2019年4月 2日 (火)

同盟から共同の棲家・日比谷市政会館

 

Antaraと共同通信を比較したが日本には時事プレスもある。両者はいわば兄弟会社である。明治期、大手新聞社が共同でニュース蒐集の為に作ったNews Agencyで新聞聯合社や日本電報通信社(電通)があったが、これが更に日本の軍国化の進展により合体し国策定会社となったのが同盟通信であったの17 だが、GHQの占領に合わせ自主解散し新設されたのが一般ニュース担当の共同通信と経済ニュース中心の時事通信の二つであった。

 

同盟の本社は明治期の後藤新平東京市長の発案で1929年完工された地方自治研究の市政研究会の市政会館(半分は併設の日比谷公会堂)呼ばれた建物に発足の1936年のあとここを根城としていた。戦後この二つの通信社は大きくなるに従いそれぞれ自社ビルを建造し、共同は虎ノ門共同会館ビル、時事通信は新橋の元銀座東急ホテルの跡地のビルに転出し、現在この建物は記念建造物として維持されている。この間一寸覗いて見たら弁護士事務所などがひっそりと真っ白な壁や天井に堅牢に守られたたずんでいた。共同通信は今ジャカルタにも支局を持っているがその事務所はなんとAntaraのビルである。縁があったというよりやはりローカルのニュースはAntaraから頂くのが便利だからである。ここにはロイターなども入居している。

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2019年4月 1日 (月)

同盟からAntara通信社の頃

インドネシア独立宣言時代のインドネシアの通信・報道は日本が牛耳っていたことになろうがそれは多分同盟通信がニュース配信の通信を、新聞報道はジャワ新聞や昭南新聞社が行っていた。ジャカルタのそれらの施設は今でいえばRRIラジオ・リパブリックやアンタラ通信社(パッサールバルー)或いはジャワ新聞はハヤム・ウルックのGajah Tunggal社がある所にあったのであろう。ここの住所はHayam Wuruk No.8で当時のジャワ新聞社の住所を復刻版などで見るとMohlenvliet Ost No.8 であるので道路名だけが変ったと踏んだうえである。RRIの場所はオランダ時代のNirom社があった所だろう。バルーにあったアンタラ通信(Antara News Agency国営)はその後現在はムルデカバラットのエネルギー鉱物資源省の隣にある。

 

アンタラは当時オランダのAtena社のローカルニュースカバーの穴を埋める意味からもアダムマリックなどが1937年に設立し、日本時代は同盟が引き継ぎそして国営として接収したものである。

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2017年業容は売上2,865億、総資産1,801億ルピア、従業員603名++で1,000強か、配信先70ケ所、国内支局34、海外は3ケ所である。

同盟はその後敗戦により解体され現在の共同通信社と時事通信社に分かれた。比較も出来まいが共同は売上407億円、従業員1,668人、国内支局47局、海外52ケ所、あとは続きとしよう。

 

 

追記: 今日はいじっていたら写真アップに成功、又手順をわすれたが。。   少し前に戻って修正してみよう。=>OYO Suryaホテル

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2019年3月22日 (金)

独立宣言の発表の放送

伝説のモー・ディアとしたのはあの独立宣言のラジオ放送であるが、あれは諸説があるようだからである。アダムマリクの回想録には“私は宣言文のカードコピーを横領しアンタラ通信の若い記者アサ・バファギーにこれをパンフルー・ルービスに届け同盟のモールス信号機で打電するようにと命令した。。。1710時。。1時間遅れで打電することに成功した。”とある。 しかしついdetiknewsは以下の様に解説している。「歴史家A.GonggongはBM Diahは記者の仕事をしている仲間と一緒に宣言文を広める役割を果たしたと語っているがDM Diahはそれ以上に確かに前田提督の邸宅で宣言文の原稿化を目撃した数少ない人物の一人で、彼はジャーナリストとして、その後Bung Hattaの直接の命令でインドネシアの独立のニュースを広めることに関わっているのである。宣言文の原稿は最後にBung Hattaが口述しBung Karnoが手書きしたあとBung Sajuti Melikがタイプし、そのあとゴミ箱に捨てられた。 そして. “私の夫はその草稿を取り上げ、そのしわを伸ばし、持ち歩いていたノートに差し込みました”と、BM Diahの妻、Siti Herawatiは思い出を語ってくれた。私の夫はしかし宣言文の読み上げには残念ながら立ち会えず、その時間、当初予定されたイカダ広場にいたからです。1945年9月までインドネシアにはまだ多くの日本軍が存在していたので、BM Diahと他の青少年指導者たちは武器を取り、Djawa Shinbeon Sja(追)が発行した”Asia Raja”(日刊現地新聞)の印刷機を接収することに成功し1945年10月上旬に、メルデカ新聞を発行する事になったのです。と言うことでモールス信号に使われたのはカーボンコピーであり、新聞の種になったのはオリジナルの手書き原稿であったのだろうと言うこととしたい。肝心のラジオ放送はJusuf Ronodipoeroがまだ憲兵隊が支配していた危機のなか17日夕刻行われたことは既にブログにしていた。(2012年1031 ()もうひとつの独立宣言ラジオ放送)のでこのブログは追補になる。

 

追記:ジャワ新聞社と言うのは日刊の現地紙Asia Rayaと日本語新聞 Jawa Shimbunを発行していた新聞社である。月刊のDjawa Baroeと言う雑誌も発行した陸軍第16軍の官製新聞社で朝日新聞社が担当した。

 

 

 

 

 

 

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2019年3月18日 (月)

伝説のモー・ディア

ヤーコブ・ウタマの前の代のジャーナリスト大物はモー・ディーアであろうか。正式にはBurhanuddin Mohammad Diahでスカルノ末期から第1期スハルト時代に通信大臣を務めている。1917年父が働くアチェ生まれで、生まれて1週間で父が亡くなり母も8歳の時に亡くなり伯母に育てられた。17歳でジャカルタに出てダウエスデッカーに私淑した。その後記者や出版に携わりながら日本占領時には軍のラジオ放送局につとめた。
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独立宣言の後Joesoef Isak や Rosihan Anwarらと共に日本のアジアラヤ印刷の機械を押収したが日本軍はなすに任せた。彼は独立宣言文起草時には呼ばれて目撃証人となりラジオ放送にも関係している。そして1945年10月1日には日刊紙Harian Merdeka発行にこぎつけた。 1952年の10月17日事件以降、彼の新スカルノ国民主義、反軍主義で軍ににらまれ、場所を転々とすることになるが、最後は副社長Isakのスカルノイズムが災いしオルデバル政府に発行禁止にされ編集者(redaktur)のAnwarは別にPedoman誌を発行することとなった。一方彼の妻Herawatiと共に英字紙Indonesian Obserberを発行していたがこれは1966年ピーターゴンタが購入することとなる。
彼は1959年以降チェッコを振り出しにハンガリー、英国、タイの大使を歴任することとなりスカルノ退陣後はDPR議員から更にDPAの顧問団となった。
1996年に没したが78年にはスハルトから大勲章 Bintang Mahaputra Utamaを与えられているが。英雄叙勲は未だのようだ。


尚現在のHotel Aryaduta Jakartaとなったホテルは妻の実家の土地に夫婦が始めたPT Hotel Prapatan-Jakarta事業(最初はアンバサダーホテル)からであった。
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2019年3月15日 (金)

私の北の観光バス路線

バスウエーの路線数にはFeederなどが入っており、Feederなど接した記憶もないし旧来のものだろうと見下したが、記憶にないとどころか3年ほど前には立派な新路線を北のカリブサールやファラテハンで見て、写真迄取っていたことを思い出し、我ながらうっかりしていた。 この路線は1A号線になるがルートをよく見ると小生の観光用路線となろう。
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多くの日本人は市の南に住んでいるだろうが其処から1号線に乗ってKota駅に向かい、ここを出発点として、次のカリブサール・バラットに行けるがここから西に回ってBandenganを通ってPluit、そこからMuala Karang、PIKのWaterbom、 Tsu Chi聖堂であのD島に渡る地点(Fresh Market PIK)でユーターンし、来た時と少し道を変えてMuala AngkeのBay WalkやWadukへ、そしてLuar BatangからPakinへ

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そして元のカリブサールの釣り橋からファラテハンの広場を通りコタ駅に戻る周遊線である。途中降りるポイントはいくつもあるので数日かかるだろう。
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ファラテハンの広場のバスストップ(イ語ではHalte)はこの道(カリブサールチムールIII)添いにある古い建物を改装したコーヒーショップをブログした時、このハルテを見つけ、後で調べるつもりだったのであろう。 

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またコタ駅は賑やかな地下道や遊園地気味のスポットもあり、ちゃんとインドネシア式のトイレもあるから安心だ。
今日はこれらコタトゥアの写真を紹介するだけにとどめた。


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2019年2月22日 (金)

Singodimedjoと言う英雄


2018年の国家英雄の報道記事が昨年11月の英雄の日以来保存したままだった。その前の2017年も余り感銘を受ける人がなくブログにするのは2-3年ぶりとなる。序にジョコウィになってからの2014年から2018年までで英雄に叙勲したのは20人にもなる。聞いたことがありそうな名前は無理をすると8人ほどともなるが日本の国民栄誉賞ではないから平均寿命が延びるの従い種が尽きるのではと心配する。ちなみに今までの英雄叙勲は全て独立前に生まれた人で既に没している人である。

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2018年で聞いた名前はカスマン・シンゴディメジョKasman Singodimedjoである。
やっぱり彼も日本占領期までさかのぼることになる。日本軍はイスラムを利用し統制するためムハマディアやナフダトールウラマなどの既存のイスラーム系諸団体を統合させたがその名前はマシュミと言い彼はムハマデイアのリ-ダーであった。又日本軍が作った義勇軍PETAのジャカルタ地区の大団長であった。
彼はマディウンの義勇軍反乱の審理に参加させられている。その後独立後1945-1950の間はKNIPの委員長Ketua Komite Nasional Indonesia Pusatを務め或いはインドネシア検事総長や法務副大臣となっている。
その後のマシュミはマシュミ党と言う政党となったが彼はムハマディアの重鎮として73歳で亡くなる1982年迄スハルトに批判的な姿勢で党の政策(Biro Hikmah)を導いた。
1980年総選挙法制定の際に,「請願26人グループ」の結成し民主化を求めたのもカスマン・シンゴディメジョであった。

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2019年2月 1日 (金)

ジャカルタの築地ムアラバルと日本の援助

ジャカルタの築地 パサール・イカン・モデルン


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ジャカルタ新聞が北ジャカルタのムアラバルのジャカルタ漁港で建設を進めていた中央卸売市場「パサール・イカン・モデルン」のオープンを報じていた。2017年末に着工し日本人専門官がデザインや衛生面とかアドバイスし昨年末完工、鮮魚卸売用のブースは900あり、フードコートを備えるなど観光地化を目指すとあった。


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Muara Baruと言えば2010年に訪問したことがありブログにしたこともあるが昨日高速からここまでくる車がずっとカメラを回していた同乗記をブログにしたばかりである。
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この一帯は日本の円借で大整備したものでスンダ・クラパのずっと北・東にプルイットのワドゥックの湖沼の水が流れている湾の東西に長く伸びる二つの岬状の土地の東側の方である。
西の方の岬はこれもブログにしたタイタニックを連想させる高層コンドミレガッタのある岬である。この二つの岬で湾状になっているが、
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むしろ東の岬の先端も防潮堤も備えた湾になっており、Control Towerも備えた漁港でむしろこちらが正確にはPerabuhan Muara Baruと言うのであろう。
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同乗セダンブログの終点はこのコントロールタワーであった。(昨日のブログ写真参照)近くにスシマサもある。
新パサールイカンは2017年の年末に地鎮祭を行い、1年で完成した驚異の速さである。地鎮祭には今のジャカルタ市長が挨拶したが、なぜかシドニーの市場に触れただけであった。今年の開所式にはジョコウィ大統領が来賓され祝辞でちゃんと築地に見習うとか日本に触れていたが、二人の差はさすがだなと思ったことだった。

この場所は先に触れた右側の岬の根元で岬自体が日本の金で開発されているが根元当たりは日本の手が入ってなかったかもしれない。

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ただすぐ湾側の隣が昔の卸売市場だからギリギリの境界であろう。この間のブログで掲げたゲートを入ってすぐ左側である。

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但しゲートは二つあり最初の手前のゲートはPelabuhan Perikanan M.Bと書かれているが、二つ目のゲートが入場の料金所であり新パサールイカンは料金所の手前(つまり外)である。この二つの間の左側の住民のバラックなどを壊して作ったものでGoogle Mapは建設中のものであった。


少なくとも旧パサールイカンに関しては日本のJICAや多くの専門家たちが汗と涙を流して来た歴史があり、今それはJicaのジャカルタ漁港40年史やオリエンタルコンサルタンツグローバル社のJakarta Fishing Port 2015(折下氏)の記録に明らかである。


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2019年1月17日 (木)

スマランのコタ・トゥア

バタヴィアのコタ・トゥアは世界遺産の推薦から却下されたが、次は2020年のスマラン市が提案されている。 
スマランはコタ・トウア(古都市)とも言う場面はあるがコタ・ラマ(旧都市)が正しい。そしてそれをGoogleで検索するとLetjn. Suprapto通りの周りに多くの商店・レスト・銀行・図書館・その他多くの建物がマークされる。その中心は昔ブログにもしたGreja Blenduk (ブレンドゥク教会)とその裏側辺りである。
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そこはスマラン第一のスポットLawang Sewuのある青年の塔のサークルからやって来るPemuda通りとImam Bonjol通りが合流し運河を渡る橋(Jembatan Berokオランダ時代の橋)から始まる。渡ってまっすぐ行くのがSuprapto通りで右折れはSendowo通りで左折はEmp Tantular通りでSendowo通りのPTPN社の建物(写真の右端)やBatik Centerについてもブログした。
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あの当時教会裏の地区は大掛かりな美装工事をやっている最中であったが今は完成した町並みである。そして地図にはBlendukの教会名はなくProtestantの西ジャワ教会とそっけなくなっていた。またその前の小さな公園はSrigunting Parksと言う名前である。更に地図では当時無名の建物が今やこのKota Lama Semarangの代表格となっているようだ。
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一つはMataba Kota Lama Semarangと言うが多分結婚式などにも利用できる建物ではないだろか。
又Sendowo通りではあるが昔WikipediaのKota Lamaの代表写真になっていたPTPN XV(ブログ済)の横のSuprapto通り角の建物はKantor Phapros Kota Lama Semarangと言う名前の綺麗な建物となっている。PT RNIのグループ会社が入居する際にリノベしたのであろうか
ジャカルタのコタ・トゥアが世界遺産に落ちたニュースは先日淡々と書いたが日本語のネットで確認するとこのニュースは出ていない。インドマルコの2018年の1年間の日本語ニュースを「コタ」をキーに検索するとコタ・ジャバベカなどKotaを普通名詞のTown或いは独立都市ニュータウンの意味に使われたものしか出てこない。
スマランのコタ・ラマの世界遺産提案はジャカルタと同じ運命にならないことを祈っている。


追:上記 MatabaはGoogle Mapからの名前であるが、Situs Budayaさんの写真ではMarbaとなっている。
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2019年1月14日 (月)

コタ・トゥア 世界遺産

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コタ・トゥアとは古都市であるが、ジャカルタでコタと言えば北部の華人が多く住む地区一帯を言うが、更にその中でもファタヒラー広場やカリブサール(大運河)を中心としたオランダ植民地時代の建物が多く残る地区を特にコタ・トゥアと言う。バタヴィア城を囲む一帯でコタ・インタン(ダイヤモンドの街)とも言われたが、その賑わいが徐々に拡大北上し汚染が進んだので新しいバタビアの中心を南に移し現在の独立広場を中心とする新都心ウェルトフレーデンに移したのが1808年のダーンデルス総督時代でバタヴィア城の城郭を取り壊し新都心建設に使ったという流れがあった。
特にカリブサール地区は長く放置されたが2010年頃からオランダの援助があったりで力が入ってきたがジャカルタの財政力が付いてきてからは少し行き過ぎの観光化が進んだようだ。カリブサールは韓国の運河埋め立てを真似したのか、大改造が行われたのが象徴である。建物の改装も保護から観光開発にポイントが移ったようで、その中でジャカルタベイ埋め立ての17新島計画も考慮されコタ・トゥアの世界遺産申請は昨年推薦を受けられなかった模様である。世界遺産への提案(申請)には沖の千の島(の内の4島)を含んでおり正式にはAge of Trade: Old Town of Jakarta (formerly Old Batavia) and Four Outlying Islands—Onrust, Kelor, Cipir and Bidadariであった。オランダVOC時代は日本を含む太平洋貿易ではバタヴィアは最大のボリュームを誇ったと言うAge of Tradeをポイントにしたが、ユネスコは特異性がないなどと評価したようで、アメリカの様に脱退したくなるような話である。
日本の長崎は世界遺産になっているがそれはバタヴィアあってこその話の筈である。少しポイントが変えて隠れキリシタンであるが。。。ひょっとするとコンサルタントを使えばよかったのかも知れないとふとよぎる。
写真はJakartapostより借用、Pontoonで掃除をしている。運河に降りている観光客は見当たらず。

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2018年11月10日 (土)

オアシスはもうない

先日変わりゆくラーデンサレー通りで消えゆくオアシスレストランに触れたが、a tribute portfolio hotelもあることだから復活もあらんと、昔のスクラップでOasisについてTributeしよう。
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1995年Jakarta Postが掲載した記事と写真からである。
この建物は1928築、最初のオーナーは茶・ゴム・キニーネ商人のBrandenburg van Oltsende、その後は1968年Carol Gandanegara氏が購入しレストランをオープンした。1978年にはGolden Mississippiの故Tirto Utomo氏が購入した。3人ともアートやアンティ-ックを大切にしてきたが散逸しないことを祈る。
RijstafelはDes Indes Hotelのテラスで供されていたものである。12人の女性がそれぞれに持った12皿の様々な料理を取り分けてくれる。指揮するのは当時83歳のMaria女史でこのころのセットメニュでRp125,000だった。バタックのバンドは二組AmoresとYan Sinambelaだった。クリントン大統領夫妻も訪れている。
PS誌を外れると安部首相夫妻の写真もネットにあった。

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