2017年2月20日 (月)

UIの19の学長通り

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ジャカルタの道路につけられた偉人の謂れについては 110名強を、「ジャカルタの道路の英雄・偉人伝」と言う小冊子にまとめているが、一説には19人もの多くの名前が付けられた地区が漏れていることに気づいた。それはデポックのインドネシア大学のコンプレックスの中である。このキャンパスは広さが320haはもあり通勤電車が入ってきており、専用バスルートもいくつかある。

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320haと言うと東京ドーム68個分、日本で最大のキャンパスは九大新キャンパスの260haであるので又勝ったとなる。ここにつけられた名前はインドネシア大学の歴代学長である。
これがつけられた年は2009年6月でそれまでの学長の内既に悠久に遊ぶ学長だけでそれは以下の初代から9代までの学長である。
1. Ir.Raden Mas Pandji Soerachman Tjokroadisoerjo  1894-1954)
2. Prof. Dr.Mr. Raden Soepomo (1903-1958)
3. Prof. Dr.Bahder Djohan(1902-1981)
4. Prof. Dr.Raden Soedjono Djoened Poesponegoro (1908-?)
5. Letjen TNI (Purn.) drTeuku Mohammad Sjarif Thajeb(1920-1989)
6. Prof. Dr. Ir.Raden Mas Soemantri Brodjonegoro(1926-1973)
7. Prof. Dr.Mahar Mardjono(1923-2002
8. Bridjen TNI (Purn.) Prof. Dr.Nugroho Notosusanto(1930-1985)
9. Prof. Dr.Sujudi (1930-2007) 
Google Mapで確かめると拡大して探したが、初代と2代目の名前は小生は見つけることはできなかったが、二人はこの区域から飛び出して市内にもある。6代目は先般、クニンガンの競技場の名前にもなっているということで既に紹介したが彼の他3代目5代目 8代目が教育大臣もこなしている。他に学長ではないが道路名になっている人が以下4人いる。
1. Selo Soemardjan 
2. R. Roosseno
3. Djokosoetono 
4. Fuad Hassan  (彼は教育大臣であった)
現在は第14代Prof. Dr. Ir.Muhammad Anis M. Met(1957-)であるが、ジャカルタ市長戦に打って出た人はAnies (Rasyid Baswedan)でちょっと違ったがAniesの方はUGM卒で何とか言う大学の学長を経て教育大臣だったことは今知られている。インドネシアの学長の正装は権威がある。 日本も真似して形だけでも或いはまず形から権威を高めてほしいものだ。
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2017年2月15日 (水)

Istiqlalに20万人?

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今日投票日を迎えたPILKADAだが金曜日の集団お祈りの日にイスラム候補二組がそろってイスティクラル・モスクでお祈りしたという報道でまたその場所のブログを書くことになった。しかしMesjid Istiqlalについてはもう10年も前に「仲良く建つIstiqlal MoskとKathedral」としてブログしている。 その時のこのモスクの収用人数は10万人と記しているが、最近のWikiでは12万人、ニュースなどでは20万人である。20万人とは増設してなければ外の庭などの収容数も入れているのであろうか。ところでこの日の集まった人数は7万人とニュースである。アホック降ろしが吹き荒れていた11月4日の集団礼拝では10万人、通常レバランの集団礼拝は20万人が集まるというから、アホック下しのイスラム候補は勢いをそいでいると言える。しかし二人が票を取り合いしてもアホックがマジョリティを取らない限り決勝戦をやらなくてはならない。うっとうしい話だ。
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このモスクは東アジア(or Asia Tenggara)最大規模といわれる。ここで言う規模は礼拝の収容人数で計算するが世界最大は4百万人のメッカであり、2番手もサウジでメデイナ90万人である。そのあとインド、パキスタンが入りIstiqlal は6位となるようだ。

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しかし多く集まると、あまり倫理・道徳がない人々だから、いつも塵の山の風景となるらしい。


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2017年2月12日 (日)

Soemantri Brodjonegoro競技場


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ジャカルタ市長選も目前に迫ったが最後のキャンペーンの報道でAgus-Sylvi,組がクニンガンのスマントリ・ブロジョネゴロ競技場で行われたことを知ったが、多分ユドヨノも出ていたのだろうか5万の人を集めたらしい。1月末にはAnies-Sandi組もここでキャンペーンをやっておりプラボウォが応援していた。

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ここは市が保有しているので公共施設であるが、バクリーが10年契約しているとも聞こえる。バクリーのラスナサイドアパートやエピセントラムとも隣接したPassar Festivalにある。ここのスポーツクラブ&バー アフロデテの後ろ側にある。 

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ここにはよく行ったがこのグラウンドはいつもひっそりしていた。裏は運河に沿った道がこの競技場を囲んでいるがここを往来する人はいない。最近はサッカーリーグなども行われているが入口は渋滞のラスナサイドの正面側だけである。 トラックも設備されているのでアジア大会などもここで何かできそうだがその先は知らない。
ここの名前は正確にはGelanggang Olahraga Mahasiswa Soemantri Brodjonegoroと言う。学生スポーツの名前が行っているがサデキン時代のGORの流れであろう。固有名詞のSoemantri Brodjonegoroはスハルト時代の教育大臣や鉱山大臣(67~73)などを務めたが47歳で亡くなった(1973年)教育家でもある。UIの学長を最年少(39歳)で最長の9年間勤めている。


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2017年2月10日 (金)

セランの勝利の記念碑

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この写真もやっぱり、通りすがりに見つけたものである。場所はセラン市のバンテン大通りのアルンアルン(中央広場)の一角である。最初は渋滞の車の背中越しに見掛けたもので、行き過ぎたあと、また一回り回って写真を撮ったが、

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写真を拡大するとMonumen Perjuangan Rakyat Banten と彫られている。これについての謂れとか歴史があるはずであるが市の観光案内などにもどこにも書かれてないのが不思議である。
しかしインドネシアの特にジャワの各大都市には必ずある

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独立戦争の時のオランダに対する庶民の戦いの勝利の記念碑である。 Perjuanganとはそういう意味である。マカッサルのはMonperaと省略されている。近くでは南タンゲラン、ボゴール、ジャカルタはジャティネガラやスネンやあちこちにある。さしずめ韓国の慰安婦の像であろうか そのうち韓国も多くの都市で建造され、日本のお地蔵さんみたいに人さらいを諫める仏になるのであろう。

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2017年2月 7日 (火)

ジャワのタントゥラル

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ジャカルタの「大学のムプ タントゥラル」を昨9月にブログした後、先日スマランのコタ方面の地図をぶらぶらしているときムプ タントゥラル通りを見つけた。あのMberok橋からGreja BlendukのあるSuprapto通りに入る前に左に道を取ればその道である。少し行くとスマランバティック協会の建物がある。1906~7年築らしい。

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他に古びた建物のDjakarta Lloydがある。1870年代から海運業をやっていたオランダの NV Stoomvaart Maatschappij Nederland (SMN)が所有していたもので国営ジャカルタ・ロイドが接収したものであるが、SMNはその後合併などで現在の Nedlloydになっている。この建物は当時の名匠Henry Thomas Karstenの設計である。

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そして更に驚くタントゥラールとの邂逅はなんと弊社の月刊誌「インドネシア企業経営」の表紙を飾ったスラバヤの旧Mpu Tantular博物館である。
此方は弊社の社長の兼松の写真であるので小生の記憶は薄くなっていたものだ。彼女の寸評では「ドイツ人Von Vaberよるスラバヤ歴史コレクションに始まったもので、1933年の設立。Mpu Tantularは、14世紀に東ジャワに栄えたマジャパイト時代を代表する詩人の名前。」とあった。

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2017年2月 6日 (月)

一人で居たいスカルノハッタ

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ジャカルタの飛行場の名前にもなっているスカルノとハッタは10万札にも二人で描かれている。飛行場への高速道路添いの像も独立宣言広場の彫像もいつも一緒である。しかし本当の所二人は死んでまで一緒にいたくないはずである。歴史においては1930年代のPersatean(サテ串焼き)とした統一論の論争に芽を発しており、1956年にハッタが副大統領職を辞職した時から2身1体論は拒否されたのである。終身大統領ともなる尊大なスカルノ構想で自滅したのであるが二人の離反には、このスカルノの直情径行とハッタの沈着黙考と言う相反する性格の不一致が指摘される。

スカルノの一人で立つ銅像は娘ラッハマワティが2010年に建立したブンカルノ大学のキャンパスに立つ像を待たねばならない。

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2017年2月 2日 (木)

クーパンが日本の前線だった頃。(2)

クパンはNTT州の首都35万人、航路上の戦略地で、
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1942年より45年迄日本が占領したが連合軍の空爆で灰燼

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十蘭の積極的従軍地図


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クーパンが日本の前線だった頃。


作家久生十蘭の従軍日記を読んでいる。日本開戦2年目のインドネシア東部を従軍した時の日記でどうにか存続しえた日記が彼の死後発見され発行できたものである。昭和18年2月24日東京出発、途中、台北に7泊後マニラ、メナド、マカッサル経由しながら3月6日スラバヤ到着、スラバヤでは40日、業務未定、空路待ちなどで4ケ月も怠惰の中空費しやっと蘭領チモールのクーパンに入るがここは前線で既に米軍の空襲下であった。砲台のある最前線での毎夜は防空壕へ避難、爆弾投下を「ドスドスドス、ズンズズン、ズズンズズン、ズンズンずんずん、ドドッドドッ、ガガガガン、バフバフ」と聞く。ここ前線には200名の兵がいた。前線の1週間を含め司令本部のタロスでの滞在で合計3週間いたことになるが、彼は士官待遇であり士官クラスはまだ思いやりがあり、余裕があった。例によりこんな所にも花の家、月の家、松の家などがあり、ネシア(原文ママ)のバアもあり、暗い灯影に獣のごとく蹲りけがらわしく感ずることもあったが、彼は松の家の台湾女性の身の上に心を寄せた日もあった。 ここから前線アンボンへそしてニューギニアに向かうのであったがその機中から、「今青い海の上で親切だったクーパンの人々に心からの訣別の辞を繰り返す」とクーパンの日記を締めている。

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2017年1月27日 (金)

スマラン古郵便局

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郵便局と言えばスマランでも撮った写真がある。こちらもスラバヤと同じ通りすがりに撮ったものであるが、インドネシアの郵便局は日本の郵便ポストではないが赤を基調にしたコロニアル風建築様式が多いので目を引く。且つ多くは歴史遺産としても保存されているが、郵便は鉄道と共に近代の夜明けの象徴であったのである。場所は青年の塔から北に向うPemuda通りのJohar地区にあるのでKantor Pos Joharと言う。この地区はKota Lamaで町の発展で中心から外れるといわれるが、Googleで見て思い起こすと広くて明るい通りで近くにMenara Syahbandarと言う港湾監視タワー橋があり更に北に行けば Greja BlendukのあるSuprapto通りでこの一帯の町並みには惚れ惚れする。

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この教会の近くのSrigunting公園をアップしよう。この郵便局は1862年J.P.Theben?の郵便制度発足と同時にこの地に建てられたようで、監視塔のある河には船が発着する賑やかな場所であった。この橋はJembatan Berokと言う名前でBerokはオランダ語で橋という意味らしい。
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更に郵便局の向かいに日本橋のゼロ起点でもないが その道標(Tugu Titik Km0 )がある、将に中心であったのである。こうした町づくり含め オランダの設計家のThomas Karstenの功績である。パーキング不足もあり、現在はショッピングの中心はSimpang Limaの方に移ったが、Google Mapを閉じるのに思い切りが必要だった。

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2017年1月24日 (火)

スラバヤ古郵便局2題


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スラバヤで思わず撮った写真の一つに郵便局がある。ネットで写真だけで探して見るとちゃんと引っかかって来た。それはKantor Pos Simpang Surabayaとある。窓や廂の特徴から特定できたのであるが場所はスルヨ知事通りである。と言うよりその向かいは広大な知事官舎であるので、スルヨ知事が住んでいたのであろう。ここもダーンデルス総督時代からあった歴史は古いが、建物は1932年築で設計W.Lemeiである。
インドマルコの月刊誌の表紙を飾った別の物もある。こちらはKantor Pos Besar Surabayaである。Besar というから中央かと思うがそれは別にある。
こちらも歴史的保存遺産に指定されている。インドマルコの表紙説明には以下のごとく書かれている。 

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写真は一時紛失中でこれはサイト借用。
「東ジャワ州スラバヤの郵便局本局の内部。オランダの建築家G.J.P.M.ボルシウスの設計で、1926年から1928年にかけて建設された。これより前この地には、1881年までスラバヤ県知事事務所兼官邸が建ち、その後それは1926年に現在の建物の建設が始まる1926年まで、オランダ人の子弟らが通う学校HogereBurgerSchoolとして利用された。同学校には、後にインドネシア初代大統領となるスカルノも通っていたという(1915-20年)」
場所はKebon Rojoなので郵便局はPos Kebon Rojoともいわれる。上のSimpang Surabayaより西に2km北に3kmと言う関係でスラバヤ駅の近くである。
少し付け加えると日本占領時も郵便局として使われたがオランダが再占領にやって来た時ここは連合軍の司令部としてもつかわれ、あの「英雄の日」を越えて奪取に成功した。内部に犠牲となった二人の画像があるようだが文章では日本からの奪取時に起こったかの如くである。
この混乱時郵便局業務はSimpangの方に移管された。 現在Simpangの方の前庭(施設の一部か)はコーヒーショップとして使われている。多角化経営であろうかCoffee Toffeeのブランド?でいくつか展開している。


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