2017年8月15日 (火)

Puskurbuk Balitbang Kemdikbud?

前回の続きみたいなものであるがGoogle Mapで財務省の辺りを見ているとPuskurbuk Balitbang Kemdikbudと言う建物があり、この意味を問うクイズに出せばいい問題だとここに挙げるが 後ろから言うとKemdikbudはKementrianが大臣府でありdiklatは教育訓練のpendiklat、budはBudayaan文化の合体なので教育文化省の意味となり、BalitbangはBadan Penelitian dan Pengembangan 審査・開発庁とでもいうのか多くの省が持っている機関でこの教育文化省の他に、運輸省、法務人権相にもある。
最後がPuskurbukであるがこれはPusat Kurikulum dan Perbukuanであるが会計なのか図書なのかちょっとわからないが前のカリキュラムからすると図書なのだろうか 
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これを調べると住所はJl. Gunung Sahari Raya No.4である。思い出すことがあってKali Lio辺りで昔Barai Pustaka(国営出版社)を見に行ったことがある。あれは確か入口はGunung Sahari側である。このBalaiの敷地に、似たような建物がいくつかあり、それらもちゃんと写真に取っていた。今その建物の看板をよむと 最初のがBalai Pustakaで2011年8月撮影、
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次が文部省 BALITBANG で2011年3月、
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最後がPuskurbukでこれも2011年3月撮影で、同じ年に2回も来ていたのである。名前はみなフルネームで表示されている。やはりここは財務省ではなく教育文化省の敷地で従い入口や住所もGenung Sahariとなるのであろう。
しかし今日もこれだけの文章を書くのに調べもの・探し物で6時間もかかった。その最大の不思議はBalai Pustakaが消えていたからである。これについては疲れたので又にしよう。


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2017年8月10日 (木)

マラミスビルで解った事

昨日は1日中グルグル探し物をしていたので遂に右手首に腱鞘炎を起こしてしまった。ウエブサイトには自分のものも含め多くの間違いがあるので、少なくとも複数の確認を取れないと事実確認はできない。結局1日で何も新発見はなかったがそのいきさつを書いて見よう。
問題はGedung Maramisに限ってみる。
*ジャカルタの史跡保存建物に「Gedung Maramis II は元、軍のコンコルディア会館で、現在はDPR議事堂を経て1960年に取り壊される」というものでマラミス会館ビルにNo. II があることは初めて見たわけである。
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それでMaramis II をサーチすると所謂ダンデルス会館やワルダナ会館ビルなどがヒットする。これは全部間違いである。ここで色々見てみても特別な新発見はなく、過去に小生が確認したマラミス(IIのつかない)会館ビルこそあのダーンデルス会館ビル(本館)であることを財務省サイトで再確認し更にそれは2010年の法律で保存建物指定がされたという追加の証拠のみであった。
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*Googleでマップの方を見るとマラミス会館ビルの名前は向かって右の6階建ての建物に付けられている。GoogleによるとこれがIIなのである。これは間違いで現在はこれがワルダナ会館ビルである。このことは昨日も経済調整庁のホーム頁で再確認したので小生は自信がある。Googleマップも毎日変わって行く街並みをアップデートするのは不可能に近いものであり、修正忘れだと思うと多分そのような時代があったのであろうと慮ってあげることも出来る。つまり経済調整大臣府は昔ダーンデルス会館ビル本館に居た(財務省と同居)こともあるが、このワルダナ会館ビルは財務大臣が執務するビルとして6階だで新築されMaramis IIとされていたのであろう。
*Google Mapは拡大すると建物の名前等詳細が出てくる。そして上記Maramis IIの横にGed.Wardhanaの名前も出てくる。そして同時に二つ表示されることもあるが建物自体は同じである。そして他省との合同教育訓練機関LPDPが表示されるがこれはワルダナ機関の2階とあるので2階だけの賃貸であろう見る。


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*Maramis II があるならMaramis I もあるだろうと又サーチするとこれはGooglが勝手に綴り間違いとしてIIとして先ほどのMaramis IIの時と同じ結果になる。或いはまた地図を覗くと近くのモナス付近にMaramis Foundationという高いビルを発見した。これがそうかと胸躍ったがこれはボーイスカウトのオーディトリウムの裏であり、小生は過去にこれはボーイスカルト会館のものと断じていた。今回はそのビルの入り口や看板を探したがそのビルの裏側なチリウン河でありそこにアクセスするにはボーイスカウトオーディトリウムからでないと入れないように思えた。オーデトリウムは2階建ての大講堂みたいなもので付属的にたてられるもので且つここの講堂とビルの屋根のデザインが似ていることから一体のものであると判じた。
関連ニュースなどからも攻めたが日付がなかったりで事実関連性を追求できなかったこともある。
1日フイにして残ったものは腱鞘炎とは情けないが、1日も掛けること自体が自分の一瞬一瞬の物忘れに原因があることも十分わかっている。

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2017年8月 3日 (木)

鳥居とガプーラの共通点

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インドネシアでは或るカンプンや地区に入る道々で必ず門がある。入口だからPintu Gerbangとでも言おうか色々デザインや工夫されたものがあり、良く写真に収めたものだ。これにはドアや鍵があるものではないので日本では鳥居を思い出す。鳥居は神域と俗世界を分けるもので道はせいぜい参道だけであるが

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インドネシアのは地域をつなぐ道で境を表すので戸はない。施設にもそういう門はあるが個別の住宅や施設の入り口なので門番がいるか開閉装置があるのが多くなる。インドネシアと日本の事ばかり考えていたがパリにも中国にもどこでもあり、特別な謂れはあまり論述できるののではない。日本人のかたにバンドンなどで日本の鳥居があるはずだと尋ねられたが見つけることはできなかった。
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しかし当時のスラバヤにあった鳥居の写真はあった。

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又ジョグジャでのジャパンウィークで大きな鳥居を建設した話やインターネットを見るとインドネシア人の鳥居に対する関心も高いことを感じた。そして色々考えると日本とインドネシアのそれに決定的共通要因を見つけた。それはインドネシアの割れ門Gapuraに見るようにそこには開閉装置はなく基本自由に出入りできることである。凱旋門などは本当は城門で、イベントのため作ったもので飾りである。


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2017年8月 2日 (水)

続 スヨノとスポノ


昨日のブログでスポノについては何も書いてなかったが、小生のブログでは既に登場していた。
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それは「ガルーダの誕生秘話のスポノ」というもので1984迄16年ほど長くガルーダの社長であったがそれより先、ガルーダの誕生となった最初の飛行機はダコタ機であるがこの飛行機の引取は彼が飛行士として行ったことを紹介している。そうするとスヨノの説明も物足りないので探してみると1948年のオランダの第2次侵攻の時、スカルノハッタはジョクジャでオランダ軍に拘束されたがこれがあることを見通して緊急政権(Pemerintah Darurat PDRI)を組成して1949年ブキットティンギで宣言させたのである。その首長はSyafruddin Prawiranegaraであり、このスヨノは空軍の参謀長であった。このPDRIの軍はスディルマンを国軍司令官に、スマトラ軍はヒダヤット将軍を前面に、そしてスヨノ達による空軍のラジオ放送で未だインドネシアは健在なりと知らしめた訳である。ニューデリーとシンガポールが国連交渉を仲介し又スヨノとスポノは海外より資金援助を働きかけた。

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2017年8月 1日 (火)

チリリタン事件のスヨノとスポノ

手持ちのインドネシア年表に1955年12月14日つけでPeristiwa Komodor Muda Udara Suyonoと言うのがあり、小生がコレクションしている3文字男性名だと飛びつき、ある話に出会いました。なんの意味もないがアップしておきたい。
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「陸軍の歴史だけでなく空軍の発展においても内部抗争は起こった。事件の最初は将官会議でそれは空軍准将(? 准コモドール)Hurbertus Suyono と空軍将官コモドールのWiweko Suponoの間で空軍参謀長KSAU Suryadi Suryadarmaの指揮に付いての批判から起こったものである。
それは参謀長は多くの将官の育成でオランダと比較し日本の方式を好んでいたのであるが、これにスヨノが批判し、空軍本部はスヨノを召喚し海外で学ぶように命令、罰則を与えられたと思った彼は国防省や国会国防委に訴え、彼がしたことは空軍の良かれと思ったと説明したがむしろ事態は悪化、自宅軟禁とされた。しかし内閣がハラハップに代わると風向きが変わり新内閣は彼に副空軍司令官のポストを与えこれがより深刻な対立をもたらしたようです。
1955年12月14日には、空軍Cililitan基地での就任式で大臣がsutoyoの宣誓をうけるとき兵士の一団がやってきて同意しないと叫びました。スポノ士官も襲われ就任式は失敗に終わりました。司令官は辞任を申し出ましたが大統領は受け付けず、副司令官の席は当分空席とされたということである。
スポノも初めての名前でこれで二人に似た名前はスヨトやスポモがいるが全体では14人になった。
この話はSenagung Wakutuにあったものだが、作者は元軍人かちょっと見ても以下が目に付いた。
 SURAT BERTINTA DARAH DARI OTO ISKANDAR DI NATA, S...
 FITNAH PKI TERHADAP BUNG TOMO
 AIDIT BENCI HATTA

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2017年7月31日 (月)

ダルル・イスラムのリーダー

南スラウエシのダルル・イスラムの首謀者と似た名前でAbdul Kahar Muzakirはパンチャシラ憲章を署名した9人のリーダーで既に詳細紹介したがAbdul Kahar Muzakkarの方はつい忘れていたようだ。彼はボネ湾のLuwuの学業後Soloに出てきたがここでMuzakirにも会いそれで名前を変えたとも言われる。

ダルルイスラムはイスラムの家の意味であるが、西ジャワ・ガルット中心にイスラム国建国を目標に1942年にカリスマ過激派のカルトスウイルヨ(Sekarmadji Maridjan Kartosoewirjo)により組成されたヒズブラー(表向き日本軍への協力は見せたが)と呼ばれる団体であった。(ずっと後に再興されれ現代のJemaah Islamiyahを生んだと言われている。)
西ジャワはオランダ主導で傀儡政府パスンダン国が設立されていたがこれに反対していたムスリム住民はカルトスウイルヨの指導で1948年のレンヴイル協定に反対し1949年8月7日建国を宣言した。
こうした動きに呼応し南スラウエシでもAbdul Kahar Muzakkarに指導され、またカルトスウイルヨの誘いにのり1953ダルルイスラムに参加、アチェでも1953年イスラムの建国宣言が行われた。
その間、1950年4月Andi Azisのマカッサル反乱があり、その時出動したスハルトがハビビと邂逅している話は有名である。
又1957年ジャカルタでチキニ小学校でスカルノ暗殺未遂の爆破事件を起こしている。
その後指導される民主主義の動きやスマトラ・マナドの革命政府反乱に移って行き、戒厳令で中部ジャワ、南カリマンタンなど各地のダルルイスラムの団体をつぶしながらヤニ大佐の野牛部隊に翻弄され、1960年にムザカールが、1962年にはカルトスウイルヨが銃撃捕獲され、カルトスウイルヨは簡便裁判の後銃殺された。(埋葬地不明のままである)、ムザカールの死体は杳として発見されず生存がうわさされる中実際は最終1965年に射殺され、この時代のダルルイスラムの争乱は終結した。
大分混乱しているようだから此処までとしよう。


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2017年7月26日 (水)

南マルクの領域

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北マルク州の南は通常南マルク州と謂われそうなものだが北マルク州は元のマルク州から独立したので抜けた後のマルクはマルクのままである。色々な呼び方があるので一つ一つ定義はむつかしいが、まず北マルクはスンダ・アーク・セラム海の北でその南が南マルクになるが、厄介なのは南や東の境界である。しかしこの海域はバンダ海と言われる島々が輪になるようになっており、南はチモールレスタリ国や東はパプア州の近くまでの島々のほとんどを含んでいるのである。そしてその中心(少し北)にバンダナイラがあるがgoogleでも拡大しないと見えてこない。この連環を西から島々を挙げるとブル島、セラム、アンボン、Kai諸島、Trangan(この近くにアルーがあるはずだがGoogleでも出て来ない)、ここから西に回り込んでJendena、Wetar となる。ここまでがマルクである。この先の西のAlorはヌサテンガラであり、ワカトビ・ブトンはスラウエシである。
香料諸島、モルッカ諸島 (Moluccas)、マルク諸島はこの北と南とマルクを合わすのであろうし、又独立抗争をやめたと思われない南マルク国(RMS)はこれらの中の南マルク、それもブル・アンボン・セラムを中心とするのであろう。実効支配がないから詮索しても仕方がない。

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2017年7月25日 (火)

Dhanapala 会館はスリランカ?

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財務省のコンプレックスの中にちょっと由緒ありそうなファーサードの建物があり、名前はGedung Dhanapalaという。Dhanpalaとは何ぞやとネットを引くと殆どがスリランカの外交官*の名前だけが出てくる。まあかろうじてこのサンスクリットの意味が'munificence‘寛大と言うことが解った。もっと深い意味があるようで寛容、不関与、自由というとすれば、少し問題もある。何故ならここでは色んな儀式なども行なわれるが外部には結婚式場として使用されている。自由で喜ぶのは男とすればの話である。財務省のサイトでこの写真のビルの1~2階部分がそうかと思ったがそれは間違いで、これは本省のジュアンダビルI及びIIで、Wahidin通りの角から撮った風景である。

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Genung Danapalaはこうした高層ビルでなくBalai(会館)としてグスドゥルの時代2001年に建てられたこちらの写真の方であった。ここで左に見えるのがジュアンダビルI&II、そして右手に見えるのは予算総局が入っているGedung Sutikno Slamatである。

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住所はSenen Raya No.1故 Wahidinからでなく専用の入り口・出口を持っているようだ。Senen側から撮った写真がこちらである。

*1938年生まれ、スリランカの外交官で、国連職員。2006年現在は軍縮問題担当の事務次長を務めている。2007年からは、パグウォッシュ会議の会長[1

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2017年7月19日 (水)

Kembang Jepunと柳港花街


先日から北スマトラの成立の歴史的背景などを見ていたが 北ボルネオ独立運動から関連なくサンダカンに行き、さらに当時日本の悲惨な娘子軍が蘭領印度の隅々までばらまかれていた歴史に行きついた。そしてたまたま手にした蘭領時代の日本人が撮影して作った絵葉書のコレクションの本の中のKembang Jepunと言う地名に出会ったのである。
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その本では1911年スラバヤで夕方になると日本の女性達が数台の馬車に乗って繁華街を練りまわる風景に出会った旅行者の話が出ていたがここは今でもKembang Jepunと言われる通りである。明治中期から始まったからゆきさんは女衒による強制連行と出稼ぎの為に、まさに日本の男が作り出したもので当時最大の都市スラバヤやメダン(デレ)も大拠点であったようだ。Kembang Jepunは小生も昔スラバヤ一人旅行の時ここをベチャで乗り回し「SurabayaのGerbang」としてブログしたが、スラバヤの観光案内などでは華人の街として記述だけで“日本”の文字も“花魁”の話も出ていないのでほっとする。

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JepunはJapanであり、Kembangは花、特にカンボディアの白い花でバリ女性などが髪飾りにするあれである。しかし花とはやはり日本人がいう花魁や花町(ここは実際には近くのKetapangにあったとか)から日本人が名ずけたもので現地にはその意味はないものと思われる。ただ、欧米などではどうかはしらないが、中国には「柳港花街」という言葉があり、日本の花街とか花柳界は中国からのものであったことを知った。 この花街が閉鎖されたのはオランダ植民政府の1913年閉鎖令であった。以上今頃昔のこのような話をするのは、日本では小生ぐらいだと認識している。

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2017年7月17日 (月)

トコティガの200年

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6月30日のブログ「私のToko Tiga」で既にこのトコティガは見つけていると報告したが話の発端はJP誌の古色蒼然たる写真からであり、これの現在をさがしていたものである。何度か動きまわって突き詰めたジャラン・トコ・ティガの謂れはやはりそういう名前の店があったからで最近中国からわたって来た移民の成功物語が出版されていたことが助けになった。
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それは1819年迄さかのぼる。名前はOey Thai Loと言い現代から言えばもう6代~7代も前になるのだろうか。まだ存命のひしゃごに当たる78歳のRobert Wijayaはここには住んでいるわけではないが父の話から断片を聞くだけで、道の名前にもなった経緯とか現在につながる成功の血脈を訪ねて資料を集めたのであろうか 本はAnak Tukang Cukur Miskin dari Fukien Menjadi Taipan di Betawiというものである。
彼自身もPT Tigaraksa Satria tbkを創業した実業家であるが、その血脈は辛抱強さ、寛大さ、粘り強さに集約されている。インドネシアにやって来たLoはタバコ屋を始めたがある日村の子供が遊んでいた凧の紙に数字が書かれた印刷物に気が付いた。彼はそれをオランダ政府発行の債券であることを見抜き子供の家にあるすべてと銅銭に引き換えてこれがさらなる元手でタバコ屋を全ジャワに広げることが出来た。そしてこのパンチョランでも地所を買いタバコ屋をやっていたのが今の名残である。


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その地所もその後6つに分割されたりしたようだがその名残を残しているのが小生のアルバムにもあったLautan Mas(一番右端の家)である。
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目安になるのは前の運河の向こう側のホテルであるが、これとて、いずれなくなるのであろう。
小生にはもっと早く知りたかった話であるが、血脈は変えられない話でもある。
(追)その成功のLoさんは50で亡くなったが遺産を食い散らす子孫もいたような話も別にあった。。
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調査の途中で出てきたあのGrosirの横の建物もあった。


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