2017年3月27日 (月)

ジャワ点描 新発見

Rjikweg
「ジャワ点描」の一つの写真で、本の説明ではライスウエーク通りであるが、その写真はどこなのかの推察する箇所があった。推察の結論は「パサールバルーの東側にあるJuanda駅南端の踏切(今は立体交差になっている)付近から西の方角を撮影したものでした。写真奥に続いているのが、Jl. Veteranで、右角にある商店の裏側は川です。また左角にあるのが由緒あるホテルでしたが、今ではショッピングモールに変わってしまいました。」となっている。
腑に落ちない所があるので小生も探検隊に参加してみました。ライスウエークと言うのは今のJl.Veteranである。この通りは東西に長く東のパサールバルーのJuanda駅南端の方はオランダ時代Noordwijkと言うはずだいうのが疑問の一つで、もしその推察のジュアンダ駅南橋からだとすると、右角にあるのは商店ではなくホテル(今もHotel sriwijaya)だがその裏側に川はなく、また左角にはショッピングモールに代わったホテルとしているが、今は運河を超えてイステクラル・モスクに代わっているので現実と一致しない。
由緒あるホテルでショッピングモールに代わっているというのはむしろホテル・デス・インデスで今はドゥタ・メルリンと言うショッピングモールがあるのでそれならハシム・アシュアリ通りである。


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ところが、小生はこの写真と殆ど同じものをみつけていたのである。それをアップしたのが「シンガーミシンの頃」というものである。
そこは今Veteran通りがマジャパヒット通りにでてくる所である。そしてマジャパヒット通りは、オランダ時代Rijswijkstraat言われたものでその四つ角のエルメスの像の辺りからマジャパヒット通りを映したものに違いない。

他にもここを映した写真も出てきたのでアップしておこう
Ilwjakarta5rijswijkharmonieplein193


Ilwjakarta5rijswijkharmonieplein1_2
これらは左側のハーモニー会館が見えて、又右の家の後ろにつながる屋根並みからも四つが同じところの写真であることが明確である。 年代の印字等からして電車が通っているのが1936年、次が1937年、シンガーになっているのが1939年である。

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2017年3月24日 (金)

難しいNUの再認識

3月16日にハシム・ムザディ元NU議長が死去されたニュースがあったが、我々日本人にはそのニュースバリューは解らない。
Nu_lambang

ハシム氏はグスドゥルが大統領にえらばれた後を継いだナフダトゥール・ウラマの議長で現在の議長サイド・シロギ師に引き継ぐ迄の1999年から2010年の間第9代議長を務めたわけである。シロギ師については最近の事なのでニュースで人なりが解ることがありその一つに
Benarkah KH. Said Aqil Mengatakan Warga NU tak akan Milih Ahok?  NUメンバーなら華人のクリスチアンをジャカルタ市長に投票するなと言ったとか
NUは拘束力は低い文化的社会を理想とするもので本来政治にはアンタッチだとおもうのであるがどうだろうか スハルトに対したのは政治と言うより文化であったと思う。ところでNUは二重指導体制と言われ総裁と議長がある。総裁は1926年にNUを創設したアシュアリが初代であり、イスラムの教義を論じるシュリア(Syuriah 宗教評議会)の長であるが議長は組織の運営に携わるタンフィズィア(Tanfidziah 執行部)のKepalaである。
学識・見識とも総裁がNUを代表するもので議長をシロギに譲ったあとのハシムは2014年の総裁に打って出たが熾烈な競争に敗れている。
所で総裁や議長の区分や何代目に当たるかなどWikipediaなどでも乱れている。Idham Charidについてのブログは併記しなおした。
“Idham Chalid のNUとしての働きは1952年(1956年)から1984年までの長期に渡り、2代目の総裁(7代目の議長)の座にあり、それを4代(8代)のグスドゥルに譲った”

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2017年3月23日 (木)

Kantor Harrison & Crosfield

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カリブサール・チムールの北はこの地区の中で一番荒涼とした地域でDKT市が保存史跡として指定されたものが少ないので報道される機会もない。小生はちょくちょく行ってみるのであるが最北端の吊り橋あたりが古い倉庫が崩壊しつつあるのは確認するがなんの進展もなかった。この中で最近名前が知れた保存史跡があるのを知ったのがこのHarrison & Crosfield事務所である。Kali Besar Timur No.25である。この会社はお茶、コーヒー、ゴムなどを扱うイギリス出身の商社で、1910年建築である。その後は隣のAsuransi Raharjaの倉庫だったりフローリスト Mu’isが営業していたらしい。
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アート・デコ風建物でアーク型正面は吊り橋付近にもほとんど壊れかけた建物があるので似た者同士でこのブログに同居させてもらおう。


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2017年3月20日 (月)

昔から綺麗なサランガン湖畔

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昭和18年、予定のないまま従軍作家が何故か気に入られたマディウン施政長官の計らいで治下のサランガンで1.5ケ月も過ごす。
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サランガンSaranganとは、中部ジャワとの国境にある観光地で休火山の霊山Lawu山3,265mのふもとであり南にWisata Telaga Sarangan湖を望む素晴らしい景観を持つ。
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当時はここはマゲタン県下でマゲタンの県長はソロ王家を継ぐ6代目の土侯である。その下に1市5県15郡あり郡は76村で村は20区で構成されていた。日本軍政の施政長官はマデウンに住んでいたが彼が動くと県長郡長村長の車列が延々と連なり宴会も出し物も又延々と用意されていた中、長官は長靴の足をテーブルに投げ出し大声を張り上げて急がせるかと思うと、すぐ飽きて勝手に中座する封建ぶりをみせる。当時日イ友好の絆を謳う軍国歌謡「八重汐」が出てくるが小生も初めて聞く尊大なものであった。 連合側の男たちはLawu山の北のナウイの拘禁所に収容されていた時代で、街にはまだ多くの外国人婦女子も生活するなか日本軍はキニーネ、鐵工所、砂糖工場、ホテルなど接収し土足で住宅に入り込むなど我が物顔に生きているようだった。

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Magetanから道を取り、湖畔に差し掛かる道は田舎の観光地で 衣料やお土産屋が軒をつないでいる。 そこからLawuさんに向かう道はなく 東側の山麓に点在する住居を縫う道から山に登ろうとしたが、5kmも手前でgoogle車は行き止まりとなった。GoogleMap様有り難う、全編googlemapより借用画像である。


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2017年3月17日 (金)

東ジャワ州庁舎の設計

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Gedung Grahadiの前の道Jl.Gubernur SuryoをTunjangan Plazaに向かい更にHotel Majapahitを超えて2kmも北に向かうと英雄の塔である。
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その向かいが州事務所とBappedaがある。スラバヤに行ったのは東日本大震災の日であったが、その前日にここもちゃんと写真に撮っていた。


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Google Mapから撮って見るとこうなる。
文献によればIr. W. Lemci設計で1931年完工のローマ風だという。
確かめるためLemciを探すも彼は昨日の官舎の設計者として出てくるだけで、それが間違いだろうと確かめる伝手がない。後に1945年10月スカルノがこの場所で連合軍のHawtorn将軍と休戦協定を調印したところとなったが、翌11月9日最初の東ジャワ長官のSoerjoが連合軍が出した無条件降伏の最後通牒を蹴った場所ともなった。

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2017年3月16日 (木)

Gedung Grahadi

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1月24日の「スラバヤ古郵便局2題」のブログで偶然撮ったKantor Pos Simpang Surabayaは丁度東ジャワ州州長官官舎の真ん前であったからこれまた小生のアルバムに偶然撮ったこの写真があった。

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ニックネームはGedung Grahadiと言いオランダ時代の州理事官の官舎で、1795年建築と言うから222年も前になる。場所は裏のkalimasを見渡すところに立っていたのを現在の場所に移したことがあるというのでその時リノベはしたのであろうが正面ファサードは同じである。名前のGraha adiと言うのは高度な価値を持つ建物という意味でまさに時間の経過にも脅威度を発揮している。官舎ではあるが観光用にも開放されている。州長官はここから英雄の塔の前の役所に通勤するのである.。

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2017年3月15日 (水)

KPPNの地方事務所

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KPPN国庫総局地方事務所の数は30もあり驚いたが更によく見るとその下に主要都市毎に180もの事務所があることが解りびっくりしたが税収を図る税務署の数が多くても驚かないが改めてこの事務所の職務を調べてみたくなった。総局のペイジには国庫財政の政策立案とか実行がある。執行の確認、資産負債管理、会計・予算策定などがあるようだ。それが全国隅々まで必要とはイメージが沸かないが、実際はそうであり、かつ地方事務所ビルも立派である。

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何時かバンドンに行った時州政府事務所近くにGedung Sateと呼ばれる特異な形をした州政府ビルと同じようなビルがあり、写真に収めていたのでそれをアップしよう。バンドンのGelogi(地質学)博物館の横である。冒頭の写真はマランの事務所である。

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2017年3月13日 (月)

タンボーラ税務署の裏表

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先日Dharma Niagaのブログをしたときその場所をRoa Malaka SelatanのTambora税務署の筋向いとしたが、その後他の文献でTambora税務署は違うところにあることを発見して驚いた。急ぎ訂正するため再度チェックしたところ、なんのことはない、それは同じ場所で表と裏であったのである。
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即ち違う場所だとした文献は昔のHSBCでこちらの住所はKali Besar Barat No.14であるが両社は背中合わせであったのである。 このHSBCは昔http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/hsbc-f9ea.htmlとしてブログしたこともあるが、130年以上歴史のあるHSBCがこの建物を建設し長く君臨していたがその後は商事会社などが入っていた時代もあるが空き家にするよりと税務署として使うことにしたのであろう。建築設計は又も有名なHulswit, Fermont, Ed. Cuypersで正面のアーク上の入り口などNeo Classicスタイルに属するらしい


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2017年3月10日 (金)

NHMとKPPN

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ジャカルタのColonial buildings and structuresのリストに不審なアイテムがある。その昔の建物はオランダのNHMであるが場所はファタヒラーでなくNoordwijkであり、現在はKPPNという。

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NHMと言うのはあの強制栽培時代から東インディアから収穫物をどんどん積み出した強大な商社であるNeder-landsche Handels Maatschappiであり、これは曲折を経てコタ中央駅の前のMandiri銀行博物館になっているはずのものである。
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場所のNoordwijkは現在のJuanda通りなので、ここにも営業所の一つもあったのであろう。紹介文には1910年にEduard Cuypers M.J.Hulswitが設計したもので、1984年に取り壊されている。そしてそこを訪ねると確かにKPPNと言う現代的建物がある。KPPNというのはKANTOR PUSAT DIREKTORAT JENDERAL PERBENDAHARAAN
でDG Perbendaharaan (国庫総局)の独立事務所のようで国家の歳入歳出を管理する庁である。

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全国30州にKPPN事務所(Kaneil)を持ち本部はラパンガンバンテンの旧大蔵省の裏側にあり、JKT州事務所は又その裏にある。従いJuandaの事務所は何だろうと写真に目を凝らすがKanwil XIの下部組織のようであった。 国庫総局の機能の詳細は調べてないが、全国にこのような地方事務所を中央政府管轄下で持っているのは同じ財務省の租税総局があるが、インドネシア共和国も大きくなったものだと感心する。

PS: 事務所は州事務所の下に主要都市にあり、その数200を超える。


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2017年3月 8日 (水)

Dharma Niagaが遺したもの

先般のじゃがたら小春のRoa Malakaには歴史的遺蹟はないと書いたが、一つあるとすると、既に過去となったDharma Niagaと言う国有商社の名前が表示されたままの建物があった。 
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Roa Malaka Selatan通りのタンボーラ税務署の筋向いである。建物はあるが本社ではなさそうであり、この国営商社の本社は一応ファタヒラー広場のカフェ・バタビアの左手にある大きなビルのようだ。 

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しかしこのビルについては小生が昔ブログ「Cipta Niagaの生まれと現在」に書いたときは運河側にある二つの塔を持つ大きな建物と一体でCipta Niagaが運河側の建物もカフェバタヴィア側の建物も持っているとしたものであったが、


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今見つけた大昔の航空写真によると上述の通り、カフェバタヴィア側の部分はCipta NiagaでなくDharma Niagaであったのである。 この写真はこの建物を現代的リテールとエンターテインメントの為にリノベする半官半民のOMAのものであるので間違いはない。このような混乱は次の様に解釈できる。

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この建物の所有は現在ITCと言う国営商社でITCは当時のCipta Niaga、Dharma Niaga、Pantja Niagaの3社を合併してできた会社でCipataが筆頭で代表される文稿があってもおかしくない。更に歴史をさかのぼるとこれらはオランダ時代の商社Big Fiveを接収したもので、Cipta NiagaはInternatio、Dharma NiagaはJacobson van den Bergとされるが、小生自身、いまだ確認はできていない。と言うのはこの接収の時以降の国営商社の事業は芳しくなく色々と合併の歴史もあり諸説をうんでいるからである。Jacobonのものとした建物は Toko Merah,、その裏の崩壊中の建物、,Majapahit通りのITCビルなどもある。


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