インドネシア・ジャカルタ歴史今昔

2009年12月18日 (金)

Tugu クロンチョンモリツコの故郷は?

クロンチョンの原曲はマイダイケルの中で生まれたKroncong Moritskoと言われる。一行で書くとこのようになろうか 多分間違いかもしれない。クロンチョンの大家である庵原さんからメールをいただいた。Aagreja_tugu_nov06_025
クロンチョン発祥の地トゥグ村の村主はクイーコ家であるが、3代目のサムエル氏も亡くなり、「息子Guidが街から帰って継いだらしく中央に汚染された演奏だった」ようで、嘆いておられる。「トゥグ村でMoritskoの由来を知る人はなくMorescoムーア人の歌」と混同されているとのことである。ポルトガルの歌曲のファドがクロンチョンの上流にあるが、氏はクイーコ家が保存するファドにも
通暁しており又Kg.Moritskoは「Kroncongではなく父祖の歌を」とサミュエルが吟じたテープを大切に保存しているそうである。氏は現在蒐集の膨大な音源を整理しておられるが、出来上がり公にされる事を祈念してやまない。氏に断りもなくいくつもの要点を借用した。

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2009年12月17日 (木)

Tugu Panturaとは 北海岸物語

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北のVOC Cafeの裏、チリウン河沿いに記念碑がある。昔造船所があったところでチリウン河の対岸がバタビア城であった。そちらはパール砦であったが、ここから大砲が向けられていたこの地にはバンタン国のこの地の領主ウイジャヤカルタの領地で彼も砦を築き、又対抗上許したイギリスもここに砦を築いていた。ウイジャヤカルタ王の宮殿そのものはそこより数百メートル南の現在のジャラン・コピの辺りにあった。1996年に高速が建設された同時期にこの地のreclamation(干拓工事)とBulwarks(防波堤)建設が行われたがそれを記念したモニュメントである。物の本にはTugu Panturaと名図けられているがPanturaとはPartai Utaraの造語で北海岸の意味になる。
恨まれることもないと思うに何故かひどい落書きが施されており、碑文も写真に撮ったが判読できなかった。

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2009年12月16日 (水)

バチカン大使館の不思議

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モナスの周辺地は政府機関しか立地出来ないルールがある中、実際には米国大使館とバチカン大使館が所在している。昔は日本大使館もあったのであるから、あの条例が出来る前の特権になっているのであろう。
看板にはAPOSTOLIC NUNCIATURE Kedutaan Besar Takhta Suciラテン語は調べてないが聖地大使館とある。
イスラム大国にカトリックのバチカン大使館がそれもモナスにあるとはすごいが、バチカンはバチカンで国民800人ながら世界179ケ国に大使館を保有するという。これもすごいことである。
ムルデカ東のPLN本社の隣であり、厳重なコンクリートと鉄の建物自体は何の変哲もない。バチカン市国はローマ市内にあるカトリック教皇庁で世界最小の主権国家である。デズニーランドに満たない面積に800人強の市民が住むがパスポートはなくまた職員も入れると3,000人強になるが居住権が国籍みたいなものであるものの国外(イタリヤ・スイス等)に住んで通勤するものも多い。元の国籍は保持しているのが普通である。イタリア王国との和解で国家として認め警察軍や多くの点で協力するこの関係を作ったのは独裁者と言われたムッソリニーの1929年の功績らしい。

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2009年12月14日 (月)

国立博物館の無頓着

2け月振りに行ってみた。前回は博物館の奥の[建築]の部がリノベーションだったが今回もまだ終わってなく閉まっていた。
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陶磁器の部は大分前にリノベーションして、その記念のプレートが飾ってある。それによると当時の大企業からの献金で出来たようで顔ぶれはTiratamas Majutama、Texmaco、Tri Polyta、Merrill Lynchで、文部観光大臣のProf.Dr.Ing.Wardiman Djojonegoroが1997年4月24日に署名したものであった。良き時代の最後の時期である。相当な金なのだろうが、出来栄えはこの程度である。
左側の棟は前回も閉まっていたが今回も閉まっていた。こちらもリノベーションを待っているのであろうか。
何かの案内に閉館がいやに早く書いてあったが実際は16時或いは17時のようで、又入場料はRp750のはずであるが、余りに安いので誰も払おうとせず又受け取りの係もいない。本はないかと尋ねると3人が寄ってきてそれぞれ自分のロッカーから出してくる。2階は宝飾品の部で昔は別の料金が必要であり厳重に警護されていたが。この日はだれも居なかった。昔有名な盗賊Kusni Kasdutに宝石類を盗まれたことが忘れられている。ちゃんと館長(Dra. Retno Sulistianingsih Sitowati, MM)はいるが、インドネシアらしい大らかさが良い所であろうか。

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2009年12月13日 (日)

バタヴィア東倉庫も現存する。

急ぎ修正する必要がある。現在の海洋博物館が17世紀の西倉庫とすれば、
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バタビア城の東にも東倉庫があったが、これが現存する事が解ったのである。だいたいの位置は解っていたので何度もそこにアクセスしたがそこは軍が保有する土地になっており、また大きなトラックや重機が密集し、通れる空き地は水没していた為、もうないものと諦めていたのである。(ついこの間の9月1日のブログ「小麦倉庫 Gudang Gandum(Graanpakhuizen)の現在」)  先週、毎週ゴルフに行く時に通る高速の上から何気なく眺めていたときにこの倉庫が目に飛び込んできた。斜めに位置する残像からこれはひょっとすると東倉庫かもしれないと、金曜日抜け出して又見に行って来た。しかしそこに行く道は大渋滞であきらめざるを得ず、結局は又高速から写真を撮っただけで、戻ってきたがHeuken氏の写真と同じ作りであることから、これこそ東倉庫だと確信している。彼によると東倉庫は4連棟であったが古い方の2連棟は1995年の高速建設で壊され、現在は1棟のみが残っている。破壊された方が1639年建築であったのでこれが現存最古の倉庫であったが、現在は海洋博物館を最古とした。

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2009年12月10日 (木)

バタビア北の見張りポスト

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旧パッサールイカンがまだ海と隔たっていた時代の写真である。最初は造船所の方からスンダクラパのLookoutTowerを望んでいる写真だと思ったが、解説でこれはパッサールイカン側から現在の海洋博物館Bahari)を望んでいる事が解った。この当時はこの博物館はWestzijdse Pakhuisen(西倉庫)と呼ばれたバタビアで一番古い倉庫であった。建てられたのは1652年、特にスパイス用の倉庫であった。Aalingkar_batavia_jun_609_034
現在までこの倉庫が耐えられた
のは17世紀、18世紀に何度も修理されたからで、さらに海洋博物館になったのはやはりアリサディキン市長時代の1977年である。この壁がバタビア城壁都市の北壁でそれにくっついているのが見張りポストである。


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2009年12月 9日 (水)

全国宮殿とスカルノ墓所

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宮殿と言えばIstana MerdekaであるがIstanaと付いた宮殿は全国各地にある。いくつかあげると
Istana Negara:State Palace:Istana Merdekaの裏手

Istana Wakil Presiden副大統領府
Istana Bogor:ボゴール宮殿
Istana Cipanas:チパナス宮殿
Istana Tampaksiring:バリのタンパクシリン宮殿 以下は各地の土侯国の宮殿の例である。
Istana Maimun :メダンのスルタン宮殿
Istana Pagaruyung:ミナンカバウの元宮殿、現在博物館
Istana Siak:リアウのシャク宮殿
Istana Palembang Darussalam:パレンバング
Istana Amantubillah Mempawah:西カリマンタン
Istana Alwatzkubillah:西カリマンタン
Istana Luwu:中央スラウエシ
Istana Walio:東南スラウエシのブトン
Istana Saoraja:南スラウエシのボネ
Istana Balla Lompoa:Gowa
ジョグジャにあるのは特にIstanaとはいわないようであるがGedung Agungである。又ジョグジャカルタ候やジャワのスルタンはKratonやPuroである。
Kraton Ngayogyakarta Hadiningrat:ジョクジャカルタ
Kraton Surakarta Hadiningrat:スラカルタのススフナン
Puro Mangkunegaran:スラカルタのマンクネガラ
Kraton Kasepuhan:チレボン
Kraton Sumenep :マドゥラ
写真はボゴールのIstana Batu Tulisで、スカルノの個人の別荘である。この門前に伝説のバトゥトゥリスがあり、多くの人の祈祷が続いている聖跡である。ここを家族ともどもスカルノの墓所として願ったが叶わなかった。

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2009年12月 8日 (火)

スカルノの霊柩馬車

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プラサスティ公園に飾ってあるスカルノ・ハッタの棺については既に記したが同じ葬儀用の設備として霊柩車も飾ってある。これもてっきりスカルノさんのものかと思ったが、そうではないらしい。ここは公園になる1977年までは
霊園であったのであるが、多くのオランダ人はファタヒラーの病院(現在のBI博物館)で亡くなったようで、そこからは小舟にのぜられ、クルクット河を上流しここKebon Jahe Koberまで運ばれて来たが、その近い地点のTanah Bang 1からはこの霊柩車が使われた。2匹から4匹の馬が引いたが亡くなった人のステータスで馬の数が多かったそうである。そういう時代背景は19世紀の様であるが、それにしてもこの霊柩馬車は新しく見えたのでスカルノと結びついたのである。

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2009年12月 7日 (月)

消えゆくかアールデコ住宅

ジャカルタには珍しいアールデコの住宅を発見した。似たようなものはあるかもしれないが、これはほんものらしい。ジャカルタはモナスノ東のムルデカチムールのイマニュエル教会の道を隔てた隣である。Kantor Notaris Sidharta.Gautamaである。ここはホテル・ボロブドールから宗教省やカントール・ポスのうっそうとした木々を見ながら急ぎ右折するので気が付かない。更にムルデカ・チムールに面した玄関の幅は数メートルで両サイドに屋台が並んで車がやっと1台入れる幅である。この事務所はもうすでに廃墟となっており、両サイドの屋台も印紙屋とか代筆屋などもいたのであろうがもう誰もいない。Aa2009_1101_142215dsc08840
小生は昔ここに現地パートナーと来たことがある。土地売買だったか多分ジョイントベンチャー設立だったのであろう。うっすらとした記憶である。入口付近に看板が残っておりそれにはProf.Mr.Dr. S. Gautama & Associatesとなっておりその下に Teugeh LongdongとかKomala Lurmanauなどメンバーが14人も集まっていた。1階建で大きな建物ではないので忙しい風景であったろう。
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アールデコと言うのは右端の出窓形式が曲線を描いたその1点のみであるが写真では見え憎い。横のPejambon通りからの写真にはかろうじて屋根当たりの曲線が見える。この土地建物はイマニュエル教会のものであったが、両者を分けるPejanbon通りが2車線に分かれた時にだいぶ土地を供出され現在の姿になったようである。Kantor Notarisはこの小さな建物の正面を使い裏はMaramis家が使っていた時代もある。
Gautamaさんは多分2000年を超えてここにいたはずであるが、いまはどうされていることやら、気になることである。

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2009年12月 2日 (水)

ここにもあるガジャ・マダ像

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ムルデカチムールの昔のフンプス・ビルの並びに小さなガジャ・マダの像が立っている。この敷地に建つ2階建ての建物自体がGedung Gajah Madaと大書されている。軍事警察関連の建物のようだ。PUSPOMADつまりPusat Polisi Militer Angkatan Darat陸軍憲兵本部かもしれない。中に入って写真を取ろうとしたら誰何されたので逃げ出したことがある。むやみに近づかないことだ。ガジャ・マダ像はこの写真の左側隅にあるが見えにくい。Gedung Gajah MadaはスラバヤにもあるがそちらはKOAMATIM東部艦隊司令官の建物のようだ。

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