2017年6月29日 (木)

モロタイよりもテルナティ・チドーレ

モロタイ島もハルマヘラ島も現在では北マルク州を構成するが、熱帯山岳地であるため人口は少ない。むしろハルマヘラ島がその西側でかかえる様に浮かぶ島テルナテ、ティドーレ島の方がこの地だけの特産品の丁子などの香料貿易でにぎわった歴史がある。
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1999年にマルク州から独立し北マルク州になった訳であるが州都は最初はテルナテであったがやっと10年もかかって計画の首都ハルマヘラ島のソフイフイに移転できたようなわけである。その南はバチャン島からオビ島、或いはスラウエシ寄りのタリアブ島などが加わる程度でなぜ分離したかはわからない。

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この地は1513年ポルトガルがやってきてテルナテを本拠にしたあと、スペインも1519年チドレにやってきて両国は丁子貿易で競争し抗争したが後に条約でスペインがフイリピンに去った後オランダやって来た。テルナテもチドレもスルタン国であり、西欧の侵略には悩まされ、最後はオランダの伐採価格政策(ホンギ遠征)で丁子の生産も逆にすたれた。そのような背景でこの地方はインドネシアでも貧しい地方になり、北マルク分離したのはハビビ政権の経済特区として地方開発の促進が目的であった
写真はリプタン6より 

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2017年6月27日 (火)

遅すぎる降伏 沖縄とモロタイ

6月23日は沖縄慰霊の日で、1945年のこの日、日本軍の沖縄戦の組織的戦闘が終結した日ですがこの沖縄戦でなくなった戦没者数は24万人と、広島を上回る数なのである。圧倒的な戦力の前に一時の時間稼ぎに24万人が亡くなったこの悲劇こそ、米軍が落とした原爆よりも悔恨の意を注ぐべきではないでしょうか。 やみくもに憲法を変えたいというのなら政権はまず沖縄の基地問題は自分の出身地で引き受けると言うべきでしょう。

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インドネシアにおける組織的戦闘終了はモロタイ島である。中村さんという日本兵(台湾出身)が戦後30年で発見された土地で米軍との組織的戦闘が行われた土地であることは、今はインドネシアに居る日本人ですら知られていない。1944年8月ごろには米軍はフイリピン反抗作戦に着手しこの一帯には米国機動部隊の航空爆撃を行いモロタイ島にはその航空基地作りの為上陸、日本軍は中隊規模で圧倒された後、ハルマヘラの大隊クラスで逆上陸を行ったりその戦闘は45年6月末まで続いた戦闘である。投入兵は最初の駐屯兵500名、ハルマヘラから2,000名強、1700名強が亡くなった、対する米軍は投入57,000、降伏を知らない日本軍である。
島には中村さんの銅像が建てられている。よく見るとインドネシア語で書かれており、耐えられずに現地政府が建てたようである。


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2017年6月26日 (月)

Pasar Pagi(Asemka)とPasar Perniagaan

この写真は確かに昔のパッサールパギだと思うが縁となる固有名詞もない。
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1980年代だとは思うがこれも解らない。パッサールパギはマンガ・ドゥアのWTCにもあるのでこちらはラマであり、ここから移転したのでその年代を探ればわかるかもしれない。 
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パッサル・パギ・ラマはコタのマンディリ博物館の横に降りてくるFlyoverの下の道を含む一体でアセムカと言い今も多くの玩具類や文房具類を売っているので移転は一部だったのであろうか。

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ところが昔この辺りを通ってかなり大きな一風変わったビルがあり、その後それがどこにあるか一時忘却の彼方にあったので、今日Googleで訪ねてみた。一方通行なのでここに行くのはかなりむつかしい。簡単に説明するとこの間FPIのデモの流れだったか半暴動が起こったPejagaran通りを北から下ってくる道で左に曲がるのであるがジャランコピをやり過ごしflyoverの手前で左に取ればPasar Pagi Rayaと言う道で少しカリブサール方向に進むとここにやってくる。この通りが正面でこの建物は奥に長く周囲に道があるので裏側に行くとFlyover添いに道があるがここも同じ賑やかな玩具類の商店街である。
この建物は今やネズミの巣窟らしくワンブロック南のPerniagaan通りにあるPasar Grosir Perniagaanに移った業者も多いそうだ。見た目はなかなかで都営のPasar Jayaがやっているので何とかとは思うもののこの一帯は道が一方通行で複雑すぎてそれだけでよそ者にはダメである。
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この玩具類が売られている賑やかな一帯はパンチョラン(ピントゥクチール)から入ってきてFlyoverに出てくる道をとることも出来る。しかしそこからはこのネズミのモールにはダイレクトにはいけない。
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又一部移転したすぐ南のPasar Grosirにもダイレクトにはいけない。皆3~5百メートルであるので歩けばどこにも行けるがネズミに気を付けねばならない。カリブサールの少し上流で左手がパサールパギ、右手がアセムカとなると思う。

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2017年6月23日 (金)

蘭印の設計家シュマケル兄弟

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大分前に「Jiwasrayaの源流 OLVEH」として紹介したOLVEH記念館でこの5月にOLVEH展が開かれ、それについて本間女史が「オランダ領東インド時代の奇才シュマケルの現代的商品価値」と言う小論文を書かれていたのを目にした。

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この建物の設計家は蘭領時代の設計家シュマケルであるが、シュマケルは弟もおり、この展示会のポスターに兄弟で写真が出ており、またこの建物を引き継ぎ保有している国営生保JiwasrayaのホームペイジにもSchoemaker 兄弟,つまりC.P. Wolff Schoemaker (CHARLES PROSPER (C.P.) WOLF SCHOEMAKER)と L.A. Schoemaker (Richard Leonard Arnold Schoemaker)と出ている。読み方に英語風ではシューメーカーだしドイツ読みではシューマッヒャーと自信がなかったので今ブログにするわけである。弟のRichard (1886~1942)は確かにバンドンのTHB(現ITB)で建築の教鞭をとったりしているが、その前に彼は軍のアカデミーで尉官でありフェンシングのオリンピックの選手であったりの伝記が有名だ。アカデミーの後デルフトで建築学を5年履修の所アカデミー卒であるので2年で卒業し蘭印に赴任した。THBは1920年から1924年であるが、その後本部のデルフトの学部長として迎えられITB職はWolfに任した。本国ではドイツの戦雲急で彼は軍籍復帰し地下活動する中で、最後はドイツ軍に逮捕され翌日キャンプで銃殺されている。

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今インドネシアに残る彼らの遺産は圧倒的に兄(1882~1949)のCP. Wolff Schoemakerの方が多くなる。
シュマケル兄弟の合作をあと一つ紹介するとそれはバンドンJl.Acheにある師団司令本部(Makodam)である。Makodamが取る前は蘭印軍最高司令官の公邸で、豪壮な構えの宮殿作りであった。

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2017年6月21日 (水)

新規プロヴィンス8州

タイトルがおかしいが私にとっての新規である。
インドネシア共和国の州の設立リストを見てみるとジャワ各州は1950年であり、一番新しいのはつい最近2012年の北カリマンタンである。各州まちまちでそこに歴史の」痕跡があり興味をそそる。
Map_of_indonesia
まずはいくつの州があるか、小生に取っては長く27州であったが現在は34州である。数えると26となるが、東チモール州がインドネシア共和国から独立していたのを忘れていた。27の時代はスハルト迄であり、その後新設は8州もあった訳であるが、これが西パプアを除き、権利に目覚めたインドネシアの象徴である。但し今後も続くのか思いをはせても、思いつかない。パプアは逆に政権としては分断したいはずであるが、住民は結束するのだろうか

Maluku Utara Sofifi
1999/10/4
Papua Barat Manokwari
1999/10/4
Banten Serang
2000/10/4
Kepulauan Bangka Belitung Pangkalpinang
2000/11/21
Gorontalo Kota Gorontalo
2000/12/22
Kepulauan Riau Tanjung Pinang
2002/10/25
Sulawesi Barat Mamuju
2004/10/5
Kalimantan Utara Tanjungselor
2012/10/25

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2017年6月20日 (火)

ブカシのGedung Juangと日本

ブカシのTambun通りにインドネシア独立戦の遺産の建物が残っている。

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これについてはこのブログで「http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/gedungjuang45-0.html」として紹介したが、ウイキペデイアに日本占領時代の事が少し書かれている。。。。
1943年になって日本軍がやってきて、この建物を占領し 行政本部の施設として使用した。その後日本敗戦の時ブカシ地区はここから汽車を使ってスバンのカリジャティ経由引き上げようとしたが、インドネシアの青年団はレールを曲げ列車が転覆をはかった。
多くの日本軍は武器を商品倉庫にかくして残して来たので丸腰であった。そこでどのような悲惨なことが起こったかは記載がなかったが、累々の死体はブカシの川に投げられ捨てられたそうである。
その後は連合軍との戦いでインドネシアの司令本部となり色々な施設として利用され今日に至っている。

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2017年6月19日 (月)

Pantjoran Tea House

コタに行ってなんとなく皆の記憶に残る店がある。
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コタはパンチョランの入り口で今改装されPancoran Tea Houseと言う綺麗な店になっている。
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ここはグロドックでこのパンチョラン の入り口左手はグロドックパッサールという中型ショッピングモールがある。このTea Houseは1928年からのApotheek Chung Hwaと言う名前のアポテク(薬局)でバタヴィアで最古の店であった。ここでは中国茶のred teaが出されるが、オランダの植物学者Andreas Cleyerが1684年に日本から種を持ち込んでコタのTijgergracht(タイヘル運河通り) で栽培した歴史もあるそうだ。
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ジャカルタ動乱前はここはCity Hotelがありテントの店などが密集していたところでクバヨランからここまで薬を買いに来ていたことを思いだす。或いは繊維の問屋もこの辺りに多く、営業担当に付いて行って店の旦那に濃いインドネシア・コーヒーを頂戴したこともある。

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どこかの店に飾ってあった風景絵が手元にあり、見るとまさにこの店の昔の薬剤店の絵であった。このパンチョランには今でも何百単位の薬の店がある。室内はシックな作りで落ち着けそう。いろいろな中国茶の他焼売や揚豆腐みたいな中華軽食もある。贔屓に出来そうだ。


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2017年6月15日 (木)

気になるタムリン

国家英雄タムリンについては何度かブログしているが間違いがあった点も多く以下に補充してみよう。間違いが不確かに上がるだけかもしれない。彼は1894年2月16日にSawah Besarで生まれ、1942年1月11日に亡くなりKaretに埋葬された。

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父はオランダ人(蘭英?、母はベタウイ)でWedanaと言う郡長(?)であったのでオランダの学校(Willem III ギムナシウム)に通ったが父が早くなくなり、小さい時から住民との素直な付き合いの中からベタウィ代表として議会やVolkslaadに選ばれていった。その間KPM(オランダ王立海運)の職員でもあった。そこでオランダ人の社会運動家と知り合い活動していったのである。祖父にさかのぼると名前はOrtでイギリス人で母はブタウウィであったことから残された地所がPetojoにある街の中にあるサッカー場(祖父はここでホテルをやっていた)である。Sawah Besarは現在の同名の駅の一帯か、Sawah Besar No.32 とあったがそれはH.Wuruk通りに近いKebon Jurukだとgooglは表示するがこの辺りは密集地帯で現在では金持ちが住むようなところには見えない。
彼は議会でオランダ独占を破り副市長(wakil Warikota)になりまたインドネシア独立の為の指導的役割を担っており、1919年市議会、1935年(or1927年)Parindraを代表し国民参議院(Volksraad)に議員となった。

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このGedung Kenariもその活動のための集会所として元オランダ人の倉庫を購入したものである。古くは1928年のPNIの集会、1935年アラブ統一集会、1939年Parindra合体集会である。
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日本占領後偶々皇帝の絵がある仁丹を持ち上げた話から日本のスパイの嫌疑をかけられた。最後は多くの秘密警察に自宅に拘禁されその時はマラリアにもかかっていたこともあり他殺説もあり、死亡原因は解っていない。死亡場所をSenen(Sawa Besarに隣接)とするものもある。写真の一つはorangbetawi.comから借用、2016年対する小生のは相当古い 20年前としておこう。あまり変わってない。

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2017年6月14日 (水)

第2の国家英雄墓地

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ラマダン前或いはレバランにインドネシアではお墓参りする慣習がある。ジャカルタ新聞でラマダン前の州営墓地カレット・ビファックのお詣り風景を伝えていたが、ここはPejomponganで先般このブログで、この下のカレット堰(Bendungan Hiril)やプジョンポンガン浄水場についてふれたが今回小生に取っては大きな新発見があった。ジャカルタ新聞では、ある家族のお詣り風景を描いていたが、
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実はここにあの国家英雄MH.Thamrinのお墓があるのだ。昨年の話だったのだろうかAhok知事もラマダン・レバランに際し亡くなったジャカルタ州知事のお墓参り(menziarahi)をしたのであるがその時はカリバタ英雄墓地とここカレット墓地を訪問している。
カリバタでお祈りを捧げた英雄には以下の人が挙げられていた。
初代知事 Swiryo、第5代Sudiro Hardjodisastro 12代Letjen TNI (Purn) Wiyogo Atmodarminto、その他にAhmad Yani, Soedharmonoであるが、その時カレットに回ってThamrinと作曲家Ismail Marzukiに花を捧げていた。Ismail Marzukiもここだったのである。
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タムリンに話をも押すとタムリンとここにはつながりがあり、彼の政治活動の傍ら、住民福祉にも意を払い、住民への上水の供給のある農村ずくリを掲げて活動した。そういえばこの墓地の前の道はJl.Penjernihanと言うがそれは透明clearの意味で浄水に関した名前だったのである。彼には又サッカーを生活の中に根付かせた功績もある。

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2017年6月 6日 (火)

Gedung Syafrudin Prawiranegara

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ラパンガン・バンテンの奥の旧財務省の裏(Jl. Lap. Banteng Timur No.2-4)にあるのがこのビルで美しい白亜の旧ダーデルス宮殿の裏から突き出で景観を損なっている。ここには財務省の国富管理総局(Dirjen Kekayaan Negara 森友学園で言えば理財局か)であるがその建物のニックネームにつけられたのがSyafrudin Prawiranegaraで、なぜここに?と疑問に思うが彼も財務大臣であったのだ。それも3回もであるが46年、49年、50年の何れも数ケ月の短期であった。しかし彼はスカルノの反乱であったPRRIのリーダーであったこともあるが最後は国家英雄で一言では言い表せない。
伝記記録を示すと1911年バンテン生まれ、母はミナンカバウで1989年77歳で亡くなっている。ジャカルタ法科大卒で1948年のオランダ第二次侵攻の際のスカルノのジョクジャ国内亡命を助ける政府代理PDRIを務め危急を救ったが10年後の1958年は押されてスマトラに樹立したPRRIの首相を務めたほか、順不同で言えば商業大臣、農業大臣、BI総裁、副首相を目まぐるしく連ねている。

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この建物がこの名前であろうと言うのは財務省のサイトからである。この総局リストでダーデルス側にあるのは先に紹介したGd. Prijadi Praptosuhardjo I, (ここも住所は同じJl. Lapangan Banteng Timur No. 2-4)のみである。他にこの所にあるOJKの建物はGedung Soemitro Djojohadikusumoで住所はOJKのサイトでJalan Lapangan Banteng Timur 2-4とあるので同じコンプレックスである。その隣がGedung Wardanaであるが
此方は経済調整大臣府のサイトでその名前を確認しておるので真ん中の白亜はGedung Maramisであるがそれは財務所のサイトでHERITAGE BANGUNAN KEUANGANとして確認できる。ここに入居しているのはどこかとなると多分Perpustakaan Direktorat Jenderal Pengelolaan Utang (DJPU)謎の名前が見える。これでダーデルス側はラパンガンバンテン・グドゥングマラミス側と言えるし主要な建物の名前を確認したのはGoogleもWikiなども若干混乱があったからである。(googleではこの建物を含めニックネームの名前なく 唯一あるMaramisは場所が違うかな) 

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