2018年11月10日 (土)

オアシスはもうない

先日変わりゆくラーデンサレー通りで消えゆくオアシスレストランに触れたが、a tribute portfolio hotelもあることだから復活もあらんと、昔のスクラップでOasisについてTributeしよう。
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1995年Jakarta Postが掲載した記事と写真からである。
この建物は1928築、最初のオーナーは茶・ゴム・キニーネ商人のBrandenburg van Oltsende、その後は1968年Carol Gandanegara氏が購入しレストランをオープンした。1978年にはGolden Mississippiの故Tirto Utomo氏が購入した。3人ともアートやアンティ-ックを大切にしてきたが散逸しないことを祈る。
RijstafelはDes Indes Hotelのテラスで供されていたものである。12人の女性がそれぞれに持った12皿の様々な料理を取り分けてくれる。指揮するのは当時83歳のMaria女史でこのころのセットメニュでRp125,000だった。バタックのバンドは二組AmoresとYan Sinambelaだった。クリントン大統領夫妻も訪れている。
PS誌を外れると安部首相夫妻の写真もネットにあった。

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2018年10月31日 (水)

変わりゆくラーデンサレー通り

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TIMの近くのRaden Saleh通りNo.47 に由緒あるOasis レストランがあったが、いつの間にか閉鎖されている。ここでは殆どの日本人がバタビア名物のライスターフェルをトライし又バタックのコーラスグループのこの上ないもてなしと美声にジャカルタに来て良かったと思ったレストランであった。何故閉鎖したのか考えても解らない。歴史もあり、むかし「オアシス・レストランとRijsttafelhttp://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/rijsttafel_7230.html 6月1日」でブログにしたこともある。
その店の向かいにはスンダ料理の踊り子の居る店で、ここもよくお客を連れていったものだ。Raden Kuringと言う名前で当時似たような名前の店はあちこち見た記憶がある。 今のこの店の写真には後ろに例のアパートメン3棟が堂々と立っている。
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店の造りは変わってないが中身がアラブ料理になったのであろうか店の名前もアルジャジーラと変わっていた。 
このラーデンサレー通りは、昔からアラブ系の店やホテルがあったがどんどん浸食されてきているようだ。ラーデンサレーの邸宅遺蹟やその前にあるSurya Hotelも探訪記を書いているが今はその確かめには行きたくない。 歴史は流れる。

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2018年10月25日 (木)

TIMのJassin文学資料館 

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チキニのイスマイル・マルズキ公園http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/tim_7574.htmlは好きな公園である。

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インドネシアのフォークの父のイスマイルマルズキの名前を冠した文化公園で昔からプラネタリウムが有名だが2~3の映画館もあるが大劇場があり海外からの公演などはここを利用するので新館も建てられた。今年は50周年とかで更にリノベされる。レストランもいくつもあったがどれもサービスが今一つで施設のリノベより、もてなし心のリノベが必要だ。 


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ところでこのリノベの中にHB Jassin 文芸文書センターが入っている。Hans Bague Jassinは余り有名ではないがインドネシアの現近代文学の作家達の恩人ともいえる文芸ジャーナリストで2017年ゴロンタロ出身(2000年没)である。40年代から文芸誌の編集に取り掛かり、新人発掘や出版を手掛け53年からインドネシア大学で講じ、 63年の政治第一主義に反対した「文化宣言」http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-4653.htmlの発起人の一人となった。 76年から彼が独力で収集してきたコレクションを基にヤシン文学資料館が開設されたものである。名前も埋もれているがこの資料館がTIMにあることを知る人は誰もいまい。小生も何度もほっつき歩いたがプラネタリウム館(或いは市の図書館)の裏手の奥の隅っこにあり、巨大な新劇場との間に埋もれていたことを今日知る所となった。 (入口の階段が樹木の間に見えるだけ)


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2018年8月14日 (火)

南の少女と仏桑華

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ふと手に取った本は「ロッテルダムの灯」であったが蘭印の話もいくつか含んだ作家庄野英二のエッセイ集であった。小生の知らない作家であるが、弟庄野潤三も作家であり、英二は多くの童話を作っており、父が手塚山学院創立者であったので、晩年は同学長を務めた。
1915年と言う生まれ年は動かしようもなく、1936年、時の流れで華北出征となり、その後も2回目の出征も余儀なくされたが未だ運よく1946年には復員出来た。一度目は小隊長もつとめされ南昌攻略では九死に一生、2度目はすぐジャワ・チラチャップ収容所の監督任務をはじめ各地を渡り歩いている。
何で大陸の奥まで軍靴で踏みにじったか小生は麦の兵隊などで逆の立場を想像しゾットするが、英二のエッセイではその事などには何にも触れず、各地の自然と人の営みを優しく取り上げてそれで随所で、そのやさしさにぐっとくるものがあった。 
メナド出身のインドネシア人家族4人の生活から父親や偶々オランダ国籍であったため連行されパレンバンからバタビア、チマヒ へと後を探したが最後は何千キロも東のフローレスに流されたことを知る。エンジン付き商売用ボートを日本軍に取られた後は風任せ(チャリアンギン)のプラオ(小舟)での商売をヤムなくされた中国人おじさんの善意で家族の中の10歳のキマイは父に会う決意をし数ケ月もかかってフローレスにたどり着いた。中国おじさんとの3日で戻る約束でキャンプで働かされていたオランダ人の中に父はいないかと日本兵に見つからないようブッシュに潜み3日を費やしたが、甲斐なく、最後の手段として落ちていた日本兵のタバコ箱の切れ端にメモを書いて投げいれることを思い立ち、食用で持っていたカナリヤの実の割れ目で指先を刺して血で書いたメモは「ゴゴ ジャラン キマ」と言うのがやっとであった。
ゴゴは父が逮捕される前に生まれれていた弟の名前で赤ちゃんのゴゴは歩けるよというメモで自分の名前の最後のイは書くスペースもなかった。父に買ってもらったハトの笛は、日本兵の耳を気にして吹けなかったが、100mも走り逃げ、動悸が収まってやっと笛に口を付けた。。。。
カナリヤの実とは何だろうか柿、ランブータンはたまた鳥のエサ? 他にも当時少し趣が違うがブンガビリヤはブーゲンビリヤ、仏桑華はハイビスカス、カトレヤは椰子の幹に咲き、他編で出てくるサンパギータ(フイリピンの国花は インドネシアのメラティ茉莉花(マツリカ;ジャスミン)である。 それにしてもキマイは少女として読んでいた。


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2018年8月13日 (月)

Ereveld Menteng Puloは連邦墓地CWGC

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ここはオランダの戦没英霊を祀る墓地で、Ereveld Menteng Puloと呼ばれている。ジャカルタのメンテンダラームの広い墓地の一角である。ものの本によると、第二次世界大戦時に日本軍の捕虜となり倒れたオランダ人700人と、その後1945年から1949年までの間に倒れたオランダ人4,300人を埋葬したもので、今も白き十字架がびっしり並んでいる。
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奥の方の一角はイギリス連邦の犠牲者の墓地でオランダの教会の裏側辺りである。ここに行くにはPark Laneホテルの手前のアパートPuri Casablancaの手前に現地人の墓地の入り口があるのでそこから入って行く方がちかいだろう。あと一つはジャラン・サハルジョの方から左手に取るMenteng Pulo Rayaから入っていくものでこの道は先ほどのCasablancaから入っていく道と繋がってぐるっと回っている。
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こちらも入って少しでメンテン・プロ・ラヤのパサールがありその先に現地の墓地がある。どちらから行っても現地人の墓地を通ることになる。しかしCasalancaから入って現地墓地を抜けるととんがり屋根の建物2棟があり、多分Menteng Puro墓地の事務所など施設であろう。


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ここから右にとってSMA 79がありすぐが蘭英墓地の入り口であるが通常は閉まっているようだ。小生の写真はかなり昔のもので監視が厳しくない時代であったのであろう。
英国の墓地の方には北側に記念館ビルがあり、スタッフが詰めているようだ。ここにはスラバヤの戦いで倒れたマラビー准将(Brigadier Mallaby)の墓碑がある。英国側の全体は英国人が715人、インド人他が304人もいるそうで、ほとんどが1946年10月までのものだそうだ。パレンバン、ジャワ海戦等々の戦死者の他POWの間の犠牲者も多いのだろう。
ここは連邦を意味するCommonwelth War Graves Commission Cemetryと言われ土地は寛大なインドネシアが贈ったものだそうだ。

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2018年7月27日 (金)

タンゲラン中国寺院で遊ぶ

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遊園地みたいな中国寺院がある。タンゲランである。タンゲランの中国寺院ではBoen Tek Bioが有名でこれはPasar Lama地区にあり、一つ二つ離れた路地にBenteng Heritage Museumがあるので、併せて3回ほども行ったのだが、この遊園地みたいな寺院はBoen Sun Bioと言う名前で似ているが別名かWihara Nimmalaとも言われている。場所はBoen Tek Bioがタンゲラン駅の近くのPasar Lamaであり、このBoen San Bioはここと北西方向のチサダネ河を越えた所でPasar Baru地区である。
ここは1689年中国人商人Lim Tau KoenがKim Sin Khongco Hok Tek Tjeng Sin を祀るために質素な寺院をたてたという歴史がある。そこまでさかのぼるとTek Bioの創建1805年より古くなる。この派手な飾りはここが又儒教Kong Hu Chuや道教Taoisme或いは仏教(順序は解説文の通り)の信者の為のようだ。地所は4,650m2で3つの部
門に分けているそうだ。
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お寺は漢字では文山廟であるが屋根は2匹の火の鳥フェニックスがありその間に宇宙の真珠により
守られているが、このHongともいう鳥は年を取って老いたときに自分自身を燃やし、燃える灰から若いフェニックスの鳥に生まれ変わる神話から、永遠の鳥と言われている。
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獅子の像やパゴダ等にかざられ何千ものランタンが飾られた廊下、寺院の中央は、ホール、教育スペース、祭壇で構成され、真ん中には、自然、水、火、土地、空気の要素を結ぶ庭とそれを囲む8つの宝石の泉があるとか、3メートルの観音様の像があるとか説明はキリがない。 内部にも研究家にとっては見るものがあろうが、一般人はまずは色彩美を味わう他はない。
tek bioはこれ、これだけ自分の写真

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2018年7月24日 (火)

マルンダのKapten JonkerとSi Pitung


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ジャカルタの最北東の地マルンダに行ったのは10年も前だが、さぞや変わっているだろうとGoogleで訪ねることにした。あの時はタンジュンプリオクからまっすぐ工場団地KBN Marundaに向かったが直前に橋(Kali RW. Malang)があり真っ直ぐ団地を付けぬけて行くと


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又大きな河口Sungai Titram)に出て、行く手をはざまれ其処から遠くに見える方に伝説の男たちの遺蹟があるのだろうと諦めた。
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今見ると確かにその更に海岸の方にモスクAL Alam Marundaがあり近くにJonkerの墓がある。


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そこから300m南にMuseum Home Pitungが記載されている。 海に近く高潮の為に高床になっているようだ。

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JP誌によるとCaptain Jonkerはアンボン出身でマタラム・ススフナンのボディガードでありトルノージョ反乱でVOCと強調関係からスペールマン総督軍の隊長でもありその軍功によりマルンダの地を与えられていたが最後はVOCに裏切られ殺されている。Si Pitungは農民の為に戦った義賊として有名である。

再度ここに行くことを地図上で探すと あの時渡った橋はLama(古い)となっているので少し河の上流を探すとJl. Akses Marundaと言う通りがこの川を渡っているのを見つけた。しかし今となっては
どちらも大型コンテナーが走り相当傷んでいるようで、マルンダ港の拡張が進んでいる。
この地区はこのKBNの南は広大な湿原地帯で地図を見るとあぜ道が書かれているようにみえる。

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それでも広大な空き地ではあるので、多分市内のスラム街を取り壊したあと、住民の移住先としてここに集合アパートがいくつも建てられているのだろう。
そしてこの地区の東は東洪水運河(KBT)がバンテン州ブカシ県と分かつように走っている。上記の二つの河は上流でこのKBTが分かれたものである。


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2018年7月16日 (月)

カンプンサワーの今

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JP誌でカンプン・サワーと言う地名に出会った。SAWAHと言うのは田んぼであるが沢から思い出せる。コタにもこの地名サワブサールがあったのでバタビア城外はみな田んぼであったのである。時代が下って19世紀までにジャカルタ郊外はオランダ人の入植商人などで開拓され多くのカントリーハウスが出来た。Kp.Sawahは北(タンジュンプリオク)にもあるが南(クバヨランバル)にもあるが、タマン・ミニの南東にもある。この地区に住む人々はスンダ出身だとかブタウイと言うが彼らの名前はKadimanやSairin,Sulaemanとか特徴がある名前でクリスチャンのコミュニティでオランダ人が保護して作られた部落である。1800c、FL.Antingと言う裁判官やKyai Ibrahim Tunggl Wulung氏らが紹介したとある。逃れて来た人々でここで洗礼を受けPondok Gedeとかに隠れていた人々もいたようだがこの近くのPondok PutriやPondok Melatiにもこのんようなコミュニテーが散在している。現在のPasundan Christian Churchの流れである。Pondok Gedeにほ大きな地主の家があったが、1990年頃には引き倒されスーパーなどになったが惜しいことをしたものだ。改悛の情が地名として残す事に表れている。こうしたオランダ人の家はカントリーハウスと呼ばれるが、同じシリーズにKapuk PoglarにVogelaar Villaがあったそうであるが、いつの間にか痕跡もなくなっているそうだがインターネットでも全く気配がなかった。
200年以上も太陽に焼かれ、物憂い貧しさの中ではこうなるのは運命である。最近の日本も無力と無智をさらけ出し国土は荒れている。温暖化対策と、江戸時代に帰った治水対策、軍事防衛より災害防衛を優先するリーダーを必要としている。目の前の事件に騒ぐだけのメディアはいらない。

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2018年7月12日 (木)

懐かしきブラガのランドマーク

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バンドンのランドマークは名実ともとなるとGedung Landmarkである。花のブラガ通りの奥の方にある。何時かGoogle Mapの映像を保存していたのでアップしよう。

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アジアアフリカ通りからブラガ通りに入り最初に横切るのがナリパン通りでその角にサボイホテル似のbJb銀行がある。


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更にその3倍ほど進むと五つ角にCentre Pointと言うこれも曲線美を表すビルがある。


そこから更に線路が走る方に進むとそこにこのビルがある。このビルは1922年にここ東インドで一番有名な建築家であろうC.P. Wolff Schoemakerが設計したものでアールデコの趣があるが彼は土着の要素も取り入れ入り口の上に彫り飾りのcandi とBatara Kalaを置いている。

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当時本屋のVan Dorpが営業していたが1960年には倒産しその後映画館を経て現在展示会など行事を行うコンベンションセンターとして利用されている。ここに高貴風なImperial Chinese中華レストランもある。


このブラガ通りは隣接の横切る道を含め懐かしい優しい建物が軒を連ねている。それこそGoogleを見ながら目に入れても痛くない感傷に浸れる。
紹介した写真は小生がずいぶん前に撮った写真故今は少しは変わっているかも知れない。


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2018年6月22日 (金)

ジャカルタフェア100年

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つい最近クマヨランのジャカルタフェアーで火事があった事が頭にあったが、それは今月初めの5日の事であり、丁度JFは開催中であったが、火事は会場から離れたJIEXPOの本部センタービルで半分を焼いたらしいことが解った。(写真は2006年と2009年)

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今年のJFは5月24日に始まり7月1日に終了する。大昔はモナスのメダンムルデカで行われていたが、当時はぞろぞろ動いただけだったことを思い出す。モナス広場はオランダ時代はKonigspleinとかGambir広場とか言われていたが其処で1920年代から1939年本国がナチに占領される前までは毎年JFの前身とも言えるGambir Market(或いは Pasar Malam)と言うフェスチバルが行われていた。


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その頃の会場風景写真を又切り抜きで発見しその大がかりさに感心し又臨場感あふれる写真技術にも感心した。切り抜きの写真は汚れていたのでそのオリジナルを探したが、それはなく、オリジナルはアムスのTropenmusium保存されているが、切り抜きはそれがエラスムス文化センターで展示されていたものであった。当時人々は歩きながらKueh Krakを食べ、メリーゴーランドやFerris Wheelに興じ、又色々なゲームや競技会に参加し当時人気の中国美人芸人ミス・リブート(お墓はプラサスティにある)のコメディを楽しんだ。昔ドイツで移動遊園地キルメスがあったがそれも思い出した。独立後1953-54にPekan Rayaと言われた展示会をやったことがあるが今のJFはアリサディキンのイニシアティブで1968年に始まり今日まで51年間続いているのである。メダンムルデカからクマヨランに移ったのは1992年であった。

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