待たした挙句飛行機に積んで出発準備できている状態の荷物を降ろすこととなったのである。整然と積めこまれた200個ほどの荷物の中から預り証の番号と照合しながら短時間で探し出すことは不可能に近いはずで、荷物だけ帰りの便に載せ戻すことは出来るのに、それをやった全日空は他の飛行機への影響を含め、飛行機事故の原因にもなりうるので国交省への報告マターになるはずだ。
この不届き千万の行為により50分の遅れとなったが到着までに25分取り戻したのであるが、そのためスカルノハッタ上空では他の飛行機と並走するはめになった。写真を拡大すると翼の先に他の飛行機が見える。
今回も小生の荷物はチョークで要注意マークが付けられていたが、慌てて消すことが出来て事無きを得たが、ポーターが防犯カメラに撮られているよと纏わりつかれたのには閉口した。

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2015年10月20日 (火)

昨日の帰国便

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所在場所を明らかにするための行き帰りの空路ブログであるが、昨日のANA帰国便では、満面の笑みのキャビンアテンダントに迎えられての搭乗であった。朝食の後には自席まで来てくれて自作の記念カードを贈ってくれた。多分よくある何万人目のお客などと同じANAの接客プログラムだろうと思うかもしれないが小生の場合はその高津さんとの3回目の邂逅らしく、小生の名前迄覚えてくれて、記念写真も撮ったが、それは独り占めにしておこう。
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代わりにスカルノ・ハッタ空港のCafé のアテンダントの背中の写真をアップしておこう。ゴールドからプラチナ会員昇格寸前でガルーダと別れANAに切り替えた自分は、先月からANAのラウンジが使えずウロウロしていたのであるが今回偶然良いRestoを見つけた。Café Lucciniであるが小生が嫌いなCafé(ここではOld Town、White Coffeeである)でなく、ビールもあるし食事もSamosaからSteak類、或いはSpagettiなど選ぶのに迷う位である。冷房も利かしたこのRestoでTVなど見ながら喉を潤すと格別である。特にLotteのまがいのDuty Freeを横目で見ながら、そしてAku-Kamuと言うCosme ShopのSPGにお説教をたれた後であるからである。

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